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糸山 英太郎 /
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東京都生まれ。ゴルフ場経営で財を築いた実業家で新日本観光興業(現:新日本観光)の創立者・佐々木真太郎(1969年には所得日本一となった)と糸山道子との間に出来た子。幼少時は虚弱児で、4歳の時には疫痢で死線をさまよった。
東京府豊島師範学校附属幼稚園を経て、5歳のとき療養で藤沢市に転居。男の子についていけないことを危惧した母の判断により、私立の女子小学校に入れられたが、女の子ばかりの学校に適応できず、4か月で私立湘南学園小学校に転校。ここは男子校だったが、虚弱児童であるためにいじめを受けた。3年生のとき脊椎カリエスを病み、出席日数不足で落第。かつての同級生に遅れを取ることが我慢できず、藤沢市立藤沢小学校に転校。コルセットが取れなかったため、ここでもいじめを受けた。
6年生の夏、受験のことを考えて東京都渋谷区立臨川小学校に転校。ここでもいじめを受けそうになったが、1年遅れで体が大きかったことから番長を投げ倒し、新しい番長となった。このころ自暴自棄になり、慶應受験を断念して渋谷区立広尾中学校に入学。喧嘩と恐喝、酒と煙草に明け暮れる不良少年となり、自主退学や放校を繰り返し、私立正則中学校(港区芝)や文京区立第三中学校を転々とする。
遊興費欲しさにポルノ写真を売ったのが人生最初のビジネスだったが、売りつけた相手が刑事だったために警視庁富坂署へ連行されたこともある[1]。都立の高校受験に失敗して獨協高等学校に入学。ここでもたびたび暴力事件を起こして警察の世話になり、2年生のときに父親から勘当を受ける。この時期、特に学習院に通う良家の子弟を目の敵にしていたという。
19歳で日本大学経済学部に入学。1962年、高校の後輩を助けてリンチを受けたことへの復讐で恐喝事件を起こし、警視庁大塚署に告訴されたが、検事の温情により起訴を免れる。
この事件を機に暴力の世界から足を洗い、1962年に大学を中退して日比谷商事に就職、中古外車のセールスマンとなる(大学については、のち1973年に卒業資格を取得)。1年間で77台の車を売ったのは、当時の業界の新記録だった[2]。
入社1年目で独立したが、顧客の裏切りで35万円の穴を作り、父に泣きついたことから新日本観光に入社することになり、半年間のキャディー研修生活を経て、ゴルフ場の運営で実績を上げる。1968年には同社常務取締役関西支社長に昇進。その後、笹川良一の姪で笹川了平の娘である桃子夫人と結婚して資金的にも恵まれるようになり、政界、投資にも進出していった。
後の総理大臣・中曽根康弘の秘書を経て、1974年、石原慎太郎の後押しにより自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区出馬、32歳で参議院議員に初当選するが、選挙期間中から金権選挙振りがマスコミの耳目を集めた。更に当選直後に大規模な選挙違反が発覚、選対本部長を始め経営していた会社の社員・ギャンブル関係者など142人が逮捕され、1287人が検挙されるという当時としては最大規模の選挙違反事件に発展した(特に義父の笹川了平は初犯だったにも拘らず、この選挙違反で実刑判決を受けた)。
任期が満了した1980年の参院選には、一時期埼玉県選挙区からの出馬を検討していたが、宇野亨の選挙違反事件・浜田幸一の金銭スキャンダルが問題となっていたこともあって出馬を断念。1983年の第37回衆議院議員総選挙から衆議院議員に転身、一度の落選を挟んで3回当選。1996年、任期途中に辞職した。「井上馨以来の貪官汚吏の頭目」と評されたことがある。
新日本観光等の会長職に就いており、東京都港区にある自社ビルのザ・イトヤマタワーには、自らも居住する。糸山政経塾を主宰し湘南工科大学の名誉総長及び名誉教授も務めるほか、国内最大手の航空会社である日本航空の個人筆頭株主であり、エグゼクティブアドバイザーでもある。東京都知事の石原慎太郎とは親友である。
2004年6月、長男・太一朗を新日本観光の代表取締役副社長に迎えた。
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