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豊臣秀長 とは?

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豊臣 秀長(とよとみ の ひでなが/とよとみ ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は戦国時代室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将大名である。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


豊臣秀長はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  戦国武将。羽柴秀吉(木下藤吉郎)の実弟。旧名は羽柴秀長で、さらに旧名は木下小一郎。大和大納言。(1540年〜1591年) 生まれは兄と同様に尾張国の尾張国愛智郡中村。秀吉の異父弟という説と同父弟という説の両方がある。 永禄5年に兄秀吉の家臣となり、以後、武将として政軍両面で手腕を振るうだけでなく、秀吉のよき補佐役としても活躍。 温厚な人柄で知られ、領民のみならず諸大名からも頼りにされていた。秀吉からの絶大な信頼と相まって、豊臣政権の確立にあたっては必要不可欠な存在であった。 1591年に病没。その翌年か ...

出典: 『はてなダイアリー』


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おすすめ度4.0(全レビューの平均)強烈な個性と政治力で、出世を続け 天下を取った後は、信長の描いた天下布武を 実現していく兄秀吉。 秀吉が得意な仕事に専念し、 能力を存分に発揮できた背景には 忠実に支えた秀長の存在があった。 明確な記録がなく、業績がわからないということは 秀長が補佐役に徹していたことの証明であり、 彼の優秀さの証だと思います。  (あにも さんのレビュー)

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おすすめ度3.0(全レビューの平均)豊臣秀長」は、戦国時代を書いた小説の中でも、特に上位に入れていい本だと私は思っている。 「秀吉」でなく「秀長」を主人公に据えたこと、これだけで評価に値する。 もちろん、秀長は秀吉の裏方であったのだから、小説では兄秀吉の行動が中心になるが、ほとんど重視されたことのない秀長という人を、これほど愛情をもって描いた小説を他に知らない。 これは、著者自身が「トップではなく二番手以下」と己を位置づけていることと関係するのだろう。 私はこの小説で、「優秀な組織は二番手が優秀なのである」ということを知り、さらに実生活でもそれを体感するに至り、著者の炯眼に頭を垂れる思いである。 何より、堺屋氏の秀長(小竹)に対するきめ細かい人物描写といったら、想像が何%なのか知らないが、「小竹はこういう人だったに違いない」と膝を打ってしまうほどだ。 丸顔で、人当たりが柔らかく、常に兄を立て、最も優秀な部下でありながら決して兄を裏切らない。 この弟あっての兄であったのだなあ、と感慨を深くする。 「優秀な組織は二番手」をいうのに、これ以上説得力のある例はない。 大河ドラマで高嶋弟が演じていたことがあるが、顔は到底似ていないにしても、その存在感は、戦国時代を描いたドラマの中では比較的堺屋版「秀長」に近いのではないか、と思う。 朝鮮出兵だの利休切腹だのと、秀吉にとって不名誉な事実が記憶されているのはいずれも秀長の死後である。 私ですら、「秀長様が、ご存命ならば」と思ってしまうのだから、当時を生きた人々はなおさらであっただろうと想像される。 堺屋氏と同じく、私も二番手タイプである。 小竹の人生は、はからずも二番手となり、それを全うした大いに意味のあるものであった。 彼に子がなかったこと、倹約により財を残していったことを思うと、涙が出る。  (パブロン中毒 さんのレビュー)

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


豐臣秀長/羽柴秀長
豊臣秀長
時代 戦国時代室町時代後期) - 天正時代
生誕 天文9年3月2日1540年4月8日
死没 天正19年1月22日1591年2月15日
改名 小竹、木下長秀、秀長、羽柴秀長
別名 小一郎(通称)、大和大納言
戒名 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士
墓所 奈良県大和郡山市(大納言塚)
京都市大徳寺大光院
官位 従五位下、美濃守、従二位大納言
主君 織田信長豊臣秀吉
氏族 木下氏羽柴氏豊臣氏
父母 父:竹阿弥。母:大政所
兄弟 日秀、秀吉、秀長朝日姫佐治日向守
副田吉成室→徳川家康継室)
智雲院
おきく(豊臣秀保室)、大善院(毛利秀元室)
養子:秀保仙丸(藤堂高吉

豊臣 秀長(とよとみ の ひでなが/とよとみ ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は戦国時代室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将大名である。

豊臣秀吉(羽柴秀吉)の異父弟(小和田哲男著『豊臣秀吉』(中公新書)によると同父弟)。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。

大和を中心に100万石近い大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。

目次

生涯

織田信長時代

天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。秀吉に仕え始めた正確な記述はなく、秀吉とねねとの婚礼(永禄7年(1564年))の後という説が多い(秀吉は婚礼後足軽小頭に出世したが、その以前では家臣を雇える程の禄はなかった)。

実は、秀長の前に義弟・浅野長政に家臣の話を持ちかけたという話もある。しかし武士の心得を一切習っていなかった状態から、たった数年で秀吉の補佐ができる状態まで上達したのは特異な事である。また現在残っている秀吉の直筆は当て字や癖が多く細かな書状関係の仕事は苦手という説もあり、家臣が少なかった時期は秀長自身が直筆していた可能性は高い。秀吉が、細かな地道な作業を秀長に任す事が多かったため補佐というイメージが付いたと思われる。

元亀元年(1570年)、越前討伐の最中に浅井長政の挟撃の報せを聞き、織田軍は退却を決定。秀吉は殿を勤めることになった(金ヶ崎の退き口)。秀長は第一備えの大将に任命され、蜂須賀正勝前野長康と共に尽力する。

天正元年(1573年)、秀吉は浅井家潰滅の功により長浜城主となり、名を羽柴秀吉と改める。秀長自身も時には城代を務める事もあり、この時期から秀長を使用し始めたと思われる。諱の由来は、秀吉の唯一の味方であった丹羽長秀からという説が強い。この数年後、秀長自身の右腕となる藤堂高虎が仕官してくる。この主従は秀長の養子である秀保が早世するまで続く。

天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、兄の代理として長島一向一揆討伐に出陣する(『信長公記』)。

秀吉が信長の命令で中国方面総司令官となると但馬平定の指揮を委ねられる。黒田孝高(官兵衛)宛の秀吉直筆の手紙に信頼の代名詞として小一郎の名を出すなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する(黒田侯爵家文書)。

天正5年(1577年)に但馬竹田城斎村政広によって落城すると、城代に任命される。

天正8年(1580年)、秀吉軍が但馬出石城を落城させ、これにより但馬平定が完了する。秀長は出石城主となり、また但馬7郡10万5000石を治める大名となる(これは秀吉の領主代役ではなく、秀長個人の戦功である)。また領地内にある生野銀山の管理にも携わっていた。

秀吉時代

墓所「大納言塚」(奈良県大和郡山市)

天正10年6月2日1582年6月21日)、信長が本能寺の変で死亡すると、秀吉の大返しに従って山崎の戦いに参戦。黒田孝高と共に天王山の守備にあたる。同年、従五位下、美濃守に叙位・任官する。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦。拮抗状態の続く最中、織田信孝が挙兵。秀吉が制圧に向かう間に、佐久間盛政が本陣に進撃する。これにより中川清秀が戦死したが、その後に折り返した秀吉軍により勝利した。また史料『老人雑話』によると秀長は秀吉に、清秀戦死の責任を叱責されたという。しかし秀吉の行動が用意周到のため、作戦だったという説もあり。作戦ならば守備を任された秀長は、陣を崩さない任だった可能性が高い。また『老人雑話』は史料として疑問視されている。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが起きる。秀長は守山に進軍し、織田信雄を監視する。この戦いで甥である羽柴秀次が秀吉に叱責されたのは有名。その後の遠征では秀長と従軍し四国征伐では大きな戦功を上げ、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。

天正13年(1585年)の紀州征伐では、秀次と共に秀吉の副官に任命される。征伐後、兄から紀伊和泉などの64万石の所領を与えられる。同年、和歌山城の築城時に普請奉行を藤堂高虎に任命する。築城の名手として名高い高虎の最初の築城である。

同年6月、四国征伐では兄の代理として10万を超える兵の総大将に任じられる。しかし長宗我部の抵抗も激しく、また毛利氏宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となり秀吉から援軍の申し出がだされた。しかし秀長は断りの書状を送った(『四国御発向事』)。これは現存する数少ない秀長の書状の1つと言われている。

同年8月、長宗我部元親を降した功績を賞されて大和を加増されて郡山城に入り、116万石の大大名となった。悠悠自適なイメージを抱きがちだが秀長の領土である大和和泉紀伊は寺社勢力が非常に強く、決して治め易い土地柄ではない。諸問題の解決にときに苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると内政面でも功績があったことが伺える。現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)、検地実施(諸家単一文書)、全5ヶ条の掟(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施している。

天正14年2月8日1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。この頃から体調が崩れやすくなった思われ、この後も数度にわたり湯治に来る。また湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。10月26日12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康がついに大坂に到着し、秀長邸に宿泊。その晩、秀吉自身が家康に臣従を求める事件が起きる。この事を記す記録書は多く存在する(『家忠日記』、『徳川実紀』)。しかし秀長・秀吉以外に記されている人物は浅野長政だけであり、身内だけの秘密裏の作戦と思われる。

天正15年(1587年)、九州征伐では別働隊である日向国方面の総大将として出陣する。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘宮部継潤の陣に夜襲する(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、高虎・孝高と合流。夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね日向方面の進軍は終了する。この功績により8月に従二位・大納言に叙任された。

天正17年1月1日1589年2月15日)、大坂城にて諸大名と共に秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う(『後編旧記雑録』)。この後大坂城を訪れたという記録はなく、最後の面会と思われる。

天正18年(1590年)1月頃から病が悪化、小田原征伐には参加できなかった。10月頃に秀次が秀長の病気本復を祈願のため談山神社に訪れる。両者の関係も良かったと思われる。

天正19年1月22日1591年2月15日)、郡山城で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は甥の豊臣秀保を養嗣子として後を継がせた。

戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わる。また大阪市中央区豐國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。

人物・逸話

  • 温厚な人柄で兄を立て、兄を助ける補佐役に徹し後には各大名からも頼りにされる人格者であったという。大友宗麟は秀長のことを、「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたと記述されている(『大友家文書録』)。
  • その人格と手腕で織田家臣の時代より内政や折衝に特に大きな力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏のうちに治めたのも秀長の功績である。
  • 兄の行おうとした朝鮮出兵には反対していたとされるが、出典が『武功夜話』のみのため疑問の声も多い。
  • 秀長が進めようとした体制整備も秀長の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。
  • 天正15年(1587年)の九州征伐の最中、秀長の陣に島津家久が訪れ単独講和が成立した。その直後の6月5日7月10日)に島津家久が急逝し秀長による暗殺という憶測があるが、家久を殺しても豊臣方が得るものはほとんど無く5月13日6月18日)付けの書状で家久の体調不良が記されていることから病死と見られる。
  • 天正16年(1588年)、紀伊の雑賀において代官に命じて材木2万本を売らせ、その資金を着服するなど蓄財にうるさい一面があったという(『多聞院日記』)。また島津攻めに参加した大名に割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。
  • 大和の陶器・赤膚焼を開窯した人物である。
  • 有力な家臣に先述した藤堂高虎とともに島清興がいる。両者は養嗣子・秀保の死後、関ヶ原合戦で東軍・西軍に分かれて戦うことになる。

官歴

  • 天正11年(1583年)、従五位下美濃守(この時期、木下小一郎から羽柴長秀に改苗字か)
  • 天正12年(1584年)6月、名を長秀から秀長に改める。
  • 天正13年10月6日(1585年11月27日)、従四位上に昇叙し、参議に補任。右近衛権中将を兼任。
  • 天正14年10月4日(1586年11月14日)、従三位に昇叙し、権中納言に転任。11月5日12月15日)、正三位に昇叙。権中納言如元。
  • 天正15年8月8日(1587年9月10日)、従二位に昇叙し、権大納言に転任。

秀長が登場する主な作品

映画

テレビドラマ

研究書

小説

漫画

関連項目

ウィキメディア・コモンズ
先代:
-
大和豊臣家
初代:1585 - 1591
次代:
豊臣秀保

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