胡錦濤 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 胡錦濤 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| 胡錦濤 | |
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| 任期: | 2003年3月15日 – 現職 |
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| 任期: | 2002年11月15日 – 現職 |
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| 出生: | 1942年12月21日 |
| 政党: | |
| 配偶: | 劉永清 |
| 胡錦濤 | |
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| 職業 | 政治家 |
| 各種表記 | |
| 簡体字 | 胡锦涛 |
| 繁体字 | 胡錦濤 |
| ピン音 | Hú Jǐntāo |
| 和名表記 | こ きんとう |
| 発音転記 | ホゥー・ジンタオ |
| ラテン字 | Hu Jintao |
| 中華人民共和国 |
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主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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胡 錦濤(こ きんとう、ホゥー・ジンタオ、1942年12月21日 - )は、中華人民共和国の政治家。2002年に中国共産党中央委員会総書記に、2003年に中華人民共和国主席に、2004年には中国共産党中央軍事委員会主席となる。前任の江沢民の次代の総書記であり、現在の最高指導者である。
胡錦濤による支配後は、主に保守的な政治改革と、経済政策において特定の統制の復元がなされた[1]。中国が世界にもたらす影響は胡錦濤の在職中に増大したが、彼の外交政策は前任の江沢民よりも融和的といわれる。
胡の国家主席への出世は、より若く、より実践的な、より官僚的な共産党員の確立という、過去の中国の指導者からの変遷を表している。彼の人生の最大の成熟期は、共産党の官僚主義への参加、特に党の長官としてチベット自治区での活動、そのうえ江沢民の下で国家副主席となったことである。
目次 |
胡錦濤は1942年12月21日に江蘇省姜堰で生まれた。彼の家族の分家は、祖父の代にこの地に移住していた。父は泰州で小さいながらも茶の貿易会社を所有していたが、家族はあまり裕福ではなかった。母は胡が7歳の時に死亡したため、胡はおばに育てられた。父は後に文化大革命で告発され(同時に身分の低い血統であったこともあり)、熱心に父の評判を明らかにしようとしていた胡に大きな影響を与えた。妹の胡錦蓉は江蘇省姜堰市建設局幹部を経て、現在は大手建設会社正太集団有限公司副董事(副会長)。
1959年、胡は高校に進学した。高校では歌やダンスに秀でていた。清華大学在学中の1964年に中国共産党に入党。翌1965年に同大学水利エンジニア学部を卒業する。また大学在学中に劉永清と知り合い、1970年に結婚している。2人は1971年に長男の胡海峰(清華同方威視技術股份有限公司社長)、1972年に長女の胡海清(新浪前CEO夫人)をもうけている。
1968年、甘粛省にある中華人民共和国水利部劉家峡工事局で水力発電所の技師として労働に従事する。それから1969年から1974年にかけて水利部第4工事局でも技師として働いた[2]。
1974年、甘粛省建設委員会に異動し、秘書として働く。翌1975年には同委員会副主任に昇進。1980年、鄧小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。この時、胡も有能な若手党員の一人として、中国共産党甘粛省委員会第一書記の宋平の推薦で中国共産主義青年団(共青団)の甘粛省委員会書記に就任した。
1981年、鄧小平の娘(鄧楠)と胡耀邦の息子とともに、中国共産党中央党校で共産党の高級幹部となるための訓練を受ける。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものだった[3]。鄧楠は胡錦濤に良い印象を持ち、そのことを父・鄧小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に対面させている。
1982年10月、胡錦濤は甘粛省共青団書記に就任する。そのわずか2ヵ月後の12月、共青団中央書記処書記に就任する。2年後の1984年、共青団中央書記処第一書記に昇進し、共青団の事実上のリーダーとなる。共青団中央書記時代の胡錦濤は中国共産党総書記だった胡耀邦の地方訪問のエスコートをしている。
1985年、胡耀邦は胡錦濤を貴州省党委員会書記に就任させた。上海幇の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。
1988年6月、チベット自治区党委員会書記が重病のため辞職した。中国共産党総書記だった趙紫陽は2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に胡錦濤をチベット自治区党委員会書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日、パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は胡錦濤がそれにかかわったと信じている[4]。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった[5]。日本では、この時にチベット独立運動を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち得たと言われることもあり、2008年のチベット動乱の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防御するため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行した。
しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた[6]。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことが出来ず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった[7][8]。しかし胡はチベット自治区党委員会書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。
1992年の中国共産党第14回大会が行われる前に、鄧小平と陳雲を含む党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した[9]。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡錦濤は中国共産党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に中国共産党中央書記処書記にも選出された。
胡は江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した[10]。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任していたが、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年のコソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。
そして2002年に中国共産党第16回大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国、賈慶林、曽慶紅、黄菊、李長春を党中央政治局常務委員に配置し、また自身も中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。
中国共産党総書記に就任した胡は、国務院総理(首相)に指名した温家宝とともに「和諧社会」というスローガンを掲げて格差の是正に努めた。1990年代以降、中華人民共和国社会では改革開放政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まってデモ・暴動・騒乱が増加していたためである。しかし胡錦濤が最高権力者になってからも海外でも大規模な暴動が度々報じられるようになり、特に2004年10月末に発生した四川省漢源の暴動は、建国以来最大規模のものとなった。そのため、「和諧社会」はいまだ成功しているとは言えない。ただし、農村部住民の足かせとなっていた農村戸籍の廃止に地域限定ではあるが乗り出していること、これまで保険制度のなかった農村部に保険を導入するなど、独自の政策も打ち出している。
院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これにより、胡錦濤は中国人民解放軍のトップにもなり、党・政・軍の全ての権力を事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする上海幇との権力闘争は以降も続くことになる。
その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。2005年8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになった。これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。2006年9月には陳良宇上海市党委員会書記が汚職の疑いで解任され、上海幇が勢力を失ったとされた。
しかし、2008年3月15日の第11回全国人民代表大会(全人代)にて、胡錦濤自身は再び国家主席に選出され、中央軍事委員会主席にも選出された[11]ものの、自身と同じ共青団の出身である李克強を国家副主席にすることができず、上海幇の推す習近平が国家副主席に就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。それでも、2007年の中国共産党第17回大会で胡錦濤の勢力が躍進したため、これから胡錦濤の権力は強くなっていくという見方も出ている[12]。
伝染病のSARSへの反応や、国民の公の記念式への注視、胡耀邦の辞任など、中国政府は概してメディアの批判に敏感であるが、胡は「隠れた自由主義者」という初期の期待があったにもかかわらず、マスメディアの自由主義に対して大きく強硬路線で対応した。ただしメディアは、2008年に発生した四川大地震のような国民の関心事については報道している。また、胡はインターネットの監視と警告も行っており、江の時代よりも厳格に、敏感に、政治的検閲を行っている。
2006年3月、中国国内における多数の社会問題への対応として、胡錦濤は、「8つの名誉と8つの恥」という題目の、中国国民に守らせる道徳規律・「社会主義栄辱観」を公開した[13]。「8つの名誉と不名誉」として知られている代わりに、良き国民が名誉と考えるものと、恥と考えるものとが要約された8つの詩趣に富んだ政策が盛り込まれている。いよいよ脆弱になる社会構造の中で主に同世代の中国人が関係している金と権力の掌握と、改革開放後の中国がもたらした、ますます増加する道徳心の欠如を、胡錦濤のイデオロギーで解決する方法として広く知られている。これは中国共産党指導者自身のための基準から、マルクス主義者の理論に貢献するものへと変わった。
北京オリンピックと、2010年に上海で開かれる上海国際博覧会の準備で教室に張られたポスター、街の通りにある旗、そして電子工学による展示板、普及促進はどこでもほぼ明らかである。胡錦濤の政策は、前任者のイデオロギー、すなわち、江沢民の3つの代表、鄧小平理論、そして、時代の中心であった毛沢東思想とは異なり、社会的・経済的目標を課すことに反対して道徳規範を成文化したものへ推移している。
胡は外交政策として、ベネズエラ、イラン、カナダ、オーストラリアのようなさまざまな国と同盟を結んでおり、江のアメリカ中心の政策からの脱却に集中している[14]。
胡は北朝鮮の核兵器問題に積極的に従事している点で、江とは異なる。胡はまた、中国和平崛起の概念に基づき、地域の隣国を保証している。彼は貧しいアフリカ民族の援助と腕の立つ労働者の引き換えとして、中国の影響力増大を集中させるアフリカ、パキスタン、ブラジルのような、資源に基礎を置く国との関係の強化を求めていた。彼の立場は、アフリカの大多数からは好意的に見られている。加えて、彼の職務上の立場は、テロリズムを含めた世界的な問題においてアメリカと類似する。
国家主席の早期に、胡は当時中華民国総統であった陳水扁による台湾独立運動に直面する。陳は九二共識の拒否を前提条件としないことには訪問はしなかった。陳水扁と民主進歩党は、中国が注意を払っている台湾問題の声明と、最終目標である台湾独立の表明を続けてきた。胡は最初に、和と厳を組み合わせた対応をした。胡は、台湾にとって重大な問題について柔軟に交渉することを表明し、他方で、依然として最終目標である中国統一についての考えを明らかにすることを前提条件とはしないことを拒絶し続けた。胡による統治は、依然として台湾政府による中国からの独立宣言の試みを中国本土側は容認しないという堅固な姿勢を取っている。
2004年に陳が再選すると、胡はやり方を変えた。胡は陳の台北での行政方針への接触はせず、民進党の独立傾向や九二共識を認めないというやり方で処理した。胡は、台湾が軍事を増強し、強く孤立化する外交政策を続けていると主張した。2005年3月、全国人民大会で反分裂国家法が可決され、台湾での独立宣言に対しては、「非平和的に」対応することを決めた。胡は、民進党と対立している中国国民党との接触を増やした。中国国民党と中国共産党との関係は、北伐と日中戦争といった、両者が2度の共同戦線を張った国共内戦前まで遡る。接触の増加は、2005年4月、国民党主席(当時)の連戦と胡との歴史的な会談を含めて、2005年の泛藍連盟の政治家による中国大陸訪問で最高潮に達した[15][16] 。
2008年3月20日、台湾で国民党が勝利し、中華民国立法院でも国民党が過半数を占めた。前任の連戦と比較して影響を持つ状態、とくに台湾での国民党支持者とのつながりを胡は先行して探している[17]。中国共産党と中国国民党との一連の会合は続いた。2008年4月12日、胡はボアオ・アジア・フォーラムの開催中に国民党副主席(当時)の蕭万長と会談し、2008年5月28日には、与党となった国民党とのあいだで、国民党主席の呉伯雄と初の党首会談を行った。この会談で、胡と呉は九二共識のもとで双方とも公式会談を再開すべきであるという意見で同意した。呉は台湾独立に反対の立場を表明した。胡は台湾の世界保健機関への加盟を容認するとともに、台湾の人々の関心事への処理、防衛、尊厳、そして国際社会での台湾の立場は、中国共産党政府が決めることを表明した。
党の間の路線と同様に、海峡交流基金会と海峡両岸関係協会を経由しての半政治的な会談は、北京にて最初に行われるとともに、2008年6月に九二協識の基礎として再開が予定されていた。胡と、彼によく似た馬英九の両者は、九二協識が台湾海峡における双方の間の交渉の基礎となることで合意した。
2008年3月26日、胡はジョージ・W・ブッシュに、九二協識では双方が、「中国は1つであるが、その定義については意見を異にすることで同意した」ということを電話で伝えた[18]。海峡交流基金会と海峡両岸関係協会の会談における最初の優先事項は、三通の開通、とくに中国本土と台湾の間での直行便を出すことであった。
1990年代の江沢民政権期、中華人民共和国国内の教育は愛国的な色彩を強め、インターネットが普及すると「愛国者同盟網」「中国民間保釣連合会」「反日先鋒」など愛国的なナショナリスト団体の運営するウェブサイトが立ち上げられるようになった。これらのサイトは民衆の社会不満を政治運動に結びつける可能性があるため、胡錦濤が党総書記に就任すると閉鎖や活動停止の処分を受けていたが、2005年春以降次々と復活し、各種メディアでも愛国的な記事や戦時中の日本軍の侵略行為についての特集が見られるようになった。
同年4月には北京で反日デモが発生し、一時政府の制御が及ばない事態となった。翌5月、日本の産経新聞や香港紙「成報」は、胡錦濤が党内の保守派に詰め寄られたという記事を掲載した。胡錦濤が影響力を持つ「中国青年報」は愛国的な報道を控えていたが、翌6月には他紙と同様の傾向を見せるようになった。中華人民共和国では、法制上あらゆるメディアが中国共産党の意向を受け入れなければならないため、「中国青年報」の変化や愛国的サイトの復活は、胡錦濤が党内の保守的なグループに一定の譲歩をしたことを示すという見方もある。
胡錦濤自身の対日姿勢は前国家主席の江沢民ほど強硬ではなく、2008年5月に来日した際には、共同文書に歴史問題を含めず、日本が戦後60年間世界の平和に一定の役割を果たしてきたことを評価した[19]。また、来日時に早稲田大学で講演を行い、日本の円借款などによる支援が中国の経済成長に貢献したことを認めた[20]。
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