源氏物語 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋源氏物語 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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源氏物語(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した、日本の長編物語、小説。
文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。
分量、内容、文学的成果のいずれから言っても王朝物語のみならず日本文学史上の雄であり、後世に与えた影響ははかりしれない。
目次 |
現在では通常『源氏物語』と呼ばれている、この物語が作られた当時の本来の題名がなんであったのかは明らかではない。古写本には題名の記されていないものも多く、また記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の古写本の場合、冊子の標題には「源氏物語」ないしはそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。
これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであって、物語の固有の名称であるとは言い難いことや、もし作者が命名した題名があるのならこのようにさまざまな題名が生まれるとは考えがたいため、これらの題名は作者が命名した題名ではない可能性が高いと考えられている[1]。
『紫式部日記』、『更級日記』、『水鏡』などのこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者を「紫式部」と呼ぶことが『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、その通称のもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したと見られることなどから、源氏を主人公とした名称よりも古いとする見解もある。なお、「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。
なお、『河海抄』などの古伝承には、「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがあるが、現在「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することは出来ない。そのため池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしているが、和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者が現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する。」として「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている[2]。
なおこのほかに「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、漢籍の影響を受けたものでありそれほど古いものはないと考えられており、池田亀鑑によればその使用は江戸時代を遡らないとされる。
一条天皇中宮上東門院彰子(藤原道長息女)に女房として仕えた紫式部がその作者であるというのが通説である[3]。
物語中に作者を知る手がかりはないが、以下の書より作者が紫式部であることはまず動かないとされている。
なお、紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。
『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしても、一部に別人の手が加わっているのではないかとする説は古くから存在する。
古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。また『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。また一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなくその娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。
近代に入ってからも、様々な形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする理論が唱えられてきた。
与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。 和辻哲郎は、「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「一つの流派を想定するべきではないか」としている[4]。
戦後になって登場人物の官位の矛盾などから武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた[5]。
これらのさまざまな別作者論に対して、ジェンダー論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりで全て書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、すべて「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとする。として「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した[6]。
阿部秋生は、『伊勢物語』・『竹取物語』・『平中物語』・『宇津保物語』・『落窪物語』・『住吉物語』など、当時存在した多くの物語の加筆状況を調べた上で、「そもそも、当時の「物語」は、ひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である」として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した[7]。
また文体、助詞・助動詞などの単語の使い方について統計学的手法による分析・研究が進められている[8]。
源氏物語が、紫式部によって「いつ頃」・「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、そのころには源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの三・四年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。しかしその後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説が強く唱えられるようになってきた。
しかしそのような説がある一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとは言えず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある[9]。
なぜ紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても直接明らかにした資料は存在せず、古くから様々に論じられている。古注には、
などがある。近代以降にも、
といった様々な説が唱えられている[10]。
詳細は源氏物語各帖のあらすじを参照
54帖より成り、写本・版本により多少の違いはあるもののおおむね100万文字に及ぶ[11]長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さから日本文学史上最高の傑作とされる。ただし、しばしば喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、中村真一郎の説のアプレイウスの『黄金の驢馬』やペトロニウスの『サチュリコン』につづく「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする主張もあり、学者の間でも論争がある。20世紀に入って英訳、仏訳などにより欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多の恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然とするところのない首尾を整えている。
文学史では、平安時代に書かれた物語は『源氏物語』の前か後かで「前期物語」と「後期物語」とに分けられる[12]。後続して作られた王朝物語の大半は『源氏物語』の影響を受けており、後に「源氏、狭衣」として二大物語と称されるようになった『狭衣物語』などはその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。また文学に限らず、絵巻(『源氏物語絵巻』)、香道など、他分野の文化にも影響を与えた点も特筆される。
『源氏物語』は長大な物語であるため、通常はいくつかの部分に分けて取り扱われている。
『白造紙』、『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には宇治十帖の巻数を「宇治一」、「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、この頃すでにこの部分をその他の部分とは分けて取り扱う考え方が存在したと見られる。
その後『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つに分けて「前編」、「後編」(または「正編」(「本編」とも)、「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。
与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つに分けたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した。
その後の何人かの学者はこのはこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部に分け、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける三部構成説を唱えた。この三部構成説はその後広く受け入れられるようになった。
この他に、重松信弘による「桐壺」から「明石」を第一部、「澪標」から「藤裏葉」までを第二部、「若菜」から「竹河」までを第三部、宇治十帖を第四部とする四部構成説や、実方清による「桐壺」から「明石」を第一部、「澪標」から「藤裏葉」までを第二部、「若菜」から「幻」までを第三部、「匂宮」から「夢浮橋」までを第四部とする四部構成説も存在する。
このうち第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫の上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている。(「紫の上系」と「玉鬘系」はそれぞれ「a系」と「b系」、「本系」と「傍系」あるいはそれぞれの筆頭に来る巻の巻名から「桐壺系」と「帚木系」といった呼び方をされることもある。)
また第三部は「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖に分けられることが多い。
上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて
といった呼び方をすることもよく行われている。
また巻々単位とは限らないが、「紫上物語」、「明石物語」、「玉鬘物語」、「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある。
| 帖 | 名 | 読み | 備考 | ||||
| 1 | 桐壺 | きりつぼ | 源氏誕生-12歳 | a系 | |||
| 2 | 帚木 | ははきぎ | 源氏17歳夏 | b系 | |||
| 3 | 空蝉 | うつせみ | 源氏17歳夏 | 帚木の並びの巻、b系 | |||
| 4 | 夕顔 | ゆうがお | 源氏17歳秋-冬 | 帚木の並びの巻、b系 | |||
| 5 | 若紫 | わかむらさき | 源氏18歳 | a系 | |||
| 6 | 末摘花 | すえつむはな | 源氏18歳春-19歳春 | 若紫の並びの巻、b系 | |||
| 7 | 紅葉賀 | もみじのが | 源氏18歳秋-19歳秋 | a系 | |||
| 8 | 花宴 | はなのえん | 源氏20歳春 | a系 | |||
| 9 | 葵 | あおい | 源氏22歳-23歳春 | a系 | |||
| 10 | 賢木 | さかき | 源氏23歳秋-25歳夏 | a系 | |||
| 11 | 花散里 | はなちるさと | 源氏25歳夏 | a系 | |||
| 12 | 須磨 | すま | 源氏26歳春-27歳春 | a系 | |||
| 13 | 明石 | あかし | 源氏27歳春-28歳秋 | a系 | |||
| 14 | 澪標 | みおつくし | 源氏28歳冬-29歳 | a系 | |||
| 15 | 蓬生 | よもぎう | 源氏28歳-29歳 | 澪標の並びの巻、b系 | |||
| 16 | 関屋 | せきや | 源氏29歳秋 | 澪標の並びの巻、b系 | |||
| 17 | 絵合 | えあわせ | 源氏31歳春 | a系 | |||
| 18 | 松風 | まつかぜ | 源氏31歳秋 | a系 | |||
| 19 | 薄雲 | うすぐも | 源氏31歳冬-32歳秋 | a系 | |||
| 20 | 朝顔(槿) | あさがお | 源氏32歳秋-冬 | a系 | |||
| 21 | 少女 | おとめ | 源氏33歳-35歳 | a系 | |||
| 22 | 玉鬘 | たまかずら | 源氏35歳 | 以下玉鬘十帖、b系 | |||
| 23 | 初音 | はつね | 源氏36歳正月 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 24 | 胡蝶 | こちょう | 源氏36歳春-夏 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 25 | 螢 | ほたる | 源氏36歳夏 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 26 | 常夏 | とこなつ | 源氏36歳夏 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 27 | 篝火 | かがりび | 源氏36歳秋 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 28 | 野分 | のわき | 源氏36歳秋 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 29 | 行幸 | みゆき | 源氏36歳冬-37歳春 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 30 | 藤袴 | ふじばかま | 源氏37歳秋 | 玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 31 | 真木柱 | まきばしら | 源氏37歳冬-38歳冬 | 以上玉鬘十帖、玉鬘の並びの巻、b系 | |||
| 32 | 梅枝 | うめがえ | 源氏39歳春 | a系 | |||
| 33 | 藤裏葉 | ふじのうらば | 源氏39歳春-冬 | a系、以上第一部 | |||
| 34 | 34 | 若菜 | 上 | わかな | -じょう | 源氏39歳冬-41歳春 | |
| 35 | 下 | -げ | 源氏41歳春-47歳冬 | 若菜上の並びの巻 | |||
| 35 | 36 | 柏木 | かしわぎ | 源氏48歳正月-秋 | |||
| 36 | 37 | 横笛 | よこぶえ | 源氏49歳 | |||
| 37 | 38 | 鈴虫 | すずむし | 源氏50歳夏-秋 | 横笛の並びの巻 | ||
| 38 | 39 | 夕霧 | ゆうぎり | 源氏50歳秋-冬 | |||
| 39 | 40 | 御法 | みのり | 源氏51歳 | |||
| 40 | 41 | 幻 | まぼろし | 源氏52歳の一年間 | |||
| 41 | - | 雲隠 | くもがくれ | - | 本文なし。光源氏の死を暗示。以上第二部 | ||
| 42 | 匂宮 匂兵部卿 |
におう(の)みや におうひょうぶきょう |
薫14歳-20歳 | ||||
| 43 | 紅梅 | こうばい | 薫24歳春 | 匂宮の並びの巻 | |||
| 44 | 竹河 | たけかわ | 薫14,5歳-23歳 | 匂宮の並びの巻 | |||
| 45 | 橋姫 | はしひめ | 薫20歳-22歳 | 以下宇治十帖 | |||
| 46 | 椎本 | しいがもと | 薫23歳春-24歳夏 | ||||
| 47 | 総角 | あげまき | 薫24歳秋-冬 | ||||
| 48 | 早蕨 | さわらび | 薫25歳春 | ||||
| 49 | 宿木 | やどりぎ | 薫25歳春-26歳夏 | ||||
| 50 | 東屋 | あずまや | 薫26歳秋 | ||||
| 51 | 浮舟 | うきふね | 薫27歳春 | ||||
| 52 | 蜻蛉 | かげろう | 薫27歳 | ||||
| 53 | 手習 | てならい | 薫27歳-28歳夏 | ||||
| 54 | 夢浮橋 | ゆめのうきはし | 薫28歳 | 以上宇治十帖。以上第三部 | |||
実際の古写本や古注釈での巻名の表記には次のようなものがある。
それ以外に「桐壺」に対する「壺前栽」、「賢木」に対する「松が浦島」、「明石」に対する「浦伝」、「少女」に対する「日影」といった大きく異なる異名を持つものもある。
源氏物語の巻名の由来は次のようにいくつかに分けることが出来る。
現在では、3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっているが、古来よりその成立、生成、作者、原形態に関してはさまざまな議論がなされてきた。以下に特に重要であろうと思われるものを掲げる。
現在、『源氏物語』は通常54帖であるとされている。但し巻名が伝わる中でも「雲隠」は題のみで本文が現存しない。そのためこの54帖とする数え方にも以下のの2つの数え方がある。
また、鎌倉時代以前には『源氏物語』は「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられており、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在し、更に宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をされることもあった。37巻とする数え方は仏体37尊になぞらえたもので、28巻とする数え方は法華経28品になぞらえたものであると考えられている。これらはいずれも数え方が異なるだけであって、その範囲が現在の『源氏物語』と異なるわけではない。
但し、それらとは別に現在存在しない巻を含めるなどによって別の巻数を示す資料も存在する。
かつて、『源氏物語』には、現在の『源氏物語』には存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説がある。そもそも『源氏物語』が最初から54帖であったかどうかというそのこと自体がはっきりしない。
現行の本文では(a)光源氏と藤壺が最初に関係した場面、(b)六条御息所とのなれそめ、(c)朝顔の斎院がはじめて登場する部分に相当する部分が存在せず、位置的には「桐壺」と「帚木」のあいだにこれらの内容があってしかるべきであるとされる(現にこの脱落を補うための帖が後世の学者によって幾作か書かれている)。藤原定家の記した「奥入」には、この位置に「輝く日の宮(かがやくひのみや)」という帖がかつてはあったとする説が紹介されており、池田亀鑑や丸谷才一のようにこの説を支持する人も多い。つまり、「輝く日の宮」については(1)もともとそのような帖はなく作者は(a)(b)(c)のような場面をあえて省略した、(2)「輝く日の宮」は存在したがある時期から失われた、(3)一度は「輝く日の宮」が書かれたがある時期に作者の意向もしくは作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された(丸谷才一は藤原道長の示唆によるものとする)、の3説があることになる。なお、「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名であるとする説もある。
それ以外にも古注の一つ、『白造紙』に「サクヒト」、「サムシロ」、「スモリ」といった巻名が、また藤原為氏の書写と伝えられる源氏物語古系図に、「法の師」、「すもり」、「桜人」、「ひわりこ」といった巻名が見えるなど、古注や古系図の中にはしばしば現在見られない巻名や人名が見えるため、「輝く日の宮」のような失われた巻が他にもあるとする説がある。この他『更級日記』では『源氏物語』の巻数を「五十余巻(よかん)」としているが、これが54巻を意味しているのかどうかについても議論がある。
『無名草子』や『今鏡』、『源氏一品経』のように古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。一般的にはこの60巻という数字は仏教経典の天台60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか。」の説明に過ぎず、60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。なお、この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖の他に秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことが出来る6帖が存在する。」といった形で一部の古注釈に伝えられた。源氏物語の注釈書においても一般的な注釈を記した「水原抄」に対して秘伝を記した「原中最秘抄」が別に存在するなど、この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものに付いてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、後に多くの影響を与えた。例えば『源氏物語』の代表的な補作である「雲隠六帖」が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられており、江戸時代の代表的な『源氏物語』の刊本を見ても、
いずれも全60冊になる形で出版されている。
『源氏物語』には、並びの巻と呼ばれる巻が存在する。『源氏物語』は鎌倉時代以前には、「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた(なお並びがあるものは他に『宇津保物語』、『浜松中納言物語』がある)。このことに対して「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると、話がつながるという説がある。その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に仏教色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。
「源氏物語目録をめぐって―異名と并び」(『文学・語学』1978年6月)による。
『源氏物語』の巻名の異名は次の通りであるが、
寺本は、hで「貌鳥」を並の巻の名とする諸書の記述に注目し、「貌鳥」は現在の「宿木」巻の後半ないし末尾であったことを明らかにし、e「若菜」に対する「諸鬘」なども同様であったと推論した。 その他a、jもそれぞれ、「桐壺」が「桐壺」と「壺前栽」、「夢浮橋」が「夢浮橋」と「法の師」に二分されていたことを示すもので、また『奥入』の「空蝉」巻で、
一説には、二(イ巻第二)かヽやく日の宮このまきなし(イこのまきもとよりなし)。ならひの一はヽ木ヽうつせみはおくにこめたり(イこのまきにこもる)。
という記述についても、「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指し、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを本の巻とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱う意味であると理解しようとした。 寺本は結論として、並とは本の巻とひとそろい、ひとまとめになることを示し、巻々を分けまた合わせる組織・構成に関係づけた。
『源氏物語』の巻々が執筆された順序については、「桐壺」から始まる現在読まれている順序で書かれたとするのが一般的な考えであるが、必ずしもそうではないとする見方も古くから様々な形で存在する。
古注の『源氏物語のおこり』や『河海抄』などには『源氏物語』が現在冒頭に置かれている「桐壺」の巻から書き始められたのではなく、石山寺で「須磨」の巻から起筆されたとする伝承が記録されている。但しこれらの伝承は「紫式部が源高明の死を悼んで『源氏物語』を書き始めた」とするどう考えても歴史的事実に合わない説話や、紫式部が菩薩の化身であるといった中世的な神秘的伝承と関連づけて伝えられることも多かったため、古くからこれを否定する言説も多く、近世以降の『源氏物語』研究においては『源氏物語』の成立や構成を考えるための手がかりとされることはなかった。
与謝野晶子は、『源氏物語』は「帚木」巻から起筆され、「桐壺」巻は後になって書き加えられたのであろうとする説を『源氏物語』の全体を二分して後半の始まりである「若菜」巻以降を紫式部の作品ではなくその娘である太宰三位の作品であろうとする見解とともに唱えた[13]。
和辻哲郎は、「帚木」巻の冒頭部の記述についての分析などから、「とにかく現存の源氏物語が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものではないことだけは明らかだと思う。」と結論付けた[14]。
阿部秋生は、「桐壺」巻から「初音」巻までについて、
とする説を発表したが、大きな影響を与えることは無かった。[15]
武田宗俊は阿部秋生の仮説を『源氏物語』第一部全体に広げ、第一部の巻々を紫上系・玉鬘系の二つの系統に分類し、
といったさまざまな理由から『源氏物語』第一部はまず紫上系の巻が執筆され、玉鬘系の巻はその後に、一括して挿入されたものであるとした。[16]
風巻景次郎は、現在の『源氏物語』には存在しない「輝く日の宮の巻」と「桜人の巻」の存在を想定し、それによって武田説に存在した「並びの巻」と「玉鬘系」の「ずれ」を解消し、「並びの巻が玉鬘系そのものであり、後記挿入されたものである」とした[17]。
丸谷才一は大野晋との対談でこの説をさらに深め、(1)b系は空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘を中心に源氏の恋の失敗を描いた帖であることが共通している事、(2)筆がa系よりもこなれており叙述に深みがある事などの点から、a系第一部の評価が高くなったのちに、今度は御伽噺の主人公のように完璧な光源氏(実際にa系の源氏はそう描かれている)の人間味を描くために書かれたのがb系ではないかと述べている。また、b系には後に「雨夜の品定め」と呼ばれる女性論や「日本紀などはただかたそばぞかし」と源氏に語らせた物語論もあり、たいへん興味深いものとなっている[18][19]。
この他にも武田説が出てからは様々な論点から武田説と同様に『源氏物語』が現行の巻の並び通りに執筆・成立されたのではないとする学説が続出した[20][21][22][23][24]。
武田説については、このように大きな影響力を持ち、多くの賛同者を得た一方で激しい批判も数多く受けた。批判を行った点は論者によってさまざまに異なるが、その主なものを挙げる。
「匂宮」巻以降は源氏の亡き後、光源氏・頭中将の子孫たちのその後を記す。特に最後の10帖は「宇治十帖」と呼ばれ、京と宇治を舞台に、薫の君・匂宮の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。
第3部および宇治十帖については他作説が多い。主なものを整理すると以下のとおりとなる。
なお、通説では第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまで言うことはできない)というものである。また、研究者のあいだで通説においても、「紅梅」「竹河」はおそらく別人の作であるとされる。(「竹河」については武田宗俊、与謝野晶子の説でもある。)
「源氏物語の主題が何であるのか」については古くから様々に論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言で言い表すような「主題」については「もののあはれ」論がその位置に最も近いとは言えるものの、未だに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』、『荘子』、『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的、道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解と言えた。『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とは言い難いこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。
これに対し、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として「もののあはれ」論を主張した。この理論は源氏物語全体を一言で言い表すような「主題」として最も広く受け入れられることになった[33]。その後明治時代に入ってから藤岡作太郎による「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある。」といった理論が現れた[34]。
明治時代以後、坪内逍遥によって『小説神髄』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるに伴いさまざまな試みがなされ、中には部分的にはそれなりの成果を上げたものもあったものの、
といった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況であり、源氏物語全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、三谷邦明による反万世一系論や、鈴木日出男による源氏物語虚構論[35]などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、広く合意された結論が出たとは言えない状況である[36][37][38][39][40]。源氏物語のそれぞれの部分についての研究がより精緻になるに従って源氏物語全体に一貫した主題を見つけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる。」という状況になる[41]。平成10年(1998年)から平成11年(1999年)にかけて風間書房から出版された『源氏物語研究集成』では全15巻のうち冒頭の2巻を「源氏物語の主題」にあて、計17編の論文を収録しているが、源氏物語全体の主題について直接論じたものはなく、すべて特定の巻または「○○物語」といった形でまとまって扱われることの多い関連を持った一群の巻々についての主題を論じたものばかりである[42][43]。
『源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代(作者の紫式部も藤原氏で、その上『尊卑分脈』注に「紫式部是也(中略)御堂関白道長妾」とあるなど藤原道長の愛人とされる)に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏(朱雀天皇以降、皇后に源氏がなったことはなく、常に藤原北家からの皇后である)を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いた(王朝物語の全てが源氏が勝利する(例えば『狭衣物語』の狭衣中将)ことを含む)のか。この疑問に対して
がある。 尤も、このような見解についてはそもそも紫式部の当時藤原氏と源氏(あるいはその他の氏族)との政治的な対立は「藤原氏の完全な勝利」ですでに決着しており、当時の政争とは藤原道長とその甥藤原伊周との対立などほぼ全て「藤原氏内部での権力闘争」であった。また藤原道長の正妻が源倫子であるなど、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとは言えず個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方が多い。
写本については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。
詳細は別本を参照
ただし、流通しているものは混合している。
近世以前に印刷されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。また、筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違い、錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。そこで藤原定家はそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。ただし、その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え室町時代には百数十種類にも及んだ。 なお、16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち慶長年間になって、はじめて『源氏物語』の古活字版(大字10行本)が刊行された。現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また『紫式部日記』の記述によれば紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものは無い。『紫式部日記』の記述によると、そもそも作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本が道長の手によって勝手に持ち出されるといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も非常に数が限られている。このため現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。