能 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋能(のう)は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種である「能楽」の一分野である。その起源は議論の分かれるところであり正確な事はわかっていない。現在の能は中国伝来の舞、日本古来の田楽、延年などといった様々な芸能や行事の影響を受けて成立したものであると考えられている。現在は日本における代表的な伝統芸能として遇され、歌舞伎に並んで国際的に高い知名度を誇る。重要無形文化財。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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能は、俳優(「シテ」)の歌舞を中心に、伴奏である地謡(じうたい)や囃子(はやし)などを伴って構成された音楽劇・仮面劇である。舞と謡を担当し、実際に演技を行うのがシテ方、ワキ方および狂言方であり、伴奏音楽を担当するのが囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)である。
能は、シテ方が中心となって行われるため、ワキ方、囃子方、狂言方を総称して「三役」と呼ぶ。
能の特徴は数多いが、中でも重要なのは「死者」が能の中心となっているという点である。八世観世銕之丞は能の大きな特徴として「死者の世界からものを見る」という根本的な構造を指摘している。すなわち、能においては多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)であり、常に生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出すという構造を持っているのである。これについて銕之丞は、観阿弥・世阿弥・金春禅竹らによって猿楽が集大成された室町期は戦乱の時代であり、死が人々にとって極めて身近なものであったことを、こうした構造の理由に挙げている。[1]
梅若猶彦もこのような死者による語りの構造を重視し、能はこのような構造を持つことで、能独自の美の世界の構築を可能としていると指摘している。梅若はその例として、「実盛」のシテである斉藤実盛の亡霊がワキの夢の中に登場し、己の死に様を語りながら、己の生首を洗うという場面を挙げている。この場面ではシテ演じる実盛の亡霊には首が付いているのであるが、同時に実盛の亡霊は切り落とされた自分の生首を手に持っているのである。このような不条理な演出が可能となっている理由として梅若は、能が一般に「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」という難解な構造を持っていることを指摘し、「死者による語り」という能の基本構造が、こうした他に例を見ない物語世界の構築を実現していると論じている。[2]
また玄人による能は、入念なリハーサルを行わない上に一度きりの公演であるという点も独特である。通常の演劇では事前にリハーサルを重ね、場合によってはゲネプロという形で全て本番と同じ舞台・衣装を用いるが、能では事前に出演者が勢揃いする「申し合わせ」は原則一回であり、しかも面や装束は使用しない。これについて前出の八世観世銕之丞は、能は本来、全て即興で演じられるものであり、出演者同士がお互いのことを解りすぎていることは、能においてはデメリットになると論じている。[3]
能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町初期)の公家の挙措やたたずまいのように「ただ美しく柔和なる体」を「幽玄」としている。ただし、梅若猶彦は世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘しており[4]、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではない。
「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれておらず、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試み、またこの美的性質は子方の演技においても稀に感得されることがあると指摘している。梅若は「妙」と「幽玄」を比較し、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであるのに対し、「幽玄」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質に留まると論じている。[5]
舞は能の根幹をなす要素である。柳田国男の論を受けた渡辺保によれば、「踊り」が飛躍や跳躍を含む語であるのに対し、「舞」は「まわる」つまり円運動を意味する語であり、そこに能の舞の特色があるとされる。能の舞の特徴は、極端な摺り足と独特の身体の構え、そして円運動である。
摺り足とは、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)、これを円滑に行うためには膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢をとる必要がある。すなわちこれが「構え」である。また能は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形に近い舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。
また能の舞は、静的であり、一曲の中にはなはだしい緩急がなく、身体に極度の緊張を強いることでかたい線を出そうとするという特色も持っている。
舞は以下のように分類される[6]。
詳細は謡曲を参照
謡とは、八世観世銕之亟によれば「七五調を基本にした長い詩」である[7]。七五調で書かれた十二文字を一つの節として、八拍子でうたわれる。ただし八拍子から外れたリズムで謡われる部分もある。八拍子で謡われる部分を「拍子合」(ひょうしあい)と呼び、標準的なテンポを平ノリ(ひらのり)、速めのテンポを中ノリ、遅めのテンポを大ノリと呼ぶ。八拍子から外れているリズムの謡は「拍子不合」(ひょうしあわず)と呼ばれる[8]。
能において謡をうたうのは大別するとシテ、ワキ、ツレなど劇中の登場人物と、「地謡(じうたい)」と呼ばれる8人(場合によってはこれより少ない)のバックコーラスの人々である。劇中の登場人物の謡はそのまま登場人物の科白となる。一方、地謡は登場人物の心理描写や情景描写を担当しているが、場合によってはシテの感情を代弁してうたうこともあり、ワキと地謡が掛け合いをするケースもある。
地謡は地頭(じがしら)と呼ばれる存在がコンサートマスターのような役割を果たしている。また地謡は意図的に個々の者が声の高さを変えてうたうヘテロフォニーを用いている。地謡は地謡座で前後二列になり、舞台を向いて座る。各々扇を持っており、謡う際にはそれを構え、休みの際には下ろす。
謡の発声法は「弱吟」(よわぎん)と「強吟」(つよぎん)の2種類に分かれている。同じく八世観世銕之亟によると、「弱吟」は細かい音階をもつメロディアスな表現、「強吟」は音の強弱を強調した表現とされる。
謡は大きく、節回しのある部分と節回しのない部分(コトバ)とに分けることができる。節のある部分には拍子合と拍子不合がある。コトバは通常の科白、対話に相当し、役を演じる者(シテ、ワキ、ツレ)だけが発声する[9]。地謡はかならず節のある謡をうたう。また役を演じる者同士の対話であっても、ある点までコトバのやりとりであったものが、片方の感情の高潮によって途中から節のついた謡へと切替わることが少なくない。
なお、新作能を除くと謡に用いられている言葉は室町期の日本語である。
能の囃子(能楽囃子)に用いられる楽器は、笛(能管)、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおかわ、大皮とも称する)、太鼓(たいこ、締太鼓)の4種である。これを「四拍子」(しびょうし)という。小鼓、大鼓、太鼓はこれを演奏する場合には掛け声をかけながら打つ。掛け声もまた重要な音楽的要素であり、その譜は固定している。
一曲のうちには、「謡のみによって構成される場面」「謡と囃子がともに奏される場面」「囃子のみが奏される場面(たいていの場合、これはシテの舞である)」の3つが複雑に入り組んでいる。概していえば囃子が謡とともに奏される場合には謡の伴奏的な役割をはたす。また現在では能が始まる合図として、橋がかりの奥にある「鏡の間」で囃子方が音出しを行う「お調べ」が用いられている。
以上のほかに、舞台上でシテが鉦鼓(しょうこ)を鳴らす場合もある(『隅田川』『三井寺』)。多くは鐘の音や念仏の鉦鼓の音を表現するためだが、この場合もやみくもに打つのではなく、決まった譜がある。また新作能においては、これら囃子方以外の音楽家が背景音楽の演奏に加わることもある(「伽羅沙」でのキリスト教の賛美歌やパイプオルガンなど)[12]
能は型(演技等の様式、パターン)によって構成されている。舞、所作、謡、囃子、全てに多様な型がある。これらの型の成立の経緯についてははっきりしないが、前出の梅若猶彦は型の出現を江戸期、型が安定的に継承されるようになったのは昭和期ではないかと推測している。型が出現した理由として梅若は、身体動作に名前を付けることで学習が効率的になるということを挙げている。また梅若は、現代の能においてはこれらの型が必要以上に重視され、一種の信仰の対象のようになっていることの弊害も指摘し、世阿弥の著述からは型への信仰は窺えないこと、重要なのは役者が自分の内面と身体の関係を自由にコントロールできる能力を身に付けることであり、型の学習のみではそれは不可能なことを指摘している。[13]
以下に能の型の例を示す。
「のうめん」と読むが、面とだけ書けば「おもて」と読むのが普通。様々な種類がある。面をつけない直面(ひためん)物もある。能面参照。
今日では装束(しょうぞく)も様式化され、使用法が厳格に定められている。例えば色においても、白は高貴なもの、紅は若い女性を示す。また中世や近世から能楽師の家に伝わる装束も多い。なお、装束が現在のように豪華なものとなったのは江戸期である。その背景には、江戸期における織物技術の発達、将軍家をはじめとする為政者の潤沢な資金の流入がある。[14]
舞台に乗せる道具類で、予め作って保管しておくものを「小道具」、演能の度に作る物を「作リ物」と呼ぶ。作リ物は比較的大きな物が多く、舟、車、塚、屋台等を表す。作リ物は極端なまでに簡略化され、例えば「舟」は竹ヒゴ製模型飛行機の主翼を大きくしたようなものに過ぎないが、能にはこれで十分である。大きな作リ物としては、『道成寺』の鐘がある。これは中でシテが装束を替えられるだけの大きさがある。これら作リ物類を製作するのも、現在ではシテ方である。
能の主人公は「シテ(為手、仕手)」と呼ばれる。多くの場合、シテが演じるのは神や亡霊、天狗、鬼など超自然的な存在であるが、生身の人間を演じることも無いわけではない(「安宅」における弁慶など)。シテが超自然的な存在を演じる曲を夢幻能、シテが現実の人間を演じる曲を現在能と呼ぶ。
シテを演じる為の訓練を専門的に積んでいる能楽師をシテ方と呼ぶ。シテ方が演じるのはシテの他、ツレ、トモである。また、一般に子方[15]はシテ方としての訓練を受けている最中の子供が演じる[16]。これら能の登場人物の他、地謡と後見[17]もシテ方の担当である。
シテにかかわりのある登場人物のうち、主だったものをツレ、物語の筋に深く関係を持たない端役的なものをトモ、トモのうち単に大人数を舞台に出すことを目的として登場する役を立衆(たちしゅう)と呼ぶ。このうちツレには『蝉丸(せみまる)』『大原御幸(おはらごこう)』のように、ごくまれにシテとほぼ同格と言える重要な役割を持つものがあり、このような能を「両ジテもの」と称する。ツレ以下が存在しない能もある。
シテとともに能に不可欠な登場人物がワキである。ワキを演じる為の訓練を専門的に積んでいる能楽師をワキ方と呼ぶ。ワキはシテの思いを聞き出す役割を担う。その為、ワキは僧侶役であることが非常に多い。また、その役割は上記のとおり一方的にシテの言うところを受けとめるものなので、舞台上で華々しい活躍を見せることはめったにない。その役柄故、舞台上では座っていることが殆どなので、「ワキ僧は煙草盆でもほしげなり」という川柳も詠まれている。なお、ワキにつくツレを「ワキヅレ」という。多くの場合シテにおけるトモに近いものである。
ワキおよびワキヅレはワキ方が演ずる。ワキ方はシテ方との対比上、硬質で剛直な芸風を求められるとするのが一般的な説である。
ワキは本来「脇のシテ」の略であり、古くはシテ方ワキ方の別はなかったとされる[要出典]。一座の第二位の役者、もしくは第一位の役者(「太夫」と言う)の後見役にある役者がワキである[要出典]。中世期、ワキが地謡の統率者(地頭)を兼ねており、その影響で、江戸時代に入ってシテ方とワキ方が分離した時期においても地謡はワキ方が担当することが多かった[要出典]。時代が下るにつれてシテ方と交替し、あるいは過渡期的に「地謡方」という専門の役職ができたりして変遷をたどりながら現在のかたちに落ちついたとされ、現在のシテ方にももと地謡方、あるいはワキ方の家であったものは多く存在する[要出典]。
狂言方が能の劇中に登場することも多い。狂言方が担当する役を「アイ」もしくは「間狂言(あいきょうげん)」と呼ぶ。多くの場合、こうした能は前場と後場に分かれており、前後でシテが装束を変えるために、その場をつなぐ目的で狂言方の役者が能の物語にまつわる古伝承や来歴を語るものである。アイには一人で行うものと、多人数で行うものがある。また単純に物語をするだけのものと、ワキ方やシテ方に絡んで物語の筋を構成するものとがあり、前者を語アイ(坐って語るものを「居語アイ」、立って語るものを「立語アイ」と呼ぶ)、後者を「会釈アイ(あしらいアイ)」と称する。まれに間狂言のない能も存在する。
上手より笛(ふえ)、小鼓(こつづみ)、大鼓(大革)(おおつづみ、おおかわ)、太鼓(たいこ)と並ぶ。小鼓方と大鼓方は床几(しょうぎ)を用いる。太鼓は獅子や鬼など超自然的威力のあるシテが現れる際に用いられる。太鼓なしの囃子を三拍子、太鼓を含むと四拍子と呼ぶ。笛は旋律を奏でるというより、情景を象徴したり打楽器的に用いられたりする。囃子方の発する掛け声も能の重要な要素である。
能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に大陸より伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びつき、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能の原型がつくられていった。
一方、平安時代中期頃より、神道的宗教行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。
猿楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼし合い発展していった。12世紀・13世紀頃から同業組合として「座」が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。14世紀になると、代わって武家が田楽を保護するようになり、衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。そのような状況のなか、大和猿楽の一座である結崎座より 観阿弥(觀阿彌)が現れ、旋律にとんだ「曲舞(くせまい)」(白拍子の芸)などを導入して従来の猿楽に大きな革新をもたらした。
このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる催しである。これは猿楽や田楽の座がお互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の世俗的な成功に直結していた。観世座における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がる為という側面があった。[18]
1375年、将軍足利義満は、京都の今熊野において[19]、観阿弥とその息子の世阿弥(世阿彌)による猿楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座(観世座)を庇護した。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは猿楽をさらに洗練していった。また足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは時の権力と結びつきながら、現在の能の原型を完成させていった。
なお、室町期に成立した大和猿楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。[20]
戦国時代には能の芸の内容に大きな発展は無かったと考えられている。しかし能は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は1582年に安土の総見寺で徳川家康とともに梅若家の猿楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われる。また信長の長男の織田信忠は自ら能を舞ったとの記録がある。
信長に続き日本の最高権力者となった豊臣秀吉は、晩年熱心に能を演じた。1593年10月には秀吉は後陽成天皇の前で3日間連続で何番もの能や狂言を演じている。[21]
しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の猿楽には興味を示さなかった為、この時期に多くの猿楽の座が消滅していった。言わば、秀吉によって現在に続く能がそれ以外の猿楽から選別されたのである。
江戸期には徳川家康や徳川秀忠、徳川家光など歴代の将軍が能を好んだ為、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。猿楽師出身でありながら大名にまで出世した間部詮房という人物も知られている。
なお、徳川家も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間に喜多流の創設を認めている。
徳川家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、徳川綱吉は宝生流を好んだ為、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え能楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。この結果、現在でも石川県や名古屋は宝生流が盛んな地域である。
その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。しかし、謡曲は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に見る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという。
幕府の儀式芸能であった能は、維新後、廃絶の危機に瀕した。1869年にはエジンバラ公爵の来日に際して能が演じられたが、1872年(明治5年)には能・狂言の「皇上ヲ模擬シ、上ヲ猥涜」するものが禁止され、「勧善懲悪ヲ主トス」ることも命じられた。
しかし、明治天皇は1878年には青山御所に能舞台を設置し、数々の能を鑑賞した。また 岩倉具視は1879年にはユリシーズ・グラントを自邸に招いて能を上演させ、更に能楽社(のちの能楽会)の設立や芝能楽堂(1881年落成)の建設を進めた。[22]
こうして明治維新直後の危機は過ぎ去ったが、やがて各流派はお互いに排他的姿勢を見せるようになり、流派間の交流や共演は消滅していった。
その後、軍国主義が激しさを増すと、天皇家を多く題材とした能には厳しい目が注がれるようになり、1939年(昭和14年)、警視庁保安課は不敬を理由に「大原御幸」を上演禁止とした。その一方で、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を題材とした新作能も作られるようになった。
第二次世界大戦の敗戦は能界に大きな転機をもたらした。戦災によって多くの能舞台が焼失した為、それまで流派ごとに分かれて演能を行っていた能楽師たちが、流派の違いを超えて焼け残った能舞台で共同で稽古を行いだしたのである。その為、若手の能楽師たちは他流派の優秀な能楽師からも教えを受けることが多くなり、大いに刺激を受けるようになった。観世銕之丞家の次男であった観世栄夫は、この時、観世流と他流の身体論の違いに大きな衝撃を受け[23]、結果的に芸養子という形で喜多流に転流して喜多六平太の養子となり、後藤栄夫を名乗った。また栄夫の弟で八世観世銕之丞となった観世静夫も、この時期の他流との交流開始の衝撃の大きさを語っている[24]。
なお、この時期にこうした交流の場となった能舞台としては多摩川能舞台(現在は銕仙会能楽研修所に移築)などが挙げられている。
詳細は観世流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流、下掛宝生流をそれぞれ参照
能の流派は大和四座の系統の流派と、それ以外の日本各地の土着の能に分けられる。大和四座とは観世座、宝生座、金春座、金剛座であるが、更に江戸期に金剛座から分かれた喜多流の五つを併せて四座一流と呼ぶ。喜多流は金剛流より出、金春流の影響を受けつつ江戸期に生れた新興の一派であって、明治期にいたってほかの四流と同格とされた。喜多流は創流以来座付制度を取らず喜多座と呼ばれることはなかったので、五座ではなく四座一流となる。四座のうち奈良から京都に進出した観世、宝生を上掛り(かみがかり)と呼び、引き続き奈良を根拠地とした金春、金剛を下掛り(しもがかり)と呼ぶ。喜多は下掛りに含む。
大和四座は豊臣秀吉が政策的に他の猿楽の座(丹波猿楽三座など)を吸収させた為、江戸時代に入る頃には事実上、日本の猿楽[25]の大半を傘下におさめていた。現在、四座一流の系統の能楽師たちは社団法人能楽協会を組織しており、能楽協会に加盟している者が玄人の能楽師と位置づけられている。
一方、大和四座に統合されなかった能が残存している地域もあり、四座一流では演じられない曲目や、その地域独特の舞いを見ることが出来る。有名なものとしては、山形県の春日神社に伝わる黒川能、黒川能から分かれた新潟県の大須戸能などがある。
なお、能楽協会所属の能楽師によって上演される能においては、能全体の流儀はシテ方の流儀によって示される。また能に限り、家元を宗家(そうけ)と称する。これは江戸期に観世家に限り分家(現在の観世銕之亟家)を立て、これをほかの家元並みに扱うという特例が認められたことに基づくものである。分家に対し、本家が「宗家」と称したのがやがて「家元」の意味で用いられるようになったものである。現在では、同姓の分家との関係で用いられないかぎり、ほぼ「家元」の言いかえである。
江戸時代以前、猿楽の役者たちはいずれかの座に所属して活動していた為、現在のようにシテ方が自由に三役を好きな流派から選んで演能をすることは無かった。以下に江戸時代における各座の構成を示す。
(カッコ内は2005年の能楽協会名簿における所属の能楽師の数)
1400年、世阿弥は『風姿花伝』(一名花伝書)を著した。この書の第一章にあたる「年来稽古条々」は「初心わするべからず」や「時分の花」などよく知られた内容があり、その理論は現代で通用するものと評価されている。内容には、観阿弥の考えも含まれているとされる。その後世阿弥は、『花鏡』、『拾玉得花』、『申楽談儀』(口述)など研鑽に基づく理論を伝書として残している。現在二十一種が伝書として知られている。
古くから続く家には、秘伝を記した書物が伝承されていることがある。これを「型附」(かたづけ)と呼ぶ。
江戸時代には、『翁』+五本の能を上演するのが正式であった。これを翁付き五番立と呼ぶ。どの曲をどのような順序で上演するのかも、序破急の概念を用いて決められていた。
具体的には、能の曲を五種類に分け、
の順で演じた。これらの能の間には狂言が挟まれるため、全体では大変な長時間を要した。
現在ではこれだけ長時間の演能は難しく、能二番の間に狂言一番程度をはさむ形態の公演が多い。それでも五番立の順序は重視されている。例えば五番目物『石橋』の後に三番目物『井筒』を上演するようなことは稀である。
五番立で演能する際、五番目がめでたい曲(祝言能)ではなく暗い内容の能である場合は、『高砂(たかさご)』等、神能ものの後場のみを演じ(後半部分のみ演ずることを半能という)、めでたい気分で納めるのが建て前であった。さらに略して最後の一章のみを素謡で謡ってすますこともあった。「付祝言(つけしゅうげん)」と称するこの習慣は、演能時間が短くなった今日でも見られる。
能の番組面の例を右図にしめす。シテの演者名は演目の右肩に書かれ、ワキの演者名は演目の真下に書かれるのが慣例である。なお「小書(こがき)」とは特殊演出を指す。
本節では中世に成立した古典の曲目のうち、現在でも頻繁に上演されているものを紹介する。これらは現行曲と呼ばれ、流派によって異なるが、おおむね二百数十番が現行曲とされている。しかし歴史的にはこれらの他にも2000番から3000番程度の曲が作成されている。これら廃曲となった曲の中には、現代になって再演を試みられる(復曲)こともある。また近代や現代においても新しい曲が書かれることがある。これらは新作能と呼ばれる。[27]