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足利義政 とは?

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足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町幕府の第8代征夷大将軍(在職:宝徳元年(1449年)- 文明5年(1473年))。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


足利義政はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  室町幕府の第8代将軍。(在宝徳元(1449)年〜文明5(1473)年) 六代将軍の足利義教の子。夫人は日野富子。 元服後の最初の名前は義成(よししげ)。後に義政と改名。父義教の政治姿勢を継承して守護大名への家督への介入を行なおうとした。関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誅殺した享徳の乱に介入し、今川範忠に命じて関東公方を古河に追い、さらに弟の足利政知を関東公方に任じるが、鎌倉に入ることが出来ず、成氏(古河公方)と政知(堀越公方)の関東公方分裂を招く。尾張国守護代織田氏の内紛にも介入しようとするが、尾張 ...

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


足利義政 凡例
足利義政
時代 室町時代中期から戦国時代
生誕 永享8年1月2日1436年1月20日
死没 延徳2年1月7日1490年1月27日
別名 三寅、三春(幼名)。義成(初名)
戒名 慈照院喜山道慶
墓所 京都市上京区相国寺
幕府 室町幕府征夷大将軍(在任:1449年 - 1473年)
氏族 足利氏
父母 父:足利義教、母:日野重光の娘・日野重子
兄弟 義勝義政義視政知
正室:日野重政の娘・日野富子(妙善院)
側室:大館満冬の娘・今参局
義尚、養子:義視義稙義澄

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町幕府の第8代征夷大将軍(在職:宝徳元年(1449年)- 文明5年(1473年))。

父は第6代将軍の足利義教。母は日野重光の娘で義教の側室である日野重子。乳母で側室に今参局。正室に日野富子。同母弟に足利義視、同母兄に足利義勝。異母弟に足利政知。室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍・足利義満の孫にあたる。

幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を富子や細川勝元山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らはもっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

目次

生涯

将軍職就任

永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教の子として生まれる。嘉吉元年(1441年)、父の義教が嘉吉の乱赤松満祐に殺された後、将軍職は同母兄の足利義勝が継いだが、嘉吉3年(1443年)に第7代将軍の足利義勝も早世したため、義政は管領畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた宝徳元年(1449年)に正式に第8代将軍として就任した。

側近政治への移行

当初の義政は祖父・義満や父・義教の政策を復活させようと試み、また鎌倉公方(後に古河公方足利成氏関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対しては成氏追討令を発して異母弟の堀越公方足利政知を派遣するなどして積極的な介入をするが、三魔と呼ばれる乳母の今参局・烏丸資任有馬持家をはじめ、将軍家の執事であった伊勢貞親や正室・日野富子の実家の日野氏等の側近が政治に介入していき、将軍としての政治の実権は無いに等しい立場であった。

それを思い知らせる事件が何度か起きている。当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義政ははじめこれらの相続争いに積極的に介入したが、加賀守護であった富樫氏の内紛では管領・細川勝元の反対を受けて義政の意のままに相続権を動かすことができなかった。宝徳3年(1451年)にも尾張守護代であった織田氏の内紛に介入したが、尾張守護である斯波氏の反対を受けて義政の意のままに動かすことはできなかった。このように政は義政の意に沿って進まない事が多く、次第に義政は政治への関心を失っていった。

後継者問題から応仁の乱へ

義政には正室の日野富子との間に男子があったが、長禄3年(1459年)に早世してしまった。すると富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処した。このため、以後は富子や伊勢貞親ら将軍側近の権勢が強まった。また、飢饉や災害が相次ぎ、特に寛正2年(1461年)の寛正の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような状況の中、完全に政治への意欲を失った義政は、邸宅造営などの土木事業や猿楽、酒宴に溺れていった。殊に寛正の飢饉の間に、それを意に介さずに花の御所を改築し、後花園天皇の勧告さえも無視したことは悪名高い。

寛正5年(1464年)には隠居を考えるようになった。しかし、富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。

ところが、寛正6年(1465年)に富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。富子は義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名持豊(宗全)に協力を頼んだ。一方の義視は管領の細川勝元と手を結んだ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。この問題に先に起こった斯波氏畠山氏の家督相続問題が加わって、応仁元年(1467年)、遂に応仁の乱が起こる。戦乱は南朝の末裔(後南朝)まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。

しかし、義政は戦乱に対処せず、酒宴や連歌の会などに終始し、さらに花の御所(京都市上京区)から小川邸へ移り、将軍後継者問題で不和になった富子とも別居を始めた。文明5年(1473年)、西軍の山名持豊(宗全)、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月に将軍職を子の足利義尚へ譲って正式に隠居した。

晩年

足利義政の墓

富子との不和は変わらず、文明7年(1475年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失して富子と息子・足利義尚が小川邸へ移ると、義政は逃げるように東山へ移っている。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わるが、義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり、富子ともさらに仲が悪くなっていく。当時、室町殿(義尚)に対し、東山殿(義政)と呼ばれ、政治の決定機関がふたつに分裂していたようである。そのためか、応仁の乱後に義政は隠匿し、その後はさらに文化的な活動に拍車がかかった。

文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父・足利義満が建てた金閣をベースにした銀閣などを建てた。文明17年(1485年)5月に義尚の側近と義政の側近が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。このため6月、義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決めた。

最期

子の義尚が延徳元年(1489年)に六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが、正室の日野富子が義政の復帰に反対し、さらに義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃に亡命していた弟の義視と和睦し、義視の嫡男・足利義材(義稙)を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した。

延徳2年(1490年)1月7日、銀閣の完成を待たずして死去。享年55。

人物

  • 文化面では功績を残している。庭師の善阿弥狩野派の絵師狩野正信能楽者の音阿弥らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(のちに慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。
  • 政治的には、祖父の時代から絶大な影響力を保持していた日野家や側近の力を抑えきれず、幕府権力の衰退を助長したといえる。
  • 義教の死後中断していた勘合貿易宝徳3年(1451年)に復活させ、これは以後16世紀半ばまで続いた。貿易による経済交流と文化発展に寄与することとなった。
  • 勘合貿易の復活、義政から実権を奪った守護大名や側近の幕府官僚の財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。だが、義政はその成果を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やしてしまい、応仁の乱後の財政難の原因を作ってしまった。

官職位階履歴

※ 日付=旧暦
  • 1446年文安3年)10月15日、従五位上に叙す。
  • 1447年(文安4年)2月7日、正五位下に昇叙し、侍従に任官。
  • 1448年(文安5年)12月26日、左馬頭に転任。
  • 1449年(文安6年)4月16日、元服。義成を名乗る。4月29日、征夷大将軍宣下。8月27日、従四位下に昇叙し、参議右に補任。右近衛中将を兼任。
  • 1450年宝徳2年)1月5日、従三位に昇叙。3月29日、権大納言に転任。6月27日、従二位に昇叙。権大納言如元。
  • 1453年享徳2年)3月26日、従一位に昇叙。6月13日、名を義政と改める。
  • 1455年(享徳4年)8月27日、右近衛大将兼任。
  • 1456年康正2年)1月5日、右馬寮御監兼務。
  • 1458年長禄2年)7月25日、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1460年(長禄4年)8月27日、左大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1461年寛正2年)8月9日、右近衛大将辞任。
  • 1464年(寛正5年)11月28日、准三宮宣下。
  • 1467年文正2年)9月2日、左大臣辞任。
  • 1473年文明5年)12月19日、征夷大将軍辞職。
  • 1485年(文明17年)8月15日、出家。
  • 1490年延徳2年)1月7日、薨去。2月17日、贈太政大臣。


偏諱を受けた人物

登場作品

参考文献

ウィキメディア・コモンズ
  • 森田恭二『足利義政の研究』(和泉書院、1993年) ISBN 4870885751
  • ドナルド・キーン 著/角地幸男 訳『足利義政 日本美の発見』(中央公論新社、2003年) ISBN 4120033570
先代:
足利義勝
足利宗家(足利将軍家)
1449年 - 1473年
次代:
足利義尚

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この記事は、ウィキペディアの記事を複製、改変、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。ことなびに掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。



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