足利政知 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利政知 出典: 『はてなダイアリー』 ウィキペディア(Wikipedia)記事
足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の足利氏一族で、初代堀越公方である。
略歴父は室町幕府第6代将軍・足利義教の次男として生まれる。母は斎藤氏。 異母兄に第7代将軍・足利義勝がいて、第8代将軍・足利義政で足利義視の異母兄。子に第2代堀越公方となった足利茶々丸、足利潤童子、第11代将軍となった足利義澄、小田成治の養子となった小田政治など。 室町幕府公認の関東公方として下向するが、幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、伊豆国の堀越公方にならざるを得なくなる。このため、終生関東で勢力を振るうことは無かった。 生涯永享7年(1435年)、第6代将軍・足利義教の子として生まれる。幼少期から天竜寺香厳院の僧となったが、長禄元年(1457年)に還俗する。これは兄の第8代将軍・足利義政の命によるものであり、義政の名代として関東に降り、足利成氏(幕府に背き、関東で独立勢力化していた)を牽制することを目的としていた。 こうして、幕府公認の鎌倉公方として京を出発するが、成氏の勢力が強大なことと関東管領であった上杉氏内部で政知擁立に異論が出されたため、鎌倉に入ることができず、やむを得ず伊豆堀越に逗留せざるを得なくなる。以降は堀越公方として、成氏の古河公方政権と30余年に渡る抗争を繰り広げた。だが、上杉氏が成氏と和睦して幕府もこれを認めたために、政知は伊豆1国のみの支配者に転落した。このため、文明14年(1482年)12月に成氏と和睦している。 晩年には管領細川政元と連携して将軍足利義材の廃立を計画するが、延徳3年(1491年)4月に政知が伊豆で病死したことによって挫折した。享年57。後を子の足利茶々丸が継いだが、政知の死から3ヵ月後に堀越公方家で内紛が起こり、堀越公方家は急速に衰退する。 人物・逸話
官職位階履歴※日付=旧暦
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