舛添要一 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋舛添 要一(ますぞえ よういち、1948年11月29日 ‐ )は、日本の政治家、国際政治学者、タレント。参議院議員(2期)。自由民主党参議院政策審議会長、厚生労働大臣。株式会社舛添政治経済研究所所長。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 舛添要一 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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参議院議員 舛添 要一![]() |
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| 生年月日 | 1948年11月29日(59歳) | ||
| 出生地 | 福岡県北九州市八幡東区 | ||
| 出身校 | 東京大学 | ||
| 学位・資格 | 学士 | ||
| 前職 | 政策研究所代表 | ||
| 所属委員会 内閣役職 |
厚生労働大臣 | ||
| 世襲 | 無 | ||
| 選出選挙区 | 比例区 | ||
| 当選回数 | 2回 | ||
| 所属党派 | 自由民主党(無派閥) | ||
| 党役職 | |||
| 会館部屋番号 | 参・議員会館219号室 | ||
| ますぞえ要一公式サイト | |||
舛添 要一(ますぞえ よういち、1948年11月29日 ‐ )は、日本の政治家、国際政治学者、タレント。参議院議員(2期)。自由民主党参議院政策審議会長、厚生労働大臣。株式会社舛添政治経済研究所所長。
目次 |
福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)に父・弥次郎、母・ユキノの長男として生まれた。4人の姉がいる。父は当時食品店を経営しており、比較的裕福な家庭だったが、小学生の時の火災をきっかけに家業が傾き、中学時代には父が死去、以後は苦学した。
八幡市立(現北九州市立)祝町小学校、同大倉中学校、福岡県立八幡高等学校を経て、東京大学入学。1971年、東京大学法学部政治学科を卒業後、ヨーロッパ政治史を専攻。助手として研究室に入り、篠原一、岡義達らの指導を受けた。その後はヨーロッパに留学し、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ高等国際政治研究所客員研究員などを経て1979年に東京大学教養学部助教授。フランスの政治・外交を専門とし、国際関係論などを講じていた。
1980年代末から『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』などの討論番組に頻繁に出演し、テレビ映えする討論スタイルで脚光を浴びる。1989年6月に東京大学の体質を批判して退官、フリーとなってからはバラエティ番組などにも活動の場を広げ、引っ張りだこの人気者となった。当時は冷戦終結や湾岸戦争などで流動化する国際情勢が注目され、また国内ではリクルート事件、消費税導入などを経て自民党体制が揺らぎ、やがて政界再編に突入、オウム真理教事件や少年犯罪など社会を揺るがす事件も増える中で、内外の政治経済から始まって広く社会問題に至るまで縦横に論じる文化人・知的タレントの代表格としてお茶の間の人気を博した。
政治との関わりでは、1991年、北海道知事選挙に、自由民主党から擁立されて立候補を検討したことがある。しかし、知名度で担がれたため、それまで北海道には何のゆかりもなく、出馬表明前の事前調査で現職候補・横路孝弘との圧倒的な差を見て、出馬を辞退した(ただ、以後北海道白老町に別荘を購入するなどしている)。その後も度々政界進出が噂されたが、後述の介護体験も一つのきっかけとなり、1999年4月には東京都知事選挙に無所属で出馬。石原慎太郎の圧勝の前に3位で落選したが84万票を獲得した。
2001年7月、第19回参院選に比例代表区から自民党候補として立候補し、1,588,862票を獲得しトップ当選。
2005年、自民党が結党50年に発表した憲法草案においては、党新憲法起草委員会の事務局次長として草案作成の取りまとめに大きな役割を果たした。そのことも評価され、2006年10月、安倍政権発足に伴い当選1回ながら自民党参議院政策審議会長に就任した。
2007年7月29日の第21回参院選では、再選を目指し自民党公認で比例代表区より立候補、与党への逆風の中で票を減らしたが、467,735票を獲得して自民党トップで当選した。選挙前後を通じて安倍内閣の閣僚や安倍総理の政権運営を厳しく批判してきたが、2007年8月27日の安倍改造内閣において年金問題を始めとする多くの問題を抱える厚生労働大臣に任命され、安倍首相の辞任をうけて2007年9月26日に発足した福田康夫内閣、さらに2008年9月24日に発足した麻生内閣においても続投した。
高い知名度から議員となってからもテレビ出演の機会は多く、政府や党のスポークスマン的な役割も果たしている。2007年4月より、朝日ニュースター『政治学原論』のキャスターとして週1回ゲストと討論している(厚生労働大臣就任後は多忙につき自らゲストとして随時出演)。
政界入り以前は競走馬も保有していた。サプライズパワー(東京ダービー、かしわ記念、日本テレビ盃の勝馬)の馬主であり、サプライズパワーとアトミックサンダーで2年連続東京ダービーを制している。ファイティング・ナイフやハンティング・ナイフのコレクターで、東京でサミットが開かれて厳戒体制が敷かれているさなか、車(日産・テラノ)の荷台に何本かのナイフと1本の木刀を載せて都内を走っていて逮捕されそうになった。
英語、フランス語に堪能で訳書も多い。その他のヨーロッパ諸言語にも通じ、1997年には『舛添要一の6カ国語勉強法』という本を出版した。留学先のフランスで始めた柔道は講道館二段である。
『朝まで生テレビ!』には草創期からの常連出演者で、番組20年目を迎えた2006年春までの229回の放送中95回に出演。これは大島渚(87回)、高野孟(66回)、西部邁(53回)などを凌いでトップである。1996年3月放送の『朝まで生テレビ!』(テーマ:ホンネ激論!日韓共生の道はあるか!?)において、2002年のワールドカップ誘致合戦に話題が及ぶと「私に言わせればサッカーなんてたかが球ケリですよ! たかが球ケリの為に日韓関係が壊れてはいけない。ぜひ次のワールドカップは韓国で開催して頂きたい。それで日韓関係が良くなるのならそのほうがいい。」と発言。韓国側のパネリストから拍手を受けた。
週刊文春の連載「デーブ・スペクターのTOKYO裁判」[1]で、中国天安門事件に関し舛添は「いや共産主義じゃなくとも、100万人ぐらい殺せる大政治家じゃないとどこの国でもダメだってこと」「僕は宇野さんに何十人愛人がいてもいいと思う。企業から何億円お金もらったっていいと思う。大事なのは彼がどういう政策を実行するかという点です。へソの下はどんなにダーティでもいい」「土井たか子みたいに男に恵まれないような女性に限って、男の浮気を批判するんだ。金丸信がいったように、男も知らない女が党首になっちゃ、社会党もダメだね。人類の半分を知らない奴に政治はできない」「政治家にはものすごいエネルギーが要求されるの。日本国民1億2000万人を救うためなら、軍隊を出動させることだってある。自分の嫁さん以外の女の1人や2人抱くぐらいのエネルギーがないような奴に日本の政治は任せられないよ」と発言した。
2000年問題のとき、ホテルの缶詰などを用意していたが、結局何も起こらなかった。この事を「号外!!爆笑大問題」において「着々と準備中」とトーク。が、不用意に「自分は山かどこか安全な所にテントでもたてて、民間人は…(手助けしない)」と発言。渡辺正行から「それじゃ、あんた都知事選に落選するよ!」と、突っ込まれた。そして本当に落選した。
2000年に実母が亡くなるまでの数年間は、介護のため週末は郷里の北九州市で過ごすことが多く、仕事の重点も関西にシフトさせていた。晩年認知症であったこの母の介護体験記『痴呆症の母を守って家庭崩壊』を『婦人公論』に連載[2])。母の介護を巡る困難や親族との軋轢など[3]を赤裸々に描き、大きな反響を呼んだ。この体験以来、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っている。介護体験は自ら政治の世界に足を踏み入れるきっかけの一つとなり、後の厚生労働大臣就任へとつながっていった[4]。
以上のような体験を持つため、麻生太郎外相の「アルツハイマー発言」には激怒。「バカと一緒になりたくない」と街頭演説の時間をずらすなど、党執行部にいながらも自由な発言をした。後に、「久間さんの失言問題と同じように辞めろと言うつもりだった。謝ったからいいけど」と、怒りが収まらないまでも、これ以上問題を引きずらないことを明らかにした[5]。
郵政造反組復党問題においては、無所属議員の復党を強く支持したが、落選していた衛藤晟一の復党・参院選出馬が持ち上がった際は参院選の責任者の立場から「百害あって一利なし」などと発言している。衛藤の復党に反対する理由として、舛添は「公明党との選挙協力に支障が出るため」と述べている。しかし過去において、自身が1999年の東京都知事選挙に無所属で出馬した際、対立候補の一人である明石康(元国連事務次長)が公明党との選挙協力を円滑にする意図のあった自民党に擁立された候補であることに激しく反対していた。
尊敬する政治家は野中広務と青木幹雄である(舛添の所属派閥は当選以来無派閥)。また党の政策部会への出席率は高く、野中からは「自民党議員は舛添さんを見習うべき」と評された。現実に野中らは2003年の自民党総裁選の際、反小泉の統一候補として舛添擁立を真剣に考えていたとされる。反小泉候補としては他に平沼赳夫擁立構想が一時取り沙汰されていたが、野中と平沼が政治的信念を180度異にすることや派閥の領袖だった亀井静香が難色を示したため、実現に至らず、舛添の名が浮上したとされる(後に亀井自身が立候補している)。野中は筑紫哲也NEWS23に出演した際、「秘策がある」と明言しているが、その秘策とは舛添擁立構想を指すものと思われる。野中は最終的には舛添擁立を断念し、藤井孝男を擁立した。
憲法改正に積極的な考えを持つものの、保守色の色濃い形での改正には反対の立場をとる。中曽根康弘元首相が中心となって作成した自民党憲法草案の原案から、「日本の国柄」を明記した箇所を小泉純一郎首相(当時)を説得する形で削除させたのは舛添である。小泉自身、政界引退を自ら迫るほど中曽根を嫌っていたことから、舛添の提案はすぐに受け入れられた。[要出典]
厚生労働大臣就任後、労働法制に詳しい識者にホワイトカラーエグゼンプション法を、「家庭だんらん法」に言い換えるよう指示。さらに法案成立に全力を尽くすとしている。
2007年8月下旬に社会保険庁や社会保険事務所職員による年金保険料の着服問題が発覚した際、「盗人には牢屋に入ってもらう」とし、刑事告発を検討した[6]。また、社会保険庁よりも地方の社会保険事務所のほうが着服件数・着服総額が多かったことに鑑み、「銀行は信用できるが、社保庁は信用ならない。市町村は社会保険庁よりもっと信用ならない」と発言した。これに対し、年金保険料の横領が確認されていない自治体市長から抗議を受けたが、舛添は「小人(しょうじん)のざれ言に付き合っている暇はない」と発言した[7]。この発言を受け、各地の市長から反発を招いたが、舛添は「バカ市長って言ってほしいということなんですか。バカ市長、アホ市長って言うよりいいじゃないですか。含みがあって」「頭からバカ市長と言われるのは嫌でしょう。だから、小人(しょうじん)って言った。その温かみだけは感じて下さいよ。教養の問題、教養」と、更なる批判を展開した[8]が、2007年10月16日参院予算委員会において、これらの発言について「非常に不適切な言葉であった」と述べ、撤回した。
2007年ユーキャン新語・流行語大賞で「消えた年金」という言葉が受賞。その授賞式に、年金問題の当事者であり、行政の責任者である厚生労働大臣として授賞式に出席。笑顔で賞を受け取る。
2007年12月11日、上述の「消えた年金」に関係し、宙に浮いた年金記録約5000万件中、945万件の特定が困難との社会保険庁の調査結果を受け記者会見し、「他の方が大臣になっても結果は同じ。ないものはないんだから」、「(参院選で)年金は最大のテーマ。『できないかもしれないけどやってみます』なんて言いませんよ」と発言し、開き直りではないかと報道された[9]。
2008年1月19日、医師不足問題についての国民対話集会で、「医者は十年後にしか育たない。仮に、いま足りない医師をばーんと増やしたら、十年たったら余って医者のホームレスが生まれることになる」と発言し、厚生労働大臣としての配慮に欠けると批判された。[10]
日本電産社長の永守重信による「社員全員が休日返上で働く企業だから成長できるし給料も上がる。たっぷり休んで、結果的に会社が傾いて人員整理するのでは意味がない」[11]「休みたいならやめればいい」[11]との発言に対し、舛添は2008年4月26日に「労働関係法令はきちんと遵守してもらわないといけない。きちんと調査し、指導すべきは指導し、法律にもとるものがあれば厳正に処分する」[12]と指摘した。
3度の結婚歴がある[13]。政治家の片山さつきは元妻。1996年6月に現在の妻と結婚しており、2児の父。
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