清國勝雄 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋清國 勝雄(きよくに かつお、1941年11月20日 - )は、秋田県雄勝郡雄勝町(現在の湯沢市)出身で荒磯部屋(後に伊勢ヶ濱部屋)所属の元大相撲力士。本名は佐藤忠雄(さとう ただお)。身長182cm、134kg。得意手は左四つ、寄り、押し。最高位は大関。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ウィキペディア(Wikipedia)記事清國 勝雄(きよくに かつお、1941年11月20日 - )は、秋田県雄勝郡雄勝町(現在の湯沢市)出身で荒磯部屋(後に伊勢ヶ濱部屋)所属の元大相撲力士。本名は佐藤忠雄(さとう ただお)。身長182cm、134kg。得意手は左四つ、寄り、押し。最高位は大関。
来歴同郷の元横綱照國の荒磯部屋から1956年9月場所初土俵を踏んだ。大鵬と同期である。のち親方の名跡変更で伊勢ヶ濱部屋所属となった。素質はあるのにあまり稽古熱心とはいえず師匠から「運ちゃん」というありがたくないニックネームがつけれられていた。が、後輩の淺瀬川に十両昇進で先を越されて発奮し、そこから稽古に打ち込み、1963年5月場所に十両に昇進、3場所で十両を突破して1963年11月場所に入幕を果たした。新入幕の翌場所の1964年1月場所は初日から14連勝、横綱大鵬とともに勝ち放し、同期生の優勝決定戦かと騒がれた。しかし、千秋楽に関脇・大豪に当てられて敗れ、優勝はならなかった。この活躍から北の富士・若見山と「若手三羽烏」と称された。なおこの場所で前場所優勝の大関栃ノ海の横綱昇進がかかっていたがよもやの清国の大健闘で2敗ながらも次点にすらもなれないという珍事が起きた。が、場所後栃ノ海は横綱に推挙されている。直近場所が優勝、相星、次点いずれにもあてはまらないというケースは年六場所制以後ではこのケースのみである。翌3月場所には前頭13枚目から一気に関脇に昇進し、その後も上位に定着、1967年11月場所からは三役を10場所連続で務め大関候補として評判になった。1969年5月場所で12勝3敗の好成績を上げ、場所後に大関に昇進した。 新大関で迎えた1969年7月場所では千秋楽に大鵬との相星決戦を制して12勝を挙げ優勝決定戦に進出、藤ノ川を破り初優勝を果たした。新大関の優勝は1949年10月場所の千代の山以来の快挙、この場所柏戸が引退して大鵬の一人横綱となっていただけに一気に横綱昇進の絶好の好機となったが、翌9月場所2日目の麒麟児戦(後の大関・大麒麟)で首を故障。それが結果的には大関どまりになる原因の一つになってしまった。 立合いがきれいなことで評判であり、1970年前後の、手をつかないことが常識化していた時代に、きちんと両手をついて立つ清国の態度は賞賛された。また、それを生かした〈後の先〉の立合いで横綱・玉の海に勝ったこともある。腕力が非常に強く、それを生かした押っつけは大鵬はじめ相手力士の腕を痛めることがたびたびあり「壊し屋」の異名をとった。四つは左でも右でもとれる所謂『なまくら四つ』だった。錦絵から抜け出したような風貌で「綺麗なお相撲さん」として巡業では大鵬以上の人気があった。横綱北の富士との対戦は52回を数え、武蔵丸対貴ノ浪戦(58回・現在史上1位)に抜かれるまで歴代最多だった。 1974年1月場所中に引退した後はしばらく年寄・楯山を襲名していたが、1977年の伊勢ケ濵親方の死去により年寄・伊勢ヶ濱を襲名して部屋を継承した。親方としては前頭筆頭まで出世した若瀬川剛充らの関取を輩出し、協会理事としても活躍したが、1985年8月12日に発生した 日本航空123便墜落事故で夫人と娘、そして力士を志していた息子を同時に失って以後急速に親方としての意欲を失っていった。 1989年に再婚したがその後も不幸な出来事に見舞われ、1990年には詐欺師に騙されて文京区の部屋建物・土地を手放す羽目に合い、ビジネスホテルを転々としながら部屋運営を続け、ようやく1992年に千葉県柏市に新部屋を再興した。しかしながら後妻との不和が週刊誌を賑わし、理事職からも降板し定年(2006年11月)数年前からは部屋も一門の長としての地位も壊滅的に衰退してしまった。後継者も欠いており、唯一の部屋付きの親方で当時停年まで10ヶ月に迫っていた若藤(元前頭1・和晃)と名跡交換し部屋を存続させた。しかし、和晃の伊勢ヶ濱が後継者擁立を断念したため、2007年1月場所を最後に伊勢ヶ濱部屋は一旦消滅となった(その後、2007年11月場所後の11月30日、元横綱・旭富士の安治川が伊勢ヶ濱へ名跡変更、新生伊勢ヶ濱部屋として再出発となる)。 2004年9月に週刊ポスト誌上にて現役力士の無気力相撲を批判し日本相撲協会から役員待遇を解かれ、同年11月場所より監察委員に就任したが、自らの定年退職の際後継候補の1人として挙がったのは、皮肉にも2004年1月場所に無気力相撲で注意を受けた高濱であった。 肩の脱臼をはめるのがうまく、横綱千代の富士が取り組み中に肩を脱臼したときに、肩をはめる応急処置を施したことがある。天理教の信徒として有名だった。 新大関で優勝を果たした1969年7月場所の時に乗っていた車の番号は「75-81」だった。「ナゴヤ1番」で語呂がいいと話題にされたが、語呂合わせの通りに本当に優勝した。 略歴
主な成績
改名歴
年寄変遷・改名
関連項目
この記事は、ウィキペディアの記事を複製、改変、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。ことなびに掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。 |
↓ニュース ↓YouTube ↓テレビ番組 ↓はてブ ↓ヤフオク ↓このページへのリンク
PageRank5以上の相互リンク |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |