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横綱 とは?

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横綱(よこづな)は、大相撲力士の格付け(番付)における最高位の名称である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称のことである。横綱になった力士は、特別な事情が生じた場合を除き、半永久的にその地位に留まり、引退することによってのみその地位を降りる。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


横綱はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  大相撲の最高位。 大関の位で二場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を挙げると推挙されることになっている。 番付に登場したのは明治に入ってからで、それまでは大関の土俵入り免許だった。 300年もの歴史の中で69人しか誕生しておらず、神に近い存在とも言われる。 主に結びの一番で土俵に上がる。 英語ではGrand Champion(グランドチャンピオン)。 歴代横綱 明石志賀之助 綾川?五郎次 丸山権太左衛門 谷風?梶之助 小野川?喜三郎 阿武松?緑之助 稲妻雷五郎 不知火?諾右衛門 秀ノ山?雷五郎 ...

横綱はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  地名のつもりで書いたならば、「横網」(よこあみ)の誤記。

出典: 『はてなダイアリー』


和英辞典

横綱 [よこづな] 別ウィンドウで表示  …  (n) sumo grand champion (P)

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


第35代横綱双葉山定次

横綱(よこづな)は、大相撲力士の格付け(番付)における最高位の名称である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称のことである。横綱になった力士は、特別な事情が生じた場合を除き、半永久的にその地位に留まり、引退することによってのみその地位を降りる。

現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士の代表する存在であると同時に、依り代であることのとされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務となっている。

横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日の下開山」(ひのしたかいざん)と呼ばれることもある。

目次

歴史

古くは戦国時代に、黒白横綱という黒と白を混ぜて撚り合わせた綱が存在していたとされる。

横綱の誕生

江戸時代に興行としての江戸相撲が人気を博した頃、吉田司家行司の総元締めとしての権力を確保するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。そして1791年寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において谷風梶之助小野川喜三郎が行った純白の綱に幣を垂らした土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになった。

当初は大関の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた。このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士は多く大名の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。

このように第16代横綱西ノ海嘉治郎の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、1890年明治23年)五月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。そして、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱初代小錦八十吉だったと言われている。明治初期は藩閥政治の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「藩閥横綱」も存在したが、近代スポーツとしての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。

  • 横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱常陸山谷右エ門と第20代横綱梅ヶ谷藤太郎の同時免許で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱千代の山を基準とする見方がある。
  • 現在行われている歴代横綱一覧は、第12代横綱陣幕久五郎富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」を基にしているため、伝説上の人物などを含む。

横綱免許

1789年(寛政元年)11月、江戸相撲の司家であった吉田司家が第4代横綱・谷風梶之助と第5代横綱・小野川喜三郎に横綱を授与したのが、横綱免許の始めとされる。吉田司家以外にも横綱免許を出したところは数多く存在したが、吉田司家は文政年間(1818年~1830年)に主君である熊本藩細川家の威を背景として京都五条家との免許権争いに勝利する。これにより吉田司家による横綱免許の授与が制度化され、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められるようになった。

吉田司家は明治初期に西南戦争に連座して一時期権威を失うが、1884年(明治17年)2月に免許を受けた第15代横綱初代梅ヶ谷藤太郎が吉田司家の免許を希望し、復権する。大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人存在する。

現在では吉田司家以外の免許を持つ力士は後に吉田司家の追認を受けた力士を除くと、歴代横綱として認められていない。ただし、礒風音治郎は正式な番付への掲載がなく(明治16年1月は番付外幕内格、5月は客席三役格)、免許は巡業専用であったと解釈されているため追認されていない。吉田司家以外の免許で土俵入りを行った力士の中には吉田司家に遠慮して綱の色(黄色が多かったという)を変えたり吉田司家の地元熊本では土俵入りを行わなかったりする者もいた。吉田司家以外から横綱免許の話を持ち掛けられたが断った力士も存在する。後述の通り、横綱免許を巡る事件も幾つか発生している。以降、第40代横綱東富士までの横綱は、吉田司家で行われる本免許状授与式で免許を授与され、奉納の土俵入りを行うことが通例であった。

しかし、1950年昭和25年)に横綱の濫造を指摘された日本相撲協会が横綱の権威を保つために、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者に横綱を推挙してもらうことを目的として横綱審議委員会(横審)を発足させたことで、第41代横綱千代の山以降に吉田司家の横綱本免許状授与式は行われていない。

慣例として、九州巡業や11月場所(九州場所)前に新横綱熊本市の吉田司家を表敬訪問し、土俵入りを披露する慣わしも踏襲されたが、司家の経済問題による日本相撲協会との絶縁により、1986年(昭和61年)に昇進した第60代横綱双羽黒以降の横綱はこれを行っていない。

非公認横綱

相 撲 四股名 免 許
大坂相撲 八陣信蔵 五条家免許
高越山谷五郎 五条家免許
八陣調五郎 神理教免許
京都相撲 小野川才助 五条家免許
兜潟弥吉 五条家免許
大碇紋太郎 五条家免許

横綱土俵入り

横綱力士は、自身の横綱を締め、「太刀持ち」・「露払い」を従えて横綱土俵入り(現在の型には雲竜型と不知火型の2種類が有る)を行う。

横綱土俵入りは現役の横綱力士にしか許されない特権かつ義務であり、横綱経験者であっても自身の引退相撲を最後にこれを行うことはできない。唯一の例外として、還暦を迎えた時に赤い横綱を締めて行う「還暦土俵入り」がある。横綱土俵入りの披露は、セレモニーとして大相撲の最大の華であり、かつ横綱としての成績も伴っていなければ格好も付かず、いやが上にも横綱力士の責任を大変重いものにしていると言える。

なお、露払や太刀持には、引退相撲や還暦土俵入りなど特別な場合は横綱力士が付き従うことがあるが、それ以外の場合は大関以下(通常、大関は使われない)の幕内力士が務めることが通例である。横綱力士が還暦や引退の土俵入りに付き従う場合でも、自分の土俵入りと同じく自分の横綱を締めることになっている。

露払・太刀持として付き従う力士は、通常、同じ一門の力士の中からから選ばれる。地方巡業などでは、開催地の地元出身の力士などが一門外であっても起用される事がある。また、当日にその横綱力士と対戦する幕内力士は露払や太刀持を行わず、代わりの力士が起用される。

引退後、新たな横綱が誕生した際に横綱土俵入りの型と作法を伝授する事も、横綱を務め上げた力士にとっては重要な責務である。

特権と責務

横綱力士は現役を退くまでその地位を保証される。その代償として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績を求められる。大関以下の力士は、実力が落ちればそれ相応の番付で相撲を取り続けることができるが、横綱にあってはこれは許されない。そのため負傷等により、若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。このため、第64代横綱曙太郎や第66代横綱若乃花勝が引退かつ退職後K-1アメリカンフットボールなどの他競技への転向を試みたことがあったが、これは横綱という地位の持つ特殊性故の現象とも言える。

所属部屋の規模にもよるが、横綱力士には通例15人程度の付け人が付く。綱を締めるのに人手を必要とするためもあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。また、大関が1名以下の場所では「横綱大関」として横綱が大関の地位を兼ねることとなっている。

横綱力士は、特権あるいは責務として、現役力士たちの代表として日本相撲協会の評議員を務めることができ、役員選出などにおける投票権を行使することができる。

その他、横綱力士は、年寄名跡を持たなくても現役引退後5年間は四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承を受けることにより引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。移動においては、鉄道はグリーン席、飛行機はファーストクラスを利用することができる。

昇進

横審と伝達式

「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を上げた力士」という横綱審議委員会(横審)の内規を満たした場合、日本相撲協会理事長は横審に横綱昇進について諮問する。横審は諮問を受けて審議し、出席委員の3分の2以上の賛成があれば横綱推薦を理事長に答申する。理事長は答申を受けて臨時理事会を招集し、理事会において横綱昇進について決議し、正式に横綱昇進を決定する。しかしながら、理事会は横審の答申を全的に尊重するため、横審が横綱昇進についての事実上の最終決定機関となっている。

横審の内規が制定されたのは年6場所になった1958年(昭和33年)1月6日であるが、それ以降「~準ずる成績」の部分が拡大解釈され、多分に興行上の必要性もあってほとんどの力士が連続優勝を果たさなくても横綱に昇進する事が出来た。年6場所制では、連続優勝で昇進したのは大鵬北の富士琴櫻のみという状態であった。そのため、これに対して「粗製乱造」の批判が高まった。とりわけ、1987年(昭和62年)に一度も優勝経験がない第60代横綱双羽黒光司がトラブルを起こして廃業したことにより、横審の答申が問題視されるようになった。このため、それ以降は横綱推薦基準の第2項「大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする」を厳格に適用することとなり、第63代横綱旭富士正也以降は全て2場所連続優勝しての横綱昇進となっている。

横綱昇進が決定すると、協会を代表して理事と審判委員各1名ずつが当該力士のもと(東京場所なら所属部屋、地方場所なら宿舎となっている旅館・寺社など)にその旨を伝達に訪れ、「昇進伝達式」が行われる。昇進伝達の使者は、当該力士が属する一門の年寄が務めるのが通例となっている。当該力士は、所属部屋の親方夫妻を両脇に従えて使者を出迎え、「謹んで御受け致します」「横綱の地位を汚さぬ様」「稽古に(相撲道に)精進致します」「本日は誠に有り難う御座いました」といったほぼ定型の口上で応じる。当該力士は、新番付の発表を待たずに、この時点で新横綱として扱われることになる。

現在では横綱昇進の可否は、千秋楽終了後の時点では事実上確定しているといってよい。終了後の報道陣の取材に対し審判部長(理事が兼務。理事会招集の権限を有する)が昇進審議のための理事会招集を口にするかどうかで、ファン・視聴者は横綱昇進の有無をかなり的確に判断できる。理事会が招集されて昇進が見送られたケースは極めて少ない。それも、「準ずる成績」だったケースに限られている。よって現在では、理事長から横審への諮問も、横審から理事長への答申も、ほとんどセレモニー化している。

横綱昇進前3場所成績

  • 1960年(昭和35年)以降
  • ◎は優勝、○は優勝同点、△は優勝次点、四股名は横綱
昇進場所 四股名 3場所前 2場所前 直前場所 3場所合計
1961年(昭和36年)11月 柏戸剛 10勝5敗 11勝4敗 12勝3敗○ 33勝12敗
1961年(昭和36年)11月 大鵬幸喜 11勝4敗△ 13勝2敗◎ 12勝3敗◎ 36勝9敗
1964年(昭和39年)3月 栃ノ海晃嘉 11勝4敗 14勝1敗◎ 13勝2敗 38勝7敗
1965年(昭和40年)3月 佐田の山晋松 13勝2敗△ 13勝2敗△ 13勝2敗◎ 39勝6敗
1970年(昭和45年)3月 玉の海正洋 13勝2敗◎ 10勝5敗 13勝2敗○ 36勝9敗
1970年(昭和45年)3月 北の富士勝昭 12勝3敗△ 13勝2敗◎ 13勝2敗◎ 38勝7敗
1973年(昭和48年)3月 琴櫻傑將 9勝6敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 37勝8敗
1973年(昭和48年)7月 輪島大士 11勝4敗△ 13勝2敗△ 15戦全勝◎ 39勝6敗
1974年(昭和49年)9月 北の湖敏満 10勝5敗 13勝2敗◎ 13勝2敗○ 36勝9敗
1978年(昭和53年)7月 2代若乃花幹士 13勝2敗△ 13勝2敗○ 14勝1敗○ 40勝5敗
1979年(昭和54年)9月 三重ノ海剛司 10勝5敗 13勝2敗△ 14勝1敗○ 37勝8敗
1981年(昭和56年)9月 千代の富士貢 11勝4敗△ 13勝2敗△ 14勝1敗◎ 38勝7敗
1983年(昭和58年)9月 隆の里俊英 12勝3敗△ 13勝2敗△ 14勝1敗◎ 39勝6敗
1986年(昭和61年)9月 双羽黒光司 10勝5敗 12勝3敗△ 14勝1敗○ 36勝9敗
1987年(昭和62年)7月 北勝海信芳 11勝4敗△ 12勝3敗◎ 13勝2敗△ 36勝9敗
1987年(昭和62年)11月 大乃国康 15戦全勝◎ 12勝3敗△ 13勝2敗△ 40勝5敗
1990年(平成2年)9月 旭富士正也 8勝7敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 36勝9敗
1993年(平成5年)3月 曙太郎 9勝6敗 14勝1敗◎ 13勝2敗◎ 36勝9敗
1995年(平成7年)1月 貴乃花光司 11勝4敗 15戦全勝◎ 15戦全勝◎ 41勝4敗
1998年(平成10年)7月 若乃花勝 10勝5敗 14勝1敗◎ 12勝3敗◎ 36勝9敗
1999年(平成11年)7月 武蔵丸光洋 8勝7敗 13勝2敗◎ 13勝2敗◎ 34勝11敗
2003年(平成15年)3月 朝青龍明徳 10勝5敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 38勝7敗
2007年(平成19年)7月 白鵬翔 10勝5敗 13勝2敗◎ 15戦全勝◎ 38勝7敗

横綱をめぐる議論

横綱制度

横綱制度をめぐる議論は、横綱不在となったり、そのおそれがあるような時、あるいは逆に横綱力士が揃って不調である様な時、しばしば提起される。ただし、多くは好角家の間での議論に留まる。むろん、相撲協会内部で横綱制度の見直しが論じられることもあって、1951年(昭和26年)には一度は横綱降格制度を考えていたが、この時は見送られた。以降は制度の抜本的な見直しではなく、制度の柔軟な運用で対応するというのが、相撲協会の基本的な姿勢である。

横綱の存在それ自体についても、かつてのような名誉称号でなく地位であるとするならば、その昇進に運不運の不公平があろうとも、大関等と同じく常時東西に1名ずつ常設すべきなのではないか、という意見もある一方、寧ろ名誉称号に戻すべきだとする意見もある。

横綱降格制度の是非は、その地位を陥落することがないことを特権と見るかどうかによって、正反対の視点から論じられる。つまり、どれだけ負けても休んでもその地位を保障されるのは、近代スポーツとしては余りに不合理であるという点からの主張と、その地位を降りることが出来ないために若くして引退に追い込まれる横綱もあり、大関への降格やその位置から再起する選択肢も与えるべきではないかという点からの主張である。

昇進基準

横綱昇進基準については、特によく論じられる問題である。「2場所連続優勝」の基準を厳し過ぎるとするか、甘いとするか、あるいはこれを絶対の「鉄則」として厳密に運用すべきか、将来の有望性や長期的な安定感なども鑑みて柔軟に運用すべきか等が論点となる。

横綱審議委員会及び内規ができる以前はある程度幅のある対応がなされていた。連続優勝で昇進を見送られたのは玉錦三右エ門(年4場所で3連覇)と千代の山雅信(年3場所で2連覇)がいるが、いずれも後に横綱に昇進している。なお、優勝制度確立後に年2場所で大関の地位で2場所連続優勝を決めたのは太刀山栃木山双葉山の3人がいるがいずれも場所後に横綱に昇進しているため、年2場所では皆無という事になる。

しかし、少なくとも年6場所になってからは、この「2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を挙げた力士」が昇進の是非を審議する目安とされてきたのは確かである。双羽黒廃業事件以降、厳密な連続優勝を昇進の条件とすることによって基準が明らかとなった一方で、優勝という形式的な基準に囚われ、相撲の内容が顧みられないという問題も起こった。

具体的なケース

  • 旭富士正也は、1988年(昭和63年)1月場所を14勝で優勝、続く3月場所と5月場所を各12勝した。さらに1989年(平成元年)には、1月場所から5月場所までの3場所を14勝(優勝同点)、13勝(次点)、13勝(優勝同点)と極めて高いレベルで安定した成績を残した。以前なら当然横綱に昇進できる成績だったが、昇進することが出来なかった。最終的に横綱に昇進したものの、昇進が遅過ぎたためか横綱在位は僅か9場所(うち皆勤は6場所)、在位中の優勝は1回に留まった。
  • 小錦八十吉は、1991年(平成3年)5月場所と7月場所を14勝(優勝同点)、12勝(次点)、また同年11月場所から1992年(平成4年)3月場所までの3場所を13勝(優勝)、12勝、13勝(優勝)と極めて安定した成績を残したにもかかわらず昇進出来ず、外国人横綱を誕生させることへの抵抗の有無が取り沙汰された。小錦はこの昇進見送りに気落ちしたのかその後失速、終盤まで優勝争いに絡む事がなくなり、そして1993年(平成5年)11月場所で大関において2場所連続負け越したことにより、関脇に陥落が決定してしまった。
  • 貴乃花光司は、1993年(平成5年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)、13勝(同点)としたが、協会から横綱審議委員会への諮問がなく昇進はならなかった。翌1994年(平成6年)は1月場所から9月場所までの5場所中3場所で優勝、うち9月場所では全勝を果たし(14勝-11勝-14勝-11勝-15勝)、9月場所後には協会から横綱審議委員会への諮問が行われたが、またも昇進を見送られた。横審が昇進を答申しなかったことは、2場所連続優勝でないこと、特に7月場所の11勝で貴乃花の綱獲りは白紙に戻ったとしながら、次の9月場所の全勝で横綱推挙を言わば強行した協会の姿勢への批判などが大きな要因だった。横審の委員の中では貴乃花の昇進に賛成する者が過半数だったが、内規に定められた「出席委員の3分の2以上の賛成」には達しなかった。しかし翌11月場所でも15戦全勝し、2場所連続全勝優勝という双葉山以来非の打ち所のない成績で、ようやく横綱昇進を果たした。
  • 武蔵丸光洋は、1994年(平成6年)5月場所と7月場所を12勝(次点)、15勝(全勝)という成績だったが、横綱問題は議論されなかった。5月場所が大関になって初めての2桁勝利であり、優勝次点も優勝の貴乃花に2点差で、7月場所に武蔵丸の綱獲りのムードはそもそもなかった。翌9月場所に綱獲りに挑むも11勝に終わっている。
  • 3代若乃花は、1996年(平成8年)11月場所と1997年(平成9年)1月場所を11勝(同点)、14勝(優勝)と2場所連続優勝に準ずる成績を残しながらも、昇進を見送られた。優勝なしの11勝は優秀な成績とはいえないとの見方もあり、この頃から「綱獲りは優勝が基点となる」という協会の態度が定まる。翌3月場所は横綱昇進のチャンスだったが、初日から3連勝しながらも3日目に右足を大けが、4日目から途中休場となった。
  • 魁皇博之は、2004年(平成16年)9月場所と11月場所を13勝(優勝)、12勝(次点)の成績を残しながらも、昇進が見送られた。11月場所は初日を落とした後朝青龍と並ぶことが遂に無く、14日目での優勝を許してしまったのが大きかった。千秋楽に朝青龍を下して12勝とし、翌2005年(平成17年)1月場所に綱取りの可能性を繋いだが、左肩腱板炎のため途中休場し昇進は白紙に戻った。その後の魁皇は勝ち越しと途中休場の繰り返しが続き、又勝ち越しても最高で10勝を挙げるのが精一杯で、さらに高齢もあって横綱昇進は絶望視されている。
  • 白鵬翔は、2006年(平成18年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)、13勝(次点)の成績を残しながらも、朝青龍に独走を許したのがマイナス要因となり昇進を見送られた。新大関から2場所での横綱昇進は年6場所制で初めてとなるため、特に高いレベルでの連覇が求められたためもある。関脇時代の1月場所からの4場所連続13勝以上は、考慮されなかった。翌9月場所は再び昇進のチャンスだったが8勝7敗の成績不振で綱取りは振り出しになった。2007年(平成19年)3月場所は13勝(優勝)したが、優勝決定戦の内容が立ち合いの変化であったため印象が悪く翌5月場所は十分な内容が求められることとなった。その5月場所で自身初の全勝優勝という文句なしの成績を残し、横綱昇進を果たした。
  • 逆のパターンとして、第63代横綱・旭富士正也は1990年(平成2年)3月場所にギリギリ勝越しの8勝の後、同年5月場所と7月場所を各14勝の連続優勝により昇進。第64代横綱・曙太郎は、1992年(平成4年)7月場所の新大関場所で全休し翌9月場所に9勝と一桁勝利の後、11月場所と1993年(平成5年)1月場所を14勝と13勝の連続優勝により昇進。第66代横綱・若乃花勝は、直前場所の1998年(平成10年)5月場所は12勝の低レベル優勝でありながらも、3月場所と5月場所を14勝と12勝の連続優勝により昇進。第67代横綱・武蔵丸光洋は、1999年(平成11年)1月場所が千秋楽で辛うじて勝ち越しの8勝の後に、3月場所と5月場所を各13勝の連続優勝で昇進するなどの例もある。もっとも、第66代横綱・若乃花勝の場合は、その後の優勝が1回もないことや横綱皆勤負け越しなどの不名誉な記録を残しており、かつて理事長職を務めた北の湖(一代年寄)が「13勝以上」の優勝とよく注文を付けるのもそれとは無関係ではないだろう。

このように連続優勝という条件だけに固執する弊害を指摘する声も少なくなく、そもそも番付編成上は優勝と全く公平に扱われている優勝同点の価値が横綱昇進時にのみ低く扱われることも問題視されている。大関昇進は直前3場所の成績で決まるのに、それより高い成績を求められる横綱昇進は直前2場所のみの成績で決まるのは問題があるとして、横綱昇進の内規についても直前3場所の成績で決まるように改めるべきとの声も少なくない。これには、横綱になるためには先ず大関にならなければならない以上、「大関で連続優勝」の条文はその条件を既に内包している、との反論もある。

また、勝ち星が内規にないのも問題とする意見もある。今後は、横綱昇進内規を直前3場所の成績に改めるだけでなく、勝ち星についても具体的に付け加えるべきとの声もある。

  • 1958年(昭和33年)に年6場所制が施行されてから、負け越した(全休含む)場所後の2場所で横綱に昇進した例は皆無である。前述で横綱昇進の際に3場所の成績で見るべきということについて、特に3場所前が負け越し(全休含む)の場合は、直前2場所で高いレベルでの連続優勝(だいたい2場所合計28勝以上)か、連続優勝でなければ2場所合計29勝でなおかつ全勝優勝と14勝の優勝同点か準優勝が求められるべきとの声が多い。横綱なら長期安定こそ望ましいということで、やはり負け越しの後だと成績が不安定だから昇進のハードルを高くすべきだと思われるのかもしれない。
  • 一方で本来、横綱とは数字に表れる強さに加えて力士としての品格・態度が評価されて(「品格」は内規にも明示されている)免許されていたものであり、勝率などで一律に昇進基準を定めてしまっては、その本質を損なうとの反論もある。柏鵬時代を築いた第47代横綱柏戸剛などは、横綱昇進前3場所成績が優勝が1回もない33勝12敗という成績で、大関推挙の目安としてもギリギリとされるラインの勝ち星にとどまっていたにもかかわらず横綱昇進を果たした。

記録

横綱在位記録

  • 2008年(平成20年)11月場所終了現在
順位 四股名 在位場所数 在位期間 在位中成績
1位 北の湖敏満 63場所 1974年9月-1985年1月 670勝156敗107休、優勝22回
2位 千代の富士貢 59場所 1981年9月-1991年5月 625勝112敗137休、優勝29回
3位 大鵬幸喜 58場所 1961年11月-1971年5月 622勝103敗136休、優勝29回
4位 貴乃花光司 49場所 1995年1月-2003年1月 429勝99敗201休、優勝15回
5位 曙太郎 48場所 1993年3月-2001年1月 432勝122敗166休、優勝8回
6位 柏戸剛 47場所 1961年11月-1969年7月 407勝147敗140休、優勝4回
輪島大士 1973年7月-1981年3月 466勝142敗85休、優勝12回
8位 朝青龍明徳 35場所 2003年3月-現役 378勝71敗76休、優勝20回
9位 千代の山雅信 32場所 1951年9月-1959年1月 239勝103敗1分137休、優勝3回
10位 羽黒山政司 30場所 1942年1月-1953年9月 321勝94敗1分117休、優勝3回
  • 千代の山と羽黒山は、年6場所制定着以前の昇進。羽黒山には、その在位中に戦後の混乱で本場所開催が不定期だった期間がある。
  • 上記力士の横綱土俵入りは羽黒山のみ不知火型、他の9人は雲竜型を選択している。

優勝回数記録

  • 2008年(平成20年)11月場所終了現在
順位 四股名 優勝回数 横綱在位中優勝 全勝優勝
1位 大鵬幸喜 32回 29回 8回
2位 千代の富士貢 31回 29回 7回
3位 北の湖敏満 24回 22回 7回
4位 貴乃花光司 22回 15回 4回
朝青龍明徳 20回 5回
6位 輪島大士 14回 12回 3回
7位 双葉山定次 12回 9回 8回
武蔵丸光洋 7回 1回
9位 曙太郎 11回 8回 なし
10位 常ノ花寛市 10回 8回 3回
栃錦清隆 6回 1回
初代若乃花幹士 8回 1回
北の富士勝昭 7回 3回
  • 双葉山は、幕内在位を通して年2場所制。全勝優勝8回中、11戦全勝が2回、13戦全勝が3回。
  • 常ノ花は、年2場所制で3回、東西合併による年4場所制で7回の優勝。関西場所での4回の優勝は後年の追認となる。全勝優勝3回は、10戦全勝1回、11戦全勝2回。また、1分1預の「土つかず」での優勝がほかに1回ある。
  • 栃錦は、入幕時年2場所制、年6場所制への過渡期での優勝が6回。
  • 若乃花は、入幕時年3場所制、年6場所制への過渡期での優勝が1回。

大関通過場所数

  • 昭和以降

スピード通過記録

大関場所数 四股名 新大関場所 横綱場所 大関での成績
2場所 双葉山定次 昭和12年(1937年)1月 昭和13年(1938年)1月 11戦全勝◎
13戦全勝◎
(24戦全勝)
照國万藏 昭和17年(1942年)1月 昭和18年(1943年)1月 12勝3敗
13勝2敗
(25勝5敗)
3場所 北の湖敏満 昭和49年(1974年)3月 昭和49年(1974年)11月 10勝5敗
13勝2敗◎
13勝2敗○
(36勝9敗)
千代の富士貢 昭和56年(1981年)3月 昭和56年(1981年)9月 11勝4敗
13勝2敗
14勝1敗◎
(38勝7敗)
朝青龍明徳 平成14年(2002年)9月 平成15年(2003年)3月 10勝5敗
14勝1敗◎
14勝1敗◎
(38勝7敗)
4場所 男女ノ川登三 昭和9年(1934年)5月 昭和11年(1936年)5月 (31勝13敗)
羽黒山政司 昭和15年(1940年)1月 昭和17年(1942年)1月 (46勝11敗3休)
安藝ノ海節男 昭和16年(1941年)1月 昭和18年(1943年)1月 (47勝13敗)
輪島大士 昭和47年(1972年)11月 昭和48年(1973年)7月 (50勝10敗)
双羽黒光司 昭和61年(1986年)1月 昭和61年(1986年)9月 (46勝14敗)
曙太郎 平成4年(1992年)7月 平成5年(1993年)3月 (36勝9敗15休)
  • ☆は年6場所制以前の力士、◎は優勝、○は優勝同点、()内は大関通算成績
  • 曙は新大関場所を全休。
  • 大正以前では、東西合併による「横綱付出し」の例も在って比較が難しいが、栃木山守也の大関2場所(9勝1預-10戦全勝)、大錦卯一郎の3場所(8勝2敗-7勝3敗-10戦全勝)、太刀山峯右エ門の4場所等が特筆される。

スロー通過記録

大関場所数 四股名 新大関場所 横綱場所 大関での成績
32場所 琴櫻傑將 1967年11月 1973年3月 287勝159敗34休 優勝4回
武蔵丸光洋 1994年3月 1999年7月 353勝127敗 優勝5回
29場所 若乃花勝 1993年9月 1998年7月 274勝101敗60休 優勝4回
21場所 北の富士勝昭 1966年9月 1970年3月 208勝107敗 優勝3回
三重ノ海剛司 1976年1月 1979年9月 180勝123敗12休
20場所 玉の海正洋 1966年11月 1970年3月 206勝94敗 優勝2回
18場所 前田山英五郎 1938年5月 1947年11月 155勝67敗14休 優勝1回
17場所 佐田の山晋松 1962年5月 1965年3月 176勝66敗13休 優勝1回
旭富士正也 1987年11月 1990年9月 194勝61敗 優勝3回
13場所 大乃国康 1985年9月 1987年11月 140勝55敗 優勝1回
  • ☆は年6場所制定着以前の力士。
  • 三重ノ海は関脇1場所を挟む。

横綱の優勝

四股名 横綱場所 成績 備考
太刀山峯右エ門 1911年(明治44年)6月 10戦全勝
栃木山守也 1918年(大正7年)6月 9勝1敗 *不戦勝制度があれば常ノ花が優勝同点
(宮城山福松) (1926年(昭和2年)1月) (10勝1敗) *東西合併による横綱付け出し
双葉山定次 1938年(昭和13年)1月 13戦全勝
東富士欽壱 1959年(昭和24年)1月 10勝2敗1分 *1分は相手力士負傷による痛み分け
大鵬幸喜 1961年(昭和36年)11月 13勝2敗
隆の里俊英 1983年(昭和58年)9月 15戦全勝
貴乃花光司 1995年(平成7年)1月 13勝2敗(○武蔵丸 *()内は優勝決定戦

横綱

番付上に最も多くの横綱の出揃ったのは4人までで、2006年(平成18年)12月現在で15通りの例がある。

最初の4横綱は、1917年(大正6年)5月場所、第22代横綱太刀山峯右エ門、第24代横綱鳳谷五郎、第25代横綱2代西ノ海嘉治郎、第26代横綱大錦卯一郎によって実現した。翌1918年(大正7年)5月には太刀山の引退と入れ替わりに第27代横綱栃木山守也が誕生し、同場所で西ノ海が引退するまで連続3場所4横綱時代が続いた。

4横綱総当りは、春秋園事件の余波で一門別総当り制の実施されていた1938年(昭和13年)5月場所に、玉錦三右エ門武藏山武男女ノ川登三双葉山定次によって初めて実現した(この顔ぶれ自体は前場所の1月場所からだが、この時は武蔵山が途中休場)。結果は、双葉山3戦全勝、武蔵山2勝、男女ノ川1勝、玉錦3戦全敗だった。この場所は武蔵山と男女ノ川は6勝6敗どうしの千秋楽対決という悲惨な結果となっている。

同じ顔触れで最も長く続いた4横綱時代は千代の山雅信鏡里喜代治吉葉山潤之輔栃錦清隆による14場所。1955年(昭和30年) 1月場所で栃錦が昇進してから、1958年(昭和33年)1月場所後に鏡里と吉葉山が同時に引退するまで続いた。4横綱の皆勤は1956年(昭和31年)3月場所の1場所きりとなったものの、8場所で4横綱のいずれかが優勝(吉葉山に優勝がないのを除き、他の3横綱が複数回の優勝)を果たしている。

現行の年6場所制定着後で最も長かった4横綱時代は、柏戸剛大鵬幸喜栃ノ海晃嘉佐田の山晋松による11場所で、1965年(昭和40年)3月場所から1966年(昭和41年)11月場所までである。実質の4横綱皆勤は1965年(昭和40年)9月場所の一度きりであったが(40年5月場所では大鵬が千秋楽のみ休場、佐田の山に不戦敗)、全盛期の大鵬を中心に11場所すべて4横綱のいずれかが優勝している。

4横綱皆勤の最も多かったのは、年6場所制以前では双葉山定次羽黒山政司安藝ノ海節男照國万藏1943年(昭和18年)1月場所から1945年(昭和20年)11月場所までの7場所中3場所(うち1場所は10日制)、6場所制後では輪島大士北の湖敏満2代若乃花幹士三重ノ海剛司が、1979年(昭和54年)9月場所から1980年(昭和55年)11月場所までの8場所中3場所となっている。

昭和末期の1987年(昭和62年)11月場所では、千代の富士貢双羽黒光司北勝海信芳大乃国康の4横綱が全て皆勤となったが、場所後に双羽黒が廃業となったため、この4横綱は1場所のみ(番付上では翌1988年1月場所と合わせて合計2場所)となってしまった。

平成時代に入ってからは、千代の富士貢北勝海信芳大乃国康旭富士正也の4横綱時代が、1990年(平成2年)9月場所から1991年(平成3年)5月場所までの5場所連続であるが、全員皆勤となったのは1990年(平成2年)11月場所の1場所のみだった。その後1991年(平成3年)5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、大乃国、旭富士、北勝海が僅か1年の間に相次いで引退してしまい、横綱空位となった。最近の4横綱だった曙太郎貴乃花光司若乃花勝武蔵丸光洋は、1999年(平成11年)7月場所から2000年(平成12年)3月場所まで5場所続いたが、2000年(平成12年)3月場所で若乃花が引退となるまで、4横綱全員が皆勤する場所は一度も無いままに終わってしまった。それだけ4人もの力士が同時期に最高位を極め、かつその地位を保つことの難しさを表している。

その他の記録

出身地別横綱輩出数
8人 北海道 千代の山雅信吉葉山潤之輔大鵬幸喜北の富士勝昭
北の湖敏満千代の富士貢北勝海信芳大乃国康
6人 青森県 鏡里喜代治若乃花幹士 (初代)栃ノ海晃嘉
若乃花幹士 (2代)隆の里俊英旭富士正也
4人 宮城県 丸山権太左エ門☆、谷風梶之助 (2代)秀の山雷五郎大砲万右エ門
千葉県 境川浪右エ門小錦八十吉 (初代)若島権四郎鳳谷五郎
鹿児島県 西ノ海嘉治郎 (初代)西ノ海嘉治郎 (2代)西ノ海嘉治郎 (3代)朝潮太郎 (3代)
東京都 東富士欽壹栃錦清隆