横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。
同球団の二軍(イースタン・リーグ所属)の球団名は湘南シーレックス。同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場及び合宿所として横浜ベイスターズ総合練習場を有する。
横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。
球団の歴史
下関・大阪・京都時代
川崎時代
- 1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は松竹との合併前よりもさらに低迷。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、読売ジャイアンツから獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チーム1954年から1959年まで6年連続最下位。
- 1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。
- 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦・クリート・ボイヤー・桑田武・松原誠・平松政次・ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
- 読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の読売ジャイアンツに打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋ホエールズだった。それも実は両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかしながら、皮肉にも桑田武やジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に読売ジャイアンツにトレードされていった。
- 1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
- 1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。
- 松原・米田といった守備の名手に加え、ボイヤー-シピン-ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。その後1980代に入っても山下、基のち高木に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト。」といったプレイを実際に行っていた。
横浜時代(ホエールズ)
- 1978年、国土計画の主導で横浜市中区[1]に建設した横浜スタジアムに移転[2][3]、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[4]など営業体制の改革を伴ったこの改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBSへ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
- 1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えた。長嶋一茂をドラフト1位指名するなどの経営方針があったが、長嶋招聘は失敗した。
- ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産球団との交渉が破談した。
- 田尾五打席敬遠(詳細は出来事の項を参照)を行い物議を醸す。
- 遠藤一彦はエースとして連年の200イニング以上登板を記録し、当時読売ジャイアンツに在籍したクロマティからメジャーリーグで活躍できる選手と称された。
- 1985年、1982年の前述の試合と奇しくも因縁のある近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目された。しかし、遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
- 1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、成績は振るわず。
- 大リーグ挑戦に失敗した若菜捕手を獲得。エース遠藤のフォークボールをノーサインで受けるテンポの良い野球が好評だった。
- 1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。[5]
- 翌年訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある。
横浜ベイスターズ時代(マルハ)
- 1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。また、高木豊・屋鋪要・市川和正ら主力選手が大量解雇された。これは駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。
- 1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。
- 1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。しかし、フロントにおける近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。また、鈴木尚典が3番レフトに定着。後のマシンガン打線を構成する主要なメンバーがほぼ出揃った。
- 1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。
- 1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。しかし、勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。
- 1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。
- 相思相愛の松坂大輔を1位指名したが抽選漏れ。
- 1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
- 2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
- ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
- 2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、ルールに救われる形で5年連続のAクラス(3位)を確保する(この年の順位に関しては後述)が、これは「日本プロ野球史上最もおかしいAクラス」という声が少なくない。
横浜ベイスターズ時代(TBS)
- 2002年、開幕から低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。
- 2003年、山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、他球団や他球団のファンからは完全にお荷物扱いされる。
- 2004年、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退し45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
- 2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
- 2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、4・5月に低迷。6月以降は、共に福岡県東福岡高校出身である村田修一・吉村裕基若手野手の台頭、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。
- 球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、またしても2年で監督が交代することとなった。
- シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁をソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。また、数年前から毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。さらには、この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激変のオフとなった。
- 2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。前年FA移籍した門倉健の人的補償として、当時215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。移籍組やベテラン勢の活躍により、前半戦は一時首位に立つなど3位で折り返す。後半戦は連敗もあり借金を作るが、最終戦前で返済。
- 最終戦に敗れて勝ち越しは逃したが、村田修一の球団日本人選手桑田武以来31年ぶりの本塁打王及び球団初の2年連続100打点や三浦大輔の35イニング連続無失点、寺原隼人の2試合連続完封など主力選手の活躍が目立った。
- 1月15日、産業能率大学と業務提携し調印することとなる。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
- 3月30日〜4月13日、開幕から黒星と白星が交互に続くいわゆる「ぬけぬけ」が12試合続いた。開幕からとなるとこれはプロ野球新記録。
- 9月17日、横浜ベイスターズとなってからの初代オーナー中部慶次郎(1992-2002。大洋時代も含めれば1990-2002)が逝去。
- 2008年、阪神キラーの三浦を開幕投手に欠くと、開幕カードの阪神戦を3連敗する。その後もチームは2002年、2003年の再来と言わんがばかりの低迷を続け、2年ぶりの最下位に終わった。この年に飛躍した内川に加えて、村田・吉村の強力クリーンアップをもってしても投手陣が壊滅的で、大矢監督の継投の拙さもあり、開幕からぶっちぎりの最下位街道を驀進する結果になった。さらに内川の打率(.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。
チーム成績・記録
1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
- (1960年、1998年)
- (1960年、1998年)
- (1960年、1962年、1964年、1969年〜1971年、1979年、1983年、1990年、1997年〜2001年、2005年)※1
- (1950年〜1959年、1961年、1963年、1965年〜1968年、1972年〜1978年、1980年〜1982年、1984年〜1989年、1991年〜1996年、2002年〜2004年、2006年〜)
- 最多勝 80勝(1964年)
- 最多敗 99敗(1955年)
- 最多引分 17分(1979年)
- 最高勝率 .585(1998年)
- 最低勝率 .238(1955年)
- 最多連敗 14 (1955年、2008年)
- 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
- 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年〜2001年)
- 連続Bクラス最長記録 10年(1950年〜1959年)
- 通算4000敗 (2007年4月4日の対広島戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
- ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。
その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
- 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
- 最多本塁打 194本(2004年)
- 最小本塁打 51本(1955年)
- 最高打率 .294(1999年)
- 最低打率 .208(1956年)
- 最高防御率 2.31(1971年)
- 最低防御率 4.94(1977年)
チームの特徴
球団名
- 第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。
- 以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業のかつての主要業務が捕鯨だったことに由来する。
- 現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた。日本人が考えた造語で、英語の母語話者には通じないらしく、『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。また、アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではグリーンベイ、タンパベイなど、湾を意味するベイが入っている地名があるため、一部のアメリカのメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
- 改称時、愛称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としている。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、愛称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。
- 12球団で唯一、球団名に企業名が入っていないと思われているが、広島東洋カープも企業名は入っていない。(以前はマツダの前身である東洋工業の名を冠していたが、東洋工業という会社名は無くなっており、企業のマツダは実質のオーナーではなく日本で唯一の独立採算プロ野球球団である)
マスコット
- 球団マスコットは頭が星形のキャラクターたちである。
- ホッシー - 背番号は登場年に因み1993。瞳が偏っているホッシー(ニューホッシーとも)もいる。背番号2001。
- ホッシーゾ - ホッシーの息子。背番号1993。
- ホッシーナ - ホッシーの娘。背番号1993。
- ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。「中の人」(スーツアクター)は以前に阪神タイガースマスコットの「トラッキー」のアクターとしてその派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「中の人」が東北楽天の「非公認」マスコットMr.カラスコの中の人として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、佐伯貴弘(中の人のに横浜入りを勧めたとも言われている)や三浦大輔、果ては若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。なお、横浜スタジアムで開催された2008年のオールスター第2戦で復活を果たしている。
- 球団のマスコットではないが、横浜スタジアムではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオの番組であるエキサイトベースボールのマスコットである「エキベ〜」が登場する。
応援スタイル
鳴り物応援および チャンステーマも参照
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。その独特の旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。また、移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を隔し応援についての申し合わせを遵守している。
以下は2007年時点のもの
- 本拠地・横浜スタジアムでは試合前イベントの時間を確保する都合上、スタメン発表時に応援歌演奏(1-9)を並行して行っている(メンバー発表→応援歌演奏→メンバー発表→応援歌演奏…の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行っている。
- 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。ホームラン時、勝利時にはその前にファンファーレが演奏される。
- 代打登場時には1回だけ代打のテーマが演奏される。ただし、佐伯貴弘・村田修一・鈴木尚については、代打で登場した場合でもファンファーレや「タカノリ」コールが優先される。
- 投手の打席では投手用のテーマが演奏されるが、三浦大輔の打席に限り固有のテーマが演奏される。過去には斎藤隆・野村弘樹・マホームズに対しても固有のテーマが演奏された。
- 以前は選手別応援歌CDが発売されており、これらの曲が用いられていた。現在(近年入団した選手)では応援団が作成したテーマや、過去(あまり使用されなかった選手)のものを流用するなどしている。
- チャンステーマ演奏時や太鼓が使用できない神宮球場では、応援メガホンやバットを用いず手拍子での応援が行われている。
- 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船は横浜スタジアムで禁止されているため、ファンの間で浸透性が少ないこともあり、ビジター・地方球場でも(勝利時も含めて)飛ばすファンは少ない。
- アウトコールは9回以降にリードしている場面に限り行われる。
- 種田仁の打席時に行われた「タネダンス」や、鈴木尚の打席時に歌詞に合わせて「両手を高く挙げる」動作は、一部の人がやっていたものがいつしか広まっていったものである。
- 東京ドームでは鈴木尚の応援歌を旧応援歌と現応援歌を交互に歌ったり、「熱き星たちよ」をアカペラで歌う等、東京ドーム限定の応援がある。さらに、初回の先頭打者が打席に立った際にロバート・ローズの応援歌(現・チャンステーマ)を演奏して「勝つぞ!横浜!倒せ!読売!」の掛け声を行う。
- 2007年より試合時、1-9の前にファンファーレが演奏されるようになった(初期のころはビジターのみ、ファンファーレは「勝利の輝き」のサビの部分)。
- トランペット、及び笛の使用が禁止されている宮城球場では、メロディー部の口喇叭を含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する夜10時以降にはこの応援を行う。
戦績
- 現存するセ・リーグの球団の中で、シーズン勝率が6割に達したことがない唯一の球団である。最高勝率は1998年の.585。
- 日本シリーズに出場は2回しかないが、現存の12球団のうち、出場していない楽天を除く11球団の中で唯一シリーズ敗退が無い。
- 現存するセ・リーグの5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。セ・リーグ発足時には同じ弱小チームだった広島東洋カープや東京ヤクルトに対しても、前者には1960年代までは勝ち越していた時期があったが、70年代中盤に入ってからの広島黄金期樹立により、逆転(初のリーグ優勝した1975年から10年連続の負け越しを喫した)し、後者に対しても1980年代には6シーズンも勝ち越す(1981年、84年、87年はタイで、負け越したのはヤクルトが昭和最後のAクラスシーズンでもあった1980年だけ)等1979年時点では5つ負け越していたのを逆転したが、1990年代のヤクルト躍進と21世紀に入ってからの横浜の低迷によって勝敗が再逆転した(特に1993年には4勝22敗と大きく負け越し、90年代全体の負け越しの半分以上を占めた)。[6]
営業・ファンサービス
- 以前は巨人戦のみ内野自由席を指定席として販売していたが、2005年以降行われていない。
- 200?年から、レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売するようになった。さらに、2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
- 2005年から、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。これにより選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。しかし、この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
- 試合前・試合中に行われるイベントの種類・回数はかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何らのイベントが行われている。
- 以下は2007年時点のもの
- スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。読売新聞関連の記者には必ずブーイングが起こる)
- スタプリタイム(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
- ベイスターズバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に3〜4回程度)
- ハマスタダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券)
- 帽子の投げ入れ(勝利した場合のみ)
- 第二ヒーローインタビュー(試合勝利後に正面レストラン外に設置されたテラスから、影のヒーローなどを中心にインタビューが行われる。球場の外からテラスを見上げる形になり、当日試合を見られなかった人も勝利の余韻に浸ることが出来る。)
- 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、ならびに(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。
株主構成
- 2008年10月1日現在
- 株式会社東京放送 47万株(51.54%・BS-i保有分と合わせTBSグループとして69.23%保有)
- 株式会社フジ・メディア・ホールディングス 34万株(30.77%・旧法人としてのニッポン放送保有株)
- 株式会社ビーエス・アイ 23万株(17.69%)
上記三社で事実上の株主比率は100%にはなるが、極わずかながら株式会社アール・エフ・ラジオ日本も株を持っている。
フジ・メディア・ホールディングス(フジテレビの親会社)は東京ヤクルト球団株の20%程度かつ横浜球団株30.77%を保有し、日本テレビは巨人の球団株を保有しながらアール・エフ・ラジオ日本に出資しているため、これらの横浜球団株を、全株TBSグループに売却することを検討しているが、実行されていない。
TBSがオーナーでありながら、自社(地上波)での対巨人戦以外の試合の中継はめったに行なわれない。これは、巨人戦以外は視聴率および聴取率が取れない事も起因している。通常はテレビ神奈川の単独で放送し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社およびテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っている。また、フジテレビも放映権は保有しているが、現在は同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために行使しているのが現状である。
その他
ユニフォームの変遷
- 1950年〜1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。
- 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
- 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎