浮世絵 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋浮世絵(うきよえ)は、江戸時代に成立した。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを描く。「浮世」という言葉は、「現代風」とも訳される。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 浮世絵 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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浮世絵には肉筆画のものと木版画のものがある。肉筆画は一点ものであり、名のある絵師によるものは高価となり、また作品数も限られていた。これに対して、木版画は版画であるために、同じ絵柄のものを多く刷り上げることができ安価で、江戸時代の一般大衆もたやすく求められた。
浮世絵版画は大衆文化の一部であり、手に取って眺め愛玩された。現代の美術展等のように額に入れて遠目に眺めるものではなかった。草双紙や絵巻物、また瓦版(新聞)の挿絵の役割も果たした。絵暦と呼ばれるカレンダーの制作も行われ、絵の中に数字を隠すなど様々な工夫を凝らしたものが作られた。江戸から国元への土産にも、その美しさと嵩の低さが喜ばれた。玩具絵のように切り抜いて遊ぶものもある。
はっきりした図柄と大胆な構図、影の表現を持たないこと等が表現上の特徴である。遠近法も取り入れられた。北斎の『釣の名人』のように、遠景の人物を逆に大きく描く意図的に遠近をずらされたものもある。
もともと、浮世絵は浮世を描いた絵、風俗画として登場した。
浮世絵師には狩野派、土佐派出身の絵師が数多く見られる。これは当時、狩野派から破門された絵師が数多く転向したためであり、そのため室町時代から桃山時代の風俗画の影響が見受けられる。
明暦の大火ごろから宝暦の頃までをさす。初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色刷り(墨摺絵)が主である。
17世紀半ば以降、木版画の原図を描く者を版下絵師といい、その中で絵本や浮世草子に挿絵を描いた菱川師宣が登場する。また、代表作として有名な『見返り美人図』は肉筆画である。
西鶴の『好色一代男』(1682年刊)には、12本骨の扇子に浮世絵が描かれていたとあり、これが浮世絵という言葉の確認出来る最古の文献である。
鳥居清信の時代になると墨摺絵に筆で着色したものが現れる。これらは主に赤い顔料を使い着色され、丹を使ったものを丹絵(たんえ)、紅を使ったものを紅絵(べにえ)と呼んだ。さらに紅絵に色を二、三色加えたものを紅摺絵(べにずりえ)と呼ぶ。この当時から鳥居派は歌舞伎と強く結びつき、現代でも歌舞伎の看板を手がけている。
1765年(明和2年)に江戸の俳人を中心に絵暦が流行し、絵暦交換会が開かれるようになった。その需要に伴い鈴木春信らが多色刷りによる東錦絵(吾妻錦絵)を編み出したことで、浮世絵文化は本格的開花期を迎えた。多色刷りが可能になった背景には、重ね刷りの際の目印となるよう「見当」が工夫されたこと、複数回の刷りに耐えられる丈夫で高品質な紙が普及したことが挙げられる。越前奉書紙、伊予柾紙、西野内紙などの楮を原料とした紙が用いられた。また、経済の発展により下絵師、彫師、刷師と複雑な工程の分業体制を整えることができた点も重要である。
鈴木春信の死後、美人画は中性的・人形的な絵柄から写実的なものへと変化していった。
安永期、北尾重政は写実的な美人画で人気を博した。役者絵にも写実さが加わり勝川春章によってブロマイド的な似顔絵が描かれた。
さらに喜多川歌麿が登場し、繊細で上品で優雅なタッチで、美人画の大首絵を数多く手がけた。
寛政2年、改印制度ができ、出版物に様々な規制がされた。
寛政7年、禁令のため財産を没収された版元蔦屋重三郎が起死回生を狙い、東洲斎写楽が売り出される。独特の誇張された役者絵によって話題を呼ぶが、特徴を誇張しすぎ、人気が振るわなかったことと、歌川豊国『役者舞台姿絵』の絶大な人気に敗退した。
その後、豊国の弟子たちからなる浮世絵絵師最大派閥である歌川派が形成されていった。
文化4年から安政5年ごろまで。 喜多川歌麿の死後、美人画の主流は渓斎英泉が描くような官能的な色っぽい美人に移っていく。
勝川春章の門人、葛飾北斎は旅行ブームに伴い『富嶽三十六景』を手がけ、それが元で歌川広重 によって『東海道五十三次』が刊行された。この二人によって浮世絵における名所絵(風景画)が発達した。
役者絵では歌川国貞が師匠歌川豊国の流れを受け継いで、力強い役者絵を手がけた。
また、草双紙で伝奇ブームに伴い、歌川国芳などによって武者絵が描かれるようになる。 歌川国芳の『水滸伝』シリーズは当時人気を博し、水滸伝ブームがおこる。
嘉永6年刊行の『江戸寿那古細見記』に「豊国にがほ(似顔絵)、国芳むしや(武者絵)、広重めいしよ(名所絵)」と書かれた。
安政6年から明治45年ごろを指す。
黒船から、異人文化に興味を持った人々によって、横浜絵が流行する。維新後は珍しい西洋建築や鉄道を描いた開化絵が横浜絵にとってかわる。
明治維新によって混乱した国内で歌舞伎や見世物でグロテスクなものが登場し歌川国芳の門人落合芳幾と月岡芳年によって血みどろで無残絵と呼ばれる種類の『英名二十八衆句』や、新聞記事を題材とした新聞錦絵を描いている[1]。
月岡芳年は繊細で写生を重視した絵柄で無惨絵ばかりでなく数多くの歴史画、風俗画をてがけ、「最後の浮世絵師」と呼ばれるようになる。また、弟子には積極的に浮世絵以外の絵を学ばせたため、鏑木清方のように多くの門流が挿絵画家や、日本画家として大成し、浮世絵の伝統は他のジャンルへと受け継がれていった。
また、河鍋暁斎のような狩野派の画家から浮世絵を描くものも登場する。
小林清親は光線画と呼ばれる輪郭線を使わない新しい風景画を手がけた。
歌川芳藤は子供のための玩具絵と呼ばれる、今で言う紙でできた付録のようなものを浮世絵で手がけ、その工夫がうけて玩具絵専用絵師として活躍した。「おもちゃ芳藤」とまで呼ばれた。
次第に、浮世絵は新聞や写真、石版画などの新技術に押されて衰退していく。浮世絵師は写真に対抗し、工夫したが多くのものが失敗し、挿絵画家などへの転向を余儀なくされた。江戸時代からずっと続いた浮世絵の歴史は、日清の戦争絵を最後としてほぼ終焉を迎える。
大正から昭和にかけて、川瀬巴水らは浮世絵の復興を目する新版画として、浮世絵の木版多色刷り技法を活かした作品を多数残している。
小林清親、井上安治、小倉柳村、楊洲(橋本)周延、小林永濯、尾形月耕、水野年方、山本昇雲、井上探景、歌川芳虎、歌川芳鶴
風景、歌舞伎役者や相撲とりまたは遊女の似顔絵などが描かれた。戯画的な要素をもった現代の漫画にあたるものも多い。中国画や大和絵の題材になる伝統的な主題を浮世絵風に転化することもあった。また、色事を主題にした春画も、ほとんどの著名な絵師が描いている。春画はセットで販売されることが多かった。販売価格が高かったために製作費を多くかけることができ、技術的にも高度なものが作られた。
現実の性風俗を茶化した要素があり必ずしも扇情的ではないなど、単純にポルノとして把握することはできないと指摘される。
浮世絵を描く人を浮世絵師、または絵師(画工)と呼んだ。浮世絵師が描いたデザインを木版に彫るのが彫師(彫工)、彩色して紙に摺るのが摺師(摺工)である。共同作業の作品だが、絵師の名だけが残される風習がある。ここに注文主を加えた四者が最低でも必要になる。
多色刷りの際に色がずれないように紙の位置を示す「見当」がつけられる。これは1744年に出版物の問屋の主人・上村吉右衛門が考案したとする説と、1765年に金六という摺師によって行われたとする説がある。また、鈴木春信と交流した平賀源内が発明したとも言われる。現代でも使われる「見当を付ける」「見当違い」「見当外れ」という言葉はここから来ている。
浮世絵版画に用いられたのは比較的安価な植物性、鉱物性の染料・顔料であった。
黒は墨。初期の墨1色で摺ったものは「墨摺絵」と呼ばれる。 白(胡粉)は蛤の殻(炭酸カルシウム)を砕いて作る。
赤色系では
黄色系では
青色系では
などがあり、紫などの中間色はこれらの掛け合わせで表現した。その他、豪華さを出すために金銀や雲母粉が用いられた。無地背景に雲母粉を用いたものは「雲母摺(きらずり)」と呼ばれる。
幕末から明治にかけて、鮮やかな舶来顔料が使えるようになり、この時期の錦絵の特色ともなっている。
明治時代以降、浮世絵は日本では軽視され、多量の作品が海外に散逸した。この為、絵画作品としての浮世絵研究にあっては、正当かつ体系的・学問的な研究は為されておらず、個々の収集家や研究者によって、知見の異なる主張が部分的・断続的に繰り返されるのみである。 また、鈴木春信、喜多川歌麿等の作品を始め、多くの有名作品の偽造品が流通してしまった経緯が江戸時代当時から存在している[2]。
一方、欧米諸国では浮世絵は、印象派の巨匠たちに見出されて高く評価され、その作品に影響を与え、油絵による模写もされている。欧米一流美術館20館以上に、20万点以上は収蔵されていると見られ、それ以外に個人コレクションもあり、外国美術品としてこれだけ収集されているのは浮世絵だけである。ボストン美術館には5万点、プーシキン美術館には3万点など、万点以上収蔵しているところも少なくない。
色鮮やかな版画群は、世界で浮世絵だけであり、西洋美術にもこの分野はないことが評価につながっていると思われる。また大量の流失品には、歌麿をはじめとする比較的簡潔な構図が多く、複雑な構図に極彩色の浮世絵は意外に少ない。国内には、海外流出分の何倍かは残っており、世界に稀に見る芸術作品群として、西洋の評価だけにとらわれない更なる研究が進むことが望まれている。
また中世の庶民の多様な生活を描き、記録している資料は世界に浮世絵しかないことも貴重である。 明治時代の文献によると、無名の絵師を含めると二千人近い絵師がその当時までにいたということである。当時は一作品に百から二百枚は摺ることもあり、膨大な浮世絵が市中に出回っていて、高品質の芸術品がこれほど庶民の間で広まっていたのも世界に例がない。
ジャポニズムに影響を与える一方で、浮世絵には海外からの影響もある。ドイツに起源を持つ人工顔料ベロ藍(「ベロ」はベルリンより)は、鮮やかな発色を持ち、葛飾北斎らによって使われた。西洋の遠近法や陰影の技法も取り入れられている。
1865年フランスの画家ブラックモンが陶器の包み紙であった『北斎漫画』を友人らに見せて回ったことで印象派に大きな影響を与えた。このことにより、日本では庶民の娯楽であり、読み古されたものやミスプリントが船便の梱包材に使われるほど安値で取引されていた浮世絵は、ヨーロッパで当時の日本人には考えられないほどの高値で取引される事になった。
ゴッホが『タンギー爺さん』という作品の背景に浮世絵を描いたり、広重の絵を油絵で模写したり、マネの『笛を吹く少年』が浮世絵の影響を受けていることは有名である。
さらに、ジャポニズムの影響と日本美術を取り扱っていたビングによってアール・ヌーヴォーには浮世絵のように平面的な意匠がみられる。
ドビュッシーが北斎の『神奈川沖波裏』に触発されて『交響詩“海”』を作曲するなど(1905年に出版されたスコアの表紙になっていたり、書斎に飾ってあることが分かる写真がある)、影響はクラシック音楽にも及んだ。
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