足利義政 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利義政 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| 時代 | 室町時代中期から戦国時代 | |||
| 生誕 | 永享8年1月2日(1436年1月20日) | |||
| 死没 | 延徳2年1月7日(1490年1月27日) | |||
| 別名 | 三寅、三春(幼名)。義成(初名) | |||
| 戒名 | 慈照院喜山道慶 | |||
| 墓所 | 京都市上京区の相国寺 | |||
| 幕府 | 室町幕府征夷大将軍(在任:1449年 - 1473年) | |||
| 氏族 | 足利氏 | |||
| 父母 | 父:足利義教、母:日野重光の娘・日野重子 | |||
| 兄弟 | 義勝、義政、義視、政知 | |||
| 妻 | 正室:日野重政の娘・日野富子(妙善院) 側室:大館満冬の娘・今参局 |
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| 子 | 義尚、養子:義視、義稙、義澄 | |||
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町幕府の第8代征夷大将軍(在職:宝徳元年(1449年)- 文明5年(1473年))。
父は第6代将軍の足利義教。母は日野重光の娘で義教の側室である日野重子。乳母で側室に今参局。正室に日野富子。同母弟に足利義視、同母兄に足利義勝。異母弟に足利政知。室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍・足利義満の孫にあたる。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らはもっぱら数奇の道を探求した文化人であった。
目次 |
永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教の子として生まれる。嘉吉元年(1441年)、父の義教が嘉吉の乱で赤松満祐に殺された後、将軍職は同母兄の足利義勝が継いだが、嘉吉3年(1443年)に第7代将軍の足利義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた宝徳元年(1449年)に正式に第8代将軍として就任した。
当初の義政は祖父・義満や父・義教の政策を復活させようと試み、また鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対しては成氏追討令を発して異母弟の堀越公方・足利政知を派遣するなどして積極的な介入をするが、三魔と呼ばれる乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家をはじめ、将軍家の執事であった伊勢貞親や正室・日野富子の実家の日野氏等の側近が政治に介入していき、将軍としての政治の実権は無いに等しい立場であった。
それを思い知らせる事件が何度か起きている。当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義政ははじめこれらの相続争いに積極的に介入したが、加賀守護であった富樫氏の内紛では管領・細川勝元の反対を受けて義政の意のままに相続権を動かすことができなかった。宝徳3年(1451年)にも尾張守護代であった織田氏の内紛に介入したが、尾張守護である斯波氏の反対を受けて義政の意のままに動かすことはできなかった。このように政は義政の意に沿って進まない事が多く、次第に義政は政治への関心を失っていった。
義政には正室の日野富子との間に男子があったが、長禄3年(1459年)に早世してしまった。すると富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処した。このため、以後は富子や伊勢貞親ら将軍側近の権勢が強まった。また、飢饉や災害が相次ぎ、特に寛正2年(1461年)の寛正の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような状況の中、完全に政治への意欲を失った義政は、邸宅造営などの土木事業や猿楽、酒宴に溺れていった。殊に寛正の飢饉の間に、それを意に介さずに花の御所を改築し、後花園天皇の勧告さえも無視したことは悪名高い。
寛正5年(1464年)には隠居を考えるようになった。しかし、富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。
ところが、寛正6年(1465年)に富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。富子は義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名持豊(宗全)に協力を頼んだ。一方の義視は管領の細川勝元と手を結んだ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。この問題に先に起こった斯波氏や畠山氏の家督相続問題が加わって、応仁元年(1467年)、遂に応仁の乱が起こる。戦乱は南朝の末裔(後南朝)まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。
しかし、義政は戦乱に対処せず、酒宴や連歌の会などに終始し、さらに花の御所(京都市上京区)から小川邸へ移り、将軍後継者問題で不和になった富子とも別居を始めた。文明5年(1473年)、西軍の山名持豊(宗全)、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月に将軍職を子の足利義尚へ譲って正式に隠居した。
富子との不和は変わらず、文明7年(1475年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失して富子と息子・足利義尚が小川邸へ移ると、義政は逃げるように東山へ移っている。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わるが、義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり、富子ともさらに仲が悪くなっていく。当時、室町殿(義尚)に対し、東山殿(義政)と呼ばれ、政治の決定機関がふたつに分裂していたようである。そのためか、応仁の乱後に義政は隠匿し、その後はさらに文化的な活動に拍車がかかった。
文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父・足利義満が建てた金閣をベースにした銀閣などを建てた。文明17年(1485年)5月に義尚の側近と義政の側近が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。このため6月、義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決めた。
子の義尚が延徳元年(1489年)に六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが、正室の日野富子が義政の復帰に反対し、さらに義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃に亡命していた弟の義視と和睦し、義視の嫡男・足利義材(義稙)を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した。
延徳2年(1490年)1月7日、銀閣の完成を待たずして死去。享年55。
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