栃錦清隆 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年(大正14年)2月20日 - 1990年(平成2年)1月10日)は、東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身の大相撲の第44代横綱。本名、大塚清(おおつか きよし)(のちに栃木山の養子になり、中田姓)。身長178cm、体重132kg。春日野部屋所属。初代若乃花幹士との栃・若時代で相撲界に戦後屈指の黄金時代を築いた。軽量の業師のイメージで語られることが多いが、横綱昇進後は体重も増え寄り・押し中心の相撲。引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめ、両国国技館建設などに尽力した。JR小岩駅構内に彼の銅像が立っている。愛称・土俵の名人、マムシ。(小兵であるにもかかわらず廻しを取るとしぶとく寄る、食らいついたら離れない取り口から) 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
春日野 清隆 /
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蛇の目傘の製造を営む家の二男として生まれる。少年時から運動神経は抜群で、近所の八百屋の勧めもあって春日野部屋の門を叩く。昭和14年1月場所初土俵。四股名の栃錦は師匠春日野が自分の現役名栃木山と師匠の兄弟弟子大錦からつけた。この場所4日目双葉山が安藝ノ海に敗れて連勝が69でストップしたが、この「世紀の一番」を兄弟子の世話のために花道の奥にいて目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」とのちのちまで語った。
はじめ兄弟子の付き人についたが、年端もいかないうちからこきつかわれるのを見かねた春日野が自分付きにした。その食事の世話などをしながら、さまざまな訓話を聞かされた。新十両が決まった時、親方の指示で靴磨きをしていたが関取にしか着用を許されないドテラを着ていることに気がついた親方に「おお、すまん、おまえはもう関取だったな」と言われたことがあった。
「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。幕下時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、この日栃錦はちゃんこ番だったにも関わらずこれに参加した。そして双葉山と組んだ瞬間に「おまえ魚くさいな」と冗談交じりに言われて放り投げられたらしい。また、師匠のつかいで料亭の双葉山を訪ねた時、その場にいた芸妓の美しさと、そんな美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。
新弟子検査は、飯と水を腹一杯に詰め込み、はかりの上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したというほどの軽量で、周囲からの期待はさほど大きくなかった。ただ、春日野だけは「三段目にあがってさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。というより、有望な弟子たちをつぎつぎ兵役にとられていくなかで、春日野としては彼に期待するしかなかったのだろう、とも言われている。後に春日野は「新十両の頃はこれが唯一の関取経験になると思ったら十両でも通用した、そう思った頃には幕内になって、それでも上位には通用しないと思ったら三役、三役はつらいかと思ったら大関になった、大関になって流石に横綱は無理だと思ったら横綱、こんなことなら若い頃からもっと稽古をつけるべきだった」と語っている。
昭和19年5月場所十両昇進。しかし、同時に徴兵され終戦まで軍隊生活を送る。その体格のため、最初は関取とは思ってもらえなかった。上官との訓練としての草相撲でも手心を加えることがなく連戦連勝、それでようやく十両力士だと知ってもらえた。
昭和22年6月場所入幕。入幕時の体重はわずか75kgしかなかった。この場所は4勝6敗と負け越しだったが、このときはまだ東西制が実施されており翌場所の陥落を免れる。翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、これは強運だった。この後、幕内に定着する。
昭和26年1月場所、前頭2枚目で初日から7連敗したが、8連勝して勝ち越した。当人によれば、「上に負けて下に勝ったというだけ」となるが、もうひとつも負けられないところからの復活は恐るべき集中力といえるだろう。翌場所再小結、以降三役に定着し大関横綱へ駆け上がっていくので、この勝ち越しは大きかった。昭和27年9月場所、途中高熱を発したが14勝1敗で初優勝、感涙に暮れた。場所後大関に昇進、このとき体重98kg。
平幕から三役にかけては、「相撲の技はすべて使った」といわれる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを技の展覧会と評されたりもした)。幕内を通して記録した決まり手の数が48なので、必ずしも大げさな比喩ではない。現在でも反り技など滅多にでないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞するなど、「技能賞は栃錦のためにある」とまで言われた。
一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し、そして大成した例は少ない。
大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、新弟子検査の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。
1954年(昭和29年)5月に14勝1敗の好成績で大関では2度目、通算では3度目の優勝を果たす。この当時横綱審議委員会の連続優勝に関する内規は成立しておらず、諮問されたが見送られる。当時すでに東富士、千代の山、鏡里、吉葉山の4横綱がいたため、前例のない5横綱時代が実現しかねなかった。翌9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、連続優勝しそうな気配だったが、下手をすると今度も見送られる可能性があった。だが、東富士が14日目に突然自ら引退を申し出た。同じ江戸っ子力士同士通じ合うものがあったのだろう。栃錦もすぐに付き人を使者に立てて、自分のために引退しないようにと願ったが、東富士もそういう栃錦だからこそ後事を託すに足ると感じたかもしれない。
そして、栃錦は千秋楽に吉葉山に勝ち14勝1敗で連続優勝を決め、場所後に第44代横綱に昇進した。結果的に東富士の引退と栃錦の横綱昇進は重なることになり、「一瞬の5横綱時代」とされている。番付面で5横綱が並ぶことは現在までないが、まだ髷を落とす前の東富士を交えて、5人の横綱がそろった写真が数枚残されている。
横綱昇進を果たした夜、師匠から「今日からは毎日やめる日のことを考えて過ごせ」とさとされた。横綱になったその日のうちに引退の話をされ、さすがに驚いたというが、そういう春日野は3場所連続優勝の後で突然身をひいてしまった人物である。その教えは重く受け止めた。
若い頃、部屋は違うが同門の弟弟子千代の山が自分より若いにも関わらず出世で追い越され、一時期千代の山との稽古を嫌っていた。しかし師匠に「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には「儂は昔千代の山との稽古で歯をやられたから儂だけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山自慢の突っ張りを何発も顔に当てた影響で早く歯を失なったらしい。元千代の山の九重が一門から破門されても決して険悪にはならず、後に理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。
昭和34年7月場所では14日目に優勝を決めたものの、その日の晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故にあい死亡するという悲運に見舞われた。しかし翌日の千秋楽に若乃花を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした。最後の優勝となった昭和35年1月場所では、この年からエール・フランス航空が毎年、初場所の優勝力士を欧州に招待することになり、栃錦は武蔵川とともに渡欧した。
若乃花とは昭和26年5月場所の初対決からいきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(この初対決は若乃花の勝ち)、以来常に熱戦、好勝負を演じ続けてきた。栃若の対戦となれば水入りは当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場したテレビを通して全国のファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士たちをなぎ倒す二人の姿に、敗戦から復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々は多かった。土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防がテレビ時代の到来にふさわしいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士たちの活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に 「栃若時代」という。
相撲っぷりだけでなく、土俵上の立ち居振る舞いも栃錦の人気の源であった。両の歯を食いしばり気迫に満ちた仕切りを重ねる毎に肌が朱に染まっていき、立合いの時には足の親指が土俵にめり込むかのようにじりじりと腰を割り、一気に立ち上がるという栃錦の姿はファンを虜にした。
その一方で小兵のハンディをカバーするため早く立ち合おうとする余り両手をつかずに立ち上がるようになり、それが後年の立合いの乱れにつながったと指摘する人は多い。間違いなく相撲界の大功労者だが、立合いだけは唯一の汚点だとされ、栃木山は滅多に栃錦の相撲を批判することはなかったが、立合いについては「下ろさないと損だ」と注意していたという。しかし師匠に敬服していた栃錦もそれだけは譲らず、どんな先輩や識者の言う事も聞かなかったらしい。現役時は注意されてばかりだったが、理事長時代は逆に手を下ろす事を皆に勧め現在のように一般化させた。
昭和33年後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体(本人は照れ混じりに「年増太りだよ」と語っていた)を逆に生かし正攻法の相撲に変え昭和34年3月場所で「奇跡」とまで言われた復活優勝を果たし、その後引退まで12勝を下回る事がない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率9割0分5厘)という驚異の成績を続ける。
まだ現役中の昭和34年に師匠が亡くなると、前年に原則廃止されていた二枚鑑札が特例として認められ部屋を継承する。昭和35年3月場所、若乃花と史上初めて14戦全勝同士で千秋楽に対決し、敗れる。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗(優勝決定戦を除く。うち一回は昭和31年9月場所、栃錦の不戦勝。この場所は直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった)。翌5月場所、初日から2連敗すると潔く引退した。
引退後は先代から引き継いだ栃ノ海を横綱、栃光を大関にまで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。年寄春日野としては、「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。本人いわくこれは現役時代に師匠から受けた指導を受け継いだものだという。審判部長、事業部長などを歴任。審判部長としては昭和44年3月場所2日目の戸田 - 大鵬戦[1]昭和47年1月場所8日目の北の富士 - 貴ノ花戦[2]といった判定を巡る歴史的な大事件に関わった。昭和49年日本相撲協会理事長の職を武蔵川親方から継ぐ。この時、武蔵川親方の娘婿である出羽海親方(元横綱佐田の山)が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。
しかし理事長となってからは新両国国技館への移転という相撲協会にとっての大事業に際して、これを無借金で建設する(理事長就任の際、武蔵川前理事長から「新(両国)国技館を建てるのは君しかいない」とメッセージを託されている)、椅子席観覧客の待遇を改善する、相撲茶屋制度を改革するなど、後の若貴兄弟人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を大鵬、鏡山(元柏戸)、出羽海(元佐田の山)、時津風(元豊山)などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と大きく素早い動きを見せて7期14年の長期安定政権を維持した。理事長就任当時は協会内部で主流派、反主流派の派閥争いが展開されており前述の「短期政権になる」と見られる原因となっていたが、派閥に関係なく能力次第で協会の要職に登用するなどして争いは沈静化し、「すぐに『理事長に一任します』と言われて拍子抜けするんだ」と本人が述べるほどスムーズな協会運営ができるようになり長期政権を維持する元となった。その後、糖尿病などの影響で、一時は歩けなくなるほど体調が悪化するが、これを克服。昭和60年には落成したばかりの國技館で露払いに出羽海(元佐田の山)・太刀持ちに二子山(元初代若乃花)をしたがえ還暦土俵入りを披露した。
昭和63年、理事長職を二子山に譲る。平成元年11月、11月場所の開幕直前に脳梗塞で体調を崩し、福岡市の病院で停年を目前にして平成2年1月10日死去。64歳であった。二子山理事長は記者会見で「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と涙をぬぐい、共に土俵を盛り上げた好敵手の死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷などを行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。
なお、連勝の自己記録は24でこれも初代若乃花と同じである。
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1947年 (昭和22年) |
x | x | 西 前頭 #18 4–6 |
x | 西 前頭 #16 9–2 |
x |
| 1948年 (昭和23年) |
x | x | 西 前頭 #8 5–5–0 (引分1) |
x | 西 前頭 #7 7–4 |
x |
| 1949年 (昭和24年) |
西 前頭 #3 7–6 技 |
x | 西 前頭 #3 4–11 |
x | 西 前頭 #7 12–3 技 |
x |
| 1950年 (昭和25年) |
西 小結 8–7 技 |
x | 東 小結 5–10 |
x | 東 前頭 #3 8–7 技★ |
x |
| 1951年 (昭和26年) |
東 前頭 #2 8–7 |
x | 東 小結 9–6 技 |
x | 西 関脇 9–6 技 |
x |
| 1952年 (昭和27年) |
東 関脇 10–5 技殊 |
x | 東 関脇 10–5 技 |
x | 西 関脇 14–1 技 |
x |
| 1953年 (昭和28年) |
東 大関 11–4 |
東 大関 14–1 |
東 大関 13–2 |
x | 西 大関 8–7 |
x |
| 1954年 (昭和29年) |
西 大関 9–6 |
西 大関 9–6 |
西 大関 14–1 |
x | 東 大関 14–1 |
x |
| 1955年 (昭和30年) |
西 横綱 10–5 |
西 横綱 12–3 |
西 横綱 14–1 |
x | 東 横綱 4–3–8 |
x |
| 1956年 (昭和31年) |
西 横綱 9–6 |
東 横綱 9–6 |
西 横綱 5–5–5 |
x | 西 横綱 11–4 |
x |
| 1957年 (昭和32年) |
東 横綱 11–4 |
西 横綱 11–4 |
東 横綱 12–3 |
x | 東 横綱 13–2 |
東 横綱 12–3 |
| 1958年 (昭和33年) |
東 横綱 11–4 |
西 横綱 11–4 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 12–3 |
西 横綱 6–5–4 |
休場 |
| 1959年 (昭和34年) |
西 横綱 10–5 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 12–3 |
西 横綱 12–3 |
| 1960年 (昭和35年) |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 14–1 |
西 横綱 引退 0–3–12 |
x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
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