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川濱 昇 /
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1945年9月22日にアメリカ政府が発表した「降伏後における米国の初期の対日方針」は、その第4章「経済」のB項で、「日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進」すると規定していた。アメリカなど連合国側には、財閥を「日本軍国主義を制度的に支援した」との認識があり、これを解体する事で軍国主義を根本的に壊滅できると考えていた。
当初、日本政府は財閥解体には消極的だったが、三井財閥内で三井本社の解体論が台頭してきた事や、安田財閥の持株会社である安田保善社が、10月15日に自社の解散、安田一族の保善社及び傘下企業役員からの辞任、及び一族保有の株式を公開する方針を決定した事から「財閥解体やむなし」の方向に傾いた。
このような情勢下、GHQ経済科学局長レイモンド・C・クレーマーは10月16日に声明を発し、財閥解体に当たっては日本側の自発的な行動に期待し、GHQはそれを支援するに留めるが、日本側に積極的な動きが見られない場合は自ら実施に乗り出すとの姿勢を示した。これを受け、政府は三菱、住友を加えた4財閥やGHQと財閥解体に向けての協議を進め、11月4日、安田案を土台にした財閥解体計画案をGHQに提出した。
この案では、
などが盛り込まれていた。
11月6日、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは、総司令官が日本政府案を修正し、また実施に際しての監督・検閲権を留保する事を条件に、日本政府案を承認した。
1946年4月4日、GHQは、持株会社の有価証券・証憑を引き継ぎ、整理に当たる持株会社整理委員会(以下「委員会」)についての政府案を承認した。4月10日に根拠法である「持株会社整理委員会令」が施行され、5月7日の設立総会を経て、委員会は8月8日から活動を開始した。
9月6日、内閣総理大臣は三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社、富士産業(旧・中島飛行機)を持株会社指定した(第1次指定)。これに基づき、委員会は5社に解散を勧告し、財閥解体政策は実行に移された。
4大財閥の持株会社である三井本社等は、「初期の対日方針」が出た時点で内外から解体対象として想定されていた。これに対し富士産業は、軍用航空機メーカーであり、太平洋戦争末期には全生産施設・社員が第一軍需工廠として日本政府に接収・徴用されていた事情もあって、連合国から純軍需産業として認識され、GHQは財閥とは別に同社の解体を日本政府に求めていた。
9月23日の三菱本社を皮切りに、委員会は指定5社に、委員会が譲り受けるべき財産内容を通知し、10月8日(三井本社、三菱本社)、10月16日(住友本社)、10月29日(安田保善社、富士産業)の3回に分けて第1回有価証券譲受を執行した。この時5社から譲り受けた有価証券総額は15億8684万円に及び、これは5社が保有する有価証券総額の約78パーセントに及んでいた。
並行して5社に対する解散勧告も行われ、三井本社、三菱本社、安田保善社は9月30日に解散、委員会の監督下で清算に入った。現業部門(林業)を持っていた住友本社、特殊事情(財閥に先行して解体計画が立案された事、当初GHQは、保有株式の処分は委員会ではなく会社自身に行わせる方針であった事、整理に当たっては工場ごとの分割を求める会社側と、より少数の分割を提案した委員会側で対立があった事、戦時補償特別税関係の特別損失の計上を巡って税務当局に訴訟を提起していた事など)を抱えていた富士産業は解散が遅れ、それぞれ1948年2月、1950年5月に清算に入っている。
戦時中、国内のみならず海外(特に東南アジア・太平洋地域)に於いて精力的な企業活動を展開していた三井物産と三菱商事は、1946年12月28日に持株会社指定され、その整理を迫られていた。これに対し両社は、「整理は日本経済の弱体化に繋がる」として再考を求めるロビー活動を起こした(時には委員会を飛び越し、直接GHQに働きかけたりした)。しかしこれは「財閥温存を図る運動」として、GHQ側の担当部署である経済科学局反トラスト課の反感を買う事になった。
1947年7月3日、GHQは日本政府宛覚書において、三井物産と三菱商事に対し、より厳しい整理措置を採るよう、以下に記す具体的な内容を示して要求した。
7月5日に、大蔵省経由で覚書を受け取った委員会は、両社の取引が広範囲である事から、両社解体のニュースが流れた場合、手形不渡りや銀行取引停止など激しい経済的混乱を招く危険があると判断し、大蔵省、日本銀行、商工省、貿易庁と連絡を取りつつ、両社に対しては、既存契約に基づく取引は(早急に終わらせる事を条件に)委員会の承認下で継続を許可し、これに関わる繋ぎ資金の調達についても、両社に近い帝国銀行、三菱銀行に横浜正金銀行を加えた3行に融資を要請するなどして、恐慌防止に当たった。両社解体は週明け7月6日に報じられたが、委員会の迅速な行動によって、混乱は回避された。
当座の危機を乗り切った委員会は、専門セクションとして特殊清算部を設置し、両社の清算作業を本格化させた。基本的に清算作業は、商法及び企業再建整備法に基づいて行われたが、債権の回収や所有不動産の処分は困難を極めた。前者については全体的な金融難が足を引っ張り、委員会が直接債務者の下に出向いて相談に応じる事もしばしばあった。後者については、特に主要都市の一等地に置かれた支店の建物が、処分の上でのネックになっていた(連合軍の接収を受けていたり、所在都市の地場産業が引き受けるには時価が高額であったりした。また家賃統制と金融難のダブルパンチで不動産業が不振だったことも原因だった)。
一方で債権回収難、他方で不動産処分難を抱えつつも、両社の清算は特に大きな問題もなく進んでいったが、二つの難題を解決しないことには清算が行き詰る事も、しかしそれはGHQの意図に反して長期化せざるを得ない事も確かであった。そこで委員会は、新たに会社を設立して、これに未回収債権を引き継がせて回収に当たらせるとともに、未処分不動産を現物出資させ、その活用で収益を挙げさせて経費の削減を図る事にした。こうして1950年3月1日に三井物産を引き継ぐ日東倉庫建物が、4月1日に三菱商事を継承する光和実業が、それぞれ設立され、戦前の日本を代表した2大商社の解体は事実上完了した。
なお、GHQ覚書にある両社社員の在籍制限により、1947年7月3日現在三井物産で約7000人、三菱商事で約4000人いた社員は多数の会社に分散する事になった、委員会の活動総括書である『日本財閥とその解体』に拠れば、その数は「(三井)物産約170、(三菱)商事約120見当」としつつも「実数、実情の把握は困難」としている。
財閥は解体されたが、その後、それぞれの財閥の流れを汲む企業の大部分は再結集を果たし、大規模な企業グループを形成した。また、1997年には独禁法の改正によって純粋持株会社が解禁され、事実上の財閥復活許可が出された。
1946年9月6日指定。5社。
1946年12月7日指定。4大財閥に継ぐ規模の財閥やいわゆる新興コンツェルンなどの持株会社、トラスト、各産業で独占・寡占的地位にあった企業を対象とした。40社。
1946年12月28日指定。財閥傘下で、かつ、その会社自体が各産業で独占・寡占的地位にあり、1次・2次指定の対象にならなかった企業を対象とした。20社。
1947年3月15日指定。電気通信施設の国有化政策に基づくもので、便宜的に持株会社整理委員会の所管とされた。2社。
1947年9月26日指定。いわゆる地方財閥・小規模財閥を対象とした。16社。
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