湯の花トンネル列車銃撃事件 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋湯の花トンネル列車銃撃事件(いのはなトンネルれっしゃじゅうげきじけん)は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現、八王子市裏高尾町)内の国鉄中央本線、湯の花トンネルで、アメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ウィキペディア(Wikipedia)記事湯の花トンネル列車銃撃事件(いのはなトンネルれっしゃじゅうげきじけん)は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現、八王子市裏高尾町)内の国鉄中央本線、湯の花トンネルで、アメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。
背景日本本土上空の制空権を手中にした連合国軍は、その一部であるアメリカ軍機動部隊の艦載機によって軍事施設や交通機関などのインフラに対し攻撃を行うようになった。最初に行われたのは1945年2月16日に南関東・静岡地区に対してであった。さらには戦艦による艦砲射撃も行われるようになったが、これらの攻撃に対して、日本軍は戦線を大きくアジア太平洋地域に拡大していたため、内地である本土防衛に充てる軍事力を既に喪失していた。 東京周辺には帝都防空用として、陸海軍ともに比較的まとまった数の航空機が配備されていたが、この時期にはすでに弾薬や燃料が底をつき、また、操縦士も極端に不足していたため、飛行可能な機体を地下壕に温存する措置が取られるなどの惨状であった。 一方、日本軍の迎撃のない中、米軍機はやすやすと進入を果たし、鉄道施設及び民間人が乗車している旅客列車に対しても攻撃が行われるようになっていった。そうした列車攻撃の中でも最悪の人的被害を出したのが、中央本線湯の花トンネルにおける機銃掃射事件である。 事件の概略新宿発長野行きの下り419列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。この列車には軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されていたが、殆どが非戦闘員の一般乗客であった。 419列車は通過した八王子駅がアメリカ海軍の艦載機による機銃掃射を受けていたこと、単線区間での列車交換に手間取ったことなどの事情があり、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れの午後0時15分に出発した。この時点ではすでに空襲警報が発令中であったが、停車中に乗客から「早く出せ」と怒声が飛んでいたことや、更なる遅延を回避するため[1]、駅員や乗務員は発車させたともの見られている。 その後、419列車は第一浅川橋梁を通過した後、湯の花トンネルの手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機のいずれかだったと言われている)に捕捉され、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した[2]。この措置はトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒される結果となったため、犠牲者を増加させることとなった。 犠牲者の数については、国鉄の資料によると49名となっているが、慰霊碑では52名以上(氏名判明のみ)としている。また、事件の慰霊会は65名以上が犠牲になったとしている。負傷者は130名以上であったと言われているが、戦時体制下のため、当時の正確な記録が残されていないという[3]。 なお、419列車は送電線が機銃掃射で切断されたため、蒸気機関車に牽引されて浅川駅へ回送され、この事件によって不通となった中央本線は、当日夕方までに送電線の再接続を完了し、全面復旧した。 現在では注釈
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