令制国一覧>東海道>三河国>渥美郡
渥美郡(あつみのこおり)は三河国の郡。7世紀後半の評制度化では、飽海評(渥美郡)と呼ばれた。
伊勢国に近いため伊勢神宮の荘園である御厨・御園が多く存在した。吾妻鑑によると、建久10年の時に、参河の国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨が存在している。
『吾妻鑑』建久10年3月23日乙卯[1] [2]。
中世には一色氏が支配したが、応仁の乱後は田原城主や二連木城主の戸田氏や吉田城主の牧野氏が争い、西から西三河の松平氏や東から駿河国の今川氏が支配した時もある。江戸期には吉田藩や田原藩や畑村藩などの変遷を経て廃藩置県を迎えた。
郡内を流れる現在の豊川(とよがわ)は、古代は飽海川(あくみがわ)、中世・近世は吉田川と呼ばれた。
日本 > 愛知県 > 渥美郡
渥美郡(あつみぐん)は、愛知県の南東部・渥美半島にあった郡。現在の豊橋市の大半(豊川・朝倉川の南側)と田原市の全域にあたる。
人口21,657人、面積82.18 km²。(2004年最終)
郡区町村編制法や郡制施行時、渥美郡役所は豊橋市の現在の豊橋公園内の豊橋市美術博物館の前の辺りに有った。
2003年8月時点では、田原町・赤羽根町・渥美町の3町があったが、2003年8月20日に田原町が赤羽根町を編入、市制施行して田原市となり、残る渥美町も2005年10月1日に田原市へ編入され、同郡は消滅した。
沿革
- 1889年10月1日 - 町村制施行。豊橋町・豊橋村・豊岡村・花田村・牟呂村・吉田方村・高師村・福岡村・磯辺村・大崎村・植野村・大川村・細谷村・小沢村・高根村・豊南村・老津村・杉山村・六連村・田原村・相川村・童浦村・神戸村・野田村・赤羽根村・高松村・若戸村・福江村・清田村・中山村・泉村・伊良湖村・和地村の1町32村が成立。
- 豊橋においては、旧吉田城下が豊橋町、それ以外が豊橋村に分かれていた。
- 1890年11月7日 - 伊良湖村から堀切村が分立。(1町33村)
- 1891年4月15日 - 野田村から大久保村が分立。(1町34村)
- 1891年11月10日 - 植野村を分割、植田村・野依村が成立。(1町35村)
- 1892年10月3日 - 田原村が町制施行、田原町となる。(2町34村)
- 1893年6月23日 - 大川村が町制施行、大川町となる。(3町33村)
- 1895年1月25日 - 豊橋町・豊橋村が合併、豊橋町となる。(3町32村)
- 1896年7月1日 - 大川町から谷川村が分立。(3町33村)
- 1897年2月22日 - 福江村が町制施行、福江町となる。(4町32村)
- 1906年7月1日 (4町28村)
- 大川町・谷川村・細谷村・小沢村が合併、二川町となる。
- 牟呂村・吉田方村が合併、牟呂吉田村となる。
- 1906年7月15日 - 豊橋町・豊岡村・花田村が合併、豊橋町となる。(4町26村)
- 1906年7月16日 (4町17村)
- 田原町・相川村・童浦村・大久保村が合併、田原町となる。
- 赤羽根村・高松村・若戸村が合併、赤羽根村となる。
- 福江町・清田村・中山村が合併、福江町となる。
- 伊良湖村・堀切村・和地村が合併、伊良湖岬村となる。
- 1906年8月1日 - 豊橋町が市制施行、豊橋市となり郡より離脱。(3町17村)
- 1906年8月31日 (3町11村)
- 高師村・福岡村・磯辺村・大崎村・植田村・野依村が合併、高師村となる。
- 高根村・豊南村が合併、高豊村となる。
- 1906年9月10日 - 杉山村・六連村が合併、杉山村となる。(3町10村)
- 1932年9月1日 - 牟呂吉田村・高師村が豊橋市に編入。(3町8村)
- 1955年1月1日 - 田原町・神戸村・野田村が合併、田原町となる。(3町6村)
- 1955年3月1日 - 二川町・高豊村・老津村が豊橋市に編入。(2町4村)
- 1955年4月1日 - 杉山村が分村合併、豊橋市・田原町に編入。(2町3村)
- 1955年4月15日 - 福江町・伊良湖岬村・泉村が合併、渥美町となる。(2町1村)
- 1958年11月1日 - 赤羽根村が町制施行、赤羽根町となる。(3町)
- 2003年8月20日 - 田原町が赤羽根町を編入、即日市制施行し田原市となり郡より離脱。(1町)
- 2005年10月1日 - 渥美町が田原市に編入。同日渥美郡消滅。
注釈
- ^ 伊勢神宮の荘園 御厨・神戸 吾妻鑑の原文 1199年(建久10年、4月27日改元正治元年 己未) 3月23日 乙卯 中将家殊なる御宿願有るに依って、大神宮御領六箇所地頭職を止めらる。その所々の内、謀反狼藉の輩出来せば、神宮より搦め出さるべし。且つはまた案内を触れ申すべきの旨、これを祭主に仰せ遣わさる。而るに彼の六箇所の内、尾張の国一楊御厨は、神宮より宮掌を遣わし、地頭代を追い出すべきの由下知を加え、得分物を検封するの旨風聞せしむの間、故右大将殿薨去せしめ給うの最前件の狼藉に及ぶの條、頗る遺恨たり。尤も御尋ね有るべきものかの由、同じく仰せ遣わさるる所なり。御奉免状の書き様、 御神領 遠江の国蒲御厨・尾張の国一楊御厨・参河の国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨惣追補使 右件の所々の地頭等、別の御祈願に依って、彼の職を停止せられ候所なり。鎌倉中将殿御消息此の如し。仍って執達件の如し。 建久十年三月二十三日 兵庫の頭祭主殿 ※参河の国に、飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨があったことがわかる。
- ^ 田原市のHPによると、伊良湖の檜垣氏が、渥美半島(渥美郡)の伊勢神宮の神領地を総括していた。飽海本神戸・新神戸・大津神戸は、田原市役所南部に、神戸という地名がたくさんあることからこの辺りと比定される。伊良胡御厨とは、伊良湖岬のことであろう。
関連項目

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