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民主社会党/民社党 Democratic Socialist Party(DSP) |
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|---|---|
| 成立年月日 | 1960年1月24日 |
| 解散年月日 | 1994年12月9日 |
| 解散理由 | 新党移行のため |
| 後継政党 | 新進党 |
| 本部所在地 | 〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目2番地12号 国際興業赤坂ビル |
| 政治的思想・立場 | 民主社会主義、中道主義、反共主義 |
| 国際組織 | 社会主義インターナショナル |
民社党(みんしゃとう、略称:民社。英:Democratic Socialist Party、略称:"DSP")は、かつて存在した日本の政党。
目次 |
1959年6月の参院選敗北の総括と60年安保闘争の運動方針をめぐって同年10月に社会党右派の西尾末広派が日本社会党から脱党。更に同じ右派の河上丈太郎派の一部も同調し離党。1960年1月に民主社会党(みんしゅしゃかいとう)として結成。西尾末広が委員長に、曽祢益が書記長に就任した。結党時は衆議院議員21、参議院議員12人が参加し、その後も断続的に参加者があり、最終的に衆議院40人、参議院17人となった。1969年に民社党に改称した。
2006年7月18日、当時CIAが自由民主党有力者や、社会党右派を指すと見られる「左派穏健勢力」に資金提供し、民社党結成を促していたことがアメリカ国務省の外交資料集に公開された。民社党結党までに7万5千ドルの資金援助があり、その後も毎年同程度の援助があったが、1964年に打ち切られたという[1][2]。
「左右の全体主義と対決」を主張し、福祉国家、中産階級国家を政策としていた。党が掲げる「民主社会主義」とは、議会政治を通じて労働者の権利擁護、福祉増進を行い、合法的・民主的に社会主義の理想を実現していこうとする立場であり、社会主義インターナショナルや西欧・北欧の社会民主主義政党の政策を手本としていた。国際面では社会民主主義・民主社会主義政党の国際機関で、反共姿勢をとる社会主義インターナショナルに加盟した。
「左右の全体主義との対決」とは、共産主義とファシズムに反対するという意味だが、特に反共を優先し、日本共産党を激しく攻撃した。当時は日本社会党も「社会民主主義」[3]を掲げており、その違いを強調するために、「民社党の掲げる民主社会主義」と社会民主主義は違うと主張した。
外交においても同様であり、ソ連を糾弾する一方で韓国・朴正煕政権やスペイン・フランコ政権、チリ・ピノチェト政権など、反共で一致すれば、軍事独裁と批判された政権をも支持した。このように反共という一致点のために、「権威主義国家」「権威主義的政権」も支持するなど、右の全体主義には態度、評価、姿勢、対応が往々にして甘くなりがちだった。チリのピノチェト・クーデター(民主的な左派政権を右派軍事政権が奪取)の際に、民社党代表としてチリを視察した塚本三郎議員が、同クーデターを「天の声」と絶賛したエピソードから民社党の姿勢が窺い知れる。なお、社会主義インターナショナルや西欧・北欧の社民主義政党は反共であると同時に、これらの独裁政権を支持しない姿勢を示していた。
労働組合の分野では、反共主義の全日本労働組合会議(全労会議)との関係が密接で、1964年に全労会議が全日本労働総同盟(同盟)と改組された後も続いた。特に防衛・電力業界との繋がりが密で、そのため民社党も、防衛費増額や原発推進に熱心であった。
結党当初においては安保改定に反対するなど防衛問題では社会党に近い立場を取っていたが、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約の批准では自民党に同調。更にブレーンだった蝋山政道らがまとめた日米安保肯定論が発表された後は、防衛費増額・日米同盟強化の要求が目立ち、時に武器輸出の解禁を主張するなど保守の自由民主党よりタカ派と評された。党内でもその評価を是とする勢力があった。こうした立場は、防衛関係労組との繋がりがあったことも要因となった。
当初は、顧問の片山哲が護憲団体の一つ、「新護憲」(憲法擁護新国民会議)の代表だった影響もあって、改憲に消極的で、憲法調査会への参加も見送ったが、やがて集団的自衛権の確立など、再軍備の側面から改憲を打ち出して行くようになったので、片山哲らは離党した。
1993年には改憲を前提に「世界平和と憲法問題特別委員会」を設置し、「新護憲」は「論憲会議」を経て改憲団体「創憲会議」に衣替えしている。
党勢は、結党直後の1960年の衆院選で40から17議席と大きく落ち込んだ。その後、しばらくは20〜30議席前後で推移。
1960年代後半以降、公明党や新自由クラブ、社会民主連合などの中道政党が伸長すると共に、これら諸政党と協力する姿勢を取った。特に公明との「公民協力」は広く行われた。それは1970年代後半から1980年代半ばに掛けて党勢回復に結実。1983年の第37回衆議院議員総選挙では、追加公認を含めると衆院で39議席にまで持ち直した。中道結集こそが、1976年、1979年、1983年の衆院総選挙で、自民党を過半数割れさせる原動力だったとも指摘されている。それに気づいた自民党は、1980年、1986年に衆参の同時選挙・同日選挙・ダブル選挙をぶつけて大勝する。参院で選挙協力が成立しても、衆院の選挙区では議席を争うことになり、勢力結集が極めて困難になるためである。
社会党とは何度も和解の試みがなされ、選挙協力も行ったが、民社党は原発・日米安保容認を要求するのが常であった。社会党は民社・公明の要求に従い共産党と距離を置き、中道左派による野党連携を取ろうとした。これを「社公民」と呼ぶ。
しかし、民社党と公明党は1970年代後半から自民党との連携を強めたため、「自公民路線」と呼ばれた。
1980年代後半の連合結成により、社公民は再び接近し、1989年の参院選、1990年の衆院選では社公民協力のため連合による「連合の会」統一候補が立てられた他、社会党と民社党・社民連の歴史的和解と再統合も議論された。しかし、結果として両選挙で社会党が大勝、逆に民社党は14議席と惨敗し、「連合の会」統一候補も民社系は軒並み落選した。このため両者の関係悪化は決定的となった。1992年には公明党とともに与党・自民党の宮沢内閣信任決議案に賛成し、さらにPKO法案に賛成、いずれも可決させた。しかし内閣を信任しても、自民党から与党として遇されることはなかった。そのため、1992年の参院選は野党として戦うが、社会党との確執は深いものとなっており、選挙後連合から自派系議員を引き上げてしまった。
社公民路線は、1993年の細川内閣での反自民・非共産野党の結集により結実したが、自民党を下野した新生党や新党さきがけ、日本新党の力を借りなければいけなかった。
結局、民社党は全般的には小政党のままで推移した。
なお、福岡県執行委員をしていた城戸嘉世子は、1977年に日本女性党への移籍を経て、教育党を結成している。
公明党の扱いをめぐって党内に対立があった。佐々木良作、永末英一などは公明党との連携を主張し、社公民路線を目指したのに対し、春日一幸、塚本三郎、大内啓伍などは公明党と距離を置き、自民党と連携しようとした(春日は公明党の支持母体である創価学会の池田大作会長(当時)の証人喚問を要求し、また塚本、大内は新進党の結成に公明党も参加したため、新進党には加わらず後に自民党に移った)。ちなみにこれらの5人は歴代委員長順に並べると、反連携派、連携派、反連携派、連携派、反連携派となっている。
1985年委員長となった塚本三郎は、「民社党」の党名から社会主義を意味する「社」の部分を外し、「民主党」に改称しようとしたが、春日一幸、佐々木良作らに猛反対されて実現されなかった。永末が委員長になると、「われわれは、ソーシャリストの集団です」と言明し、原点回帰を目指したが、米沢隆らは「民社の『社』は社会ではなく会社の『社』」と反論した。大内委員長時代も、党名を「民主党」に変えようとしたが、古参幹部や学者、同盟系労組の反対で頓挫。それに替わって、大内は規約改正(?)で、「民主社会主義」「社会主義」の文言を極力使わない手法を用い、“社会主義離れ”を図った。
社会主義を避けたがる勢力らと、あくまで西欧社会民主主義の正統派たらんとする勢力に二分されたことが、この党の性格を曖昧でわかりにくいものにした。このため、ブレーンの学者の中にも、「民主社会党ではなく、民間会社党になってしまう」との嘆きが聞かれたこともある。
1993年の総選挙後、細川連立政権に参加し、1994年の羽田連立政権にも参加。しかし、与党から社会党を排除した新統一会派「改新」の結成に加わったことで、社会党の離反を招き羽田政権は崩壊。12月、新進党に参加するため解散。この解散に不満を持ち、創価学会・公明党勢力や小沢一郎など旧自民党・田中派勢力との合同をよしとしない塚本三郎・大内啓伍の両委員長経験者を含めた一部は自民党に移籍した。新進党合流時に、党の社会主義インターナショナル加盟を求めたが実現しなかった。
1980年代後半から、1990年代になると党勢が行き詰まり、看板の政策理念だった「福祉国家」路線も、日常生活に密着した個別具体的な福祉施策としては、公明党の在宅福祉トータルプランに先を越され、かつて福祉国家を完全否定していた共産党、社会党左派や、別の角度から否定していた自民党と中央・地方官庁も生活要求型の福祉スローガンを掲げたことから、次第に独自性を失っていった。
そこで民社党は「労働福祉」をメインとする観点から一つの転換を模索した。「消費者」に的を絞り、宮沢内閣が打ち出した資産倍増論のベースだった「生活大国づくり」より数年前に、「生活先進国づくり」という概念を打ち出した。組織労働者、もしくは未組織を含めた労働者を軸としながらも、そこには収まりきれない幅広い層の国民にアピールすることを狙った民主社会主義の新解釈とも言えた。経済力は世界第二位ながら、庶民の暮らしぶりはその水準に達しないなど、その一つが消費財を含む価格の内外価格差などであることに目をつけたわけだが、自民党との連立志向が強い春日・塚本派と、社公民連による政権交代を目指し、社会党の現実路線転換の遅れに目をつぶる佐々木・永末派の抗争が激化。十分に議論を深められなかった。
社会党が現実的に変化したり、社会民主党に衣替えするなどして、結党時の民社党とほぼ同じ政策軸に変化しても、“近親憎悪”から「協調」する道よりも、より違いを「強調」する道にはまり込んだ。最末期の民社党に所属した西村眞悟は、党の先輩に「世の中で、正しいことをみつけるための手間のかからない便利な方法がある。それは、社会党を見ていることだ。社会党が反対していたら賛成するのが正しい。賛成していたら反対するのが正しい」、つまり社会党のアンチでいるのが正しいといわれたという[4]。
連合結成による労働運動の理念的統一で、1980年代以降、社会党、民社党、社民連、連合参議院(民改連)などと、社会民主主義=民主社会主義勢力結集の社会的基盤が整い、ようやく西欧的福祉国家路線の国づくりをする土台ができあがろうとした時期はあった。しかし社会党が、結果として与党自民党の議席ではなく他の野党の議席を奪ったために、「社公民」の社会民主主義勢力を主体とした政権交代の可能性をさらに遠ざけてしまった。さらに近親憎悪感情もあり、民社党は「社公民」による政権交代と政策転換を捨て、金丸信・小沢一郎の自民党竹下派・金丸系の国対族との「自公民」プラスαの「政策転換なき政権交代(自民党勢力内の権力闘争)」に巻き込まれていった(「政治改革」と称する衆院の小選挙区制導入から細川内閣成立の流れの中で、社会党も委員長が、金丸と親しい田邊誠、山花貞夫と変わり、連合会長の山岸章も加わって、小沢グループとの連携を選択して、小選挙区制導入に邁進した)。
但し、社会民主主義は、ヨーロッパ各国で1990年代以降も続々と社民党政権が誕生するなど、新自由主義的経済政策による格差拡大などの市場の失敗が問題視される中で、対立軸としてその価値が見直された。又、敵対していた共産主義は、1980年代以降の冷戦の終結及び東欧・ソ連共産圏の崩壊により衰退し日本でも旧社会党勢力が大きく力を失った一方で、民社党に代表される中道勢力自体は衰退したものの、新進党解党後に発足した新党友愛が母体の一つとなった民主党は自由民主党に対抗する2大政党としての立場を確立。民主党が掲げる政策の中身には民社党の立場に近い部分も一部有しており、更に労働運動においても連合の方針はほぼ同盟のものを踏襲しており、結果として民主党と連合の中に民社党のスタンスが承継されたと捉えることもできよう。
一般的にあまり知られていないが、最初に北朝鮮の拉致疑惑を国会で取り上たのは、1988年1月の衆議院本会議で、当時の民社党委員長塚本三郎が最初である(1980年の公明党の和泉照雄参議院議員が拉致問題に連なるアベック失踪事件に関して参議院決算委員会で質問をしたことがあるが、質疑応答において北朝鮮という国名は出なかった)。また、拉致議連にも後身の民社協会系議員が多数参加している。
| 中央執行委員長 | 中央執行 副委員長 |
書記長 | 政策審議会長 | 国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
常任顧問 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 西尾末広 | 曾禰益 | 今澄勇 | 春日一幸 | 天田勝正 | 片山哲 | |
| 〃 | 曾禰益 | 西村栄一 | 竹本孫一 | 佐々木良作 | 〃 | 〃 |
| 西村栄一 | 〃 | 春日一幸 | 〃 | 〃 | 〃 | 片山哲 西尾末広 |
| 〃 | 春日一幸 〃 |
佐々木良作 | 〃 | 池田禎治 | 向井長年 | 〃 |
| 春日一幸 | 〃 | 〃 | 塚本三郎 | 〃 | 西尾末広 曾禰益 |
|
| 〃 | 佐々木良作 | 塚本三郎 | 〃 | 玉置一徳 | 〃 | 〃 |
| 〃 | 伊藤卯四郎 〃 |
〃 | 河村勝 | 永末英一 | 〃 | 〃 |
| 佐々木良作 | 向井長年 小平忠 中村正雄 |
〃 | 大内啓伍 | 〃 | 〃 | 西尾末広 春日一幸 |
| 〃 | 〃 〃 |
〃 | 〃 | 〃 | 三治重信 | 春日一幸 |
| 塚本三郎 | 永末英一 | 大内啓伍 | 米沢隆 | 小沢貞孝 | 〃 | 春日一幸 佐々木良作 小平忠 中村正雄 |
| 永末英一 | 河村勝 抜山映子 田渕哲也 |
米沢隆 | 中野寛成 | 吉田之久 | 藤井恒男 | 佐々木良作 小平忠 中村正雄 塚本三郎 |
| 大内啓伍 | 小沢貞孝 〃 〃 |
〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 塚本三郎 |
| 〃 | 安倍基雄 〃 |
〃 | 〃 | 神田厚 | 吉田之久 | 〃 |
| 米沢隆 | 塩田晋 吉田之久 中井洽 |
中野寛成 | 伊藤英成 | 〃 | 〃 | |
| 〃 | 神田厚 安倍基雄 〃 |
〃 | 〃 | 青山丘 | 〃 |
()内は入閣直前の党役職
1993年8月9日・細川内閣 (国務大臣) 厚生大臣・大内啓伍(党中央執行委員長) (政務次官) 文部政務次官・安倍基雄 建設政務次官・伊藤英成 1994年4月28日・羽田内閣 (国務大臣) 法務大臣・中井洽(党中央執行副委員長) - 【平成5年(1993年)5月8日】 厚生大臣・大内啓伍(党中央執行委員長) 防衛庁長官・神田厚(党中央執行副委員長) (政務次官) 大蔵政務次官・北橋健治 文部政務次官・勝木健司
| 選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
|---|---|---|---|
| (結党時) | 21/- | 467 | 第29回総選挙前には40 |
| 第29回総選挙 | ●17/105 | 467 | |
| 第30回総選挙 | ○23/59 | 467 | |
| 第31回総選挙 | ○30/60 | 486 | |
| 第32回総選挙 | ○31/68 | 486 | 追加公認+1 |
| 第33回総選挙 | ●19/65 | 491 | 沖縄社会大衆党より移籍+1 |
| 第34回総選挙 | ○29/51 | 511 | |
| 第35回総選挙 | ○35/53 | 511 | 追加公認+1 |
| 第36回総選挙 | ●32/50 | 511 | 追加公認+1 |
| 第37回総選挙 | ○38/54 | 511 | 追加公認+1 |
| 第38回総選挙 | ●26/56 | 512 | |
| 第39回総選挙 | ●14/44 | 512 | |
| 第40回総選挙 | ○15/28 | 511 | 追加公認+4 |
| 選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| (結党時) | 12/- | - | 250 | その後17まで増加 |
| 第6回通常選挙 | ○5/24 | 7 | 250 | |
| 第7回通常選挙 | ●3/21 | 4 | 250 | |
| 第8回通常選挙 | ○7/16 | 3 | 250 | |
| 第9回通常選挙 | ○6/11 | 7 | 252 | |
| 第10回通常選挙 | ●5/14 | 5 | 252 | |
| 第11回通常選挙 | ○6/11 | 5 | 252 | |
| 第12回通常選挙 | ○6/11 | 6 | 252 | 死去-1、追加公認+1 |
| 第13回通常選挙 | ○6/32 | 6 | 252 | 追加公認+1 |
| 第14回通常選挙 | ○5/27 | 7 | 252 | |
| 第15回通常選挙 | ●3/25 | 5 | 252 | 追加公認+1 |
| 第16回通常選挙 | ○4/20 | 5 | 252 | 追加公認+1 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
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