足利義昭 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍である(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 足利義昭 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 | |||
| 生誕 | 天文6年11月13日(1537年12月15日) | |||
| 死没 | 慶長2年8月28日(1597年10月9日) | |||
| 改名 | 義秋、義昭 | |||
| 別名 | 一乗院覚慶(法名)、鞆公方(あだな) | |||
| 諡号 | 昌山、道休 | |||
| 戒名 | 霊陽院昌山道休 | |||
| 墓所 | 京都府の等持院 | |||
| 官位 | 左馬頭。参議・左近衛中将・征夷大将軍。 従三位、権大納言、准三后 |
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| 幕府 | 室町幕府征夷大将軍(在任1568年 - 1588年) | |||
| 氏族 | 足利氏 | |||
| 父母 | 父:足利義晴、母:近衛尚通の娘・慶寿院 猶父:近衛尚通 |
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| 兄弟 | 義輝、義昭、周嵩 | |||
| 妻 | 正室:さこの方 | |||
| 子 | 義尋、義在、義喬、猶子:六角義郷 | |||
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍である(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。
目次 |
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って「覚慶」と名乗り一乗院門跡であった(一乗院は興福寺別当をつとめる門跡寺院で、延暦寺における青蓮院に該当する)。兄義輝が松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出する。そして、美濃の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて信長によって京都から追われ備後に下向し長らく在国したため、一般には室町幕府は滅亡したとみなされてしまった。
信長が家臣によって滅亡したのち、備後から将軍職のまま京都に戻った。豊臣政権が完全に確立するまでは、依然そのまま将軍であった。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として豊臣政権下で遇され余生を送った。
天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。兄に嗣子である義輝がいたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入り、覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。
永禄8年(1565年)の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝が足利義栄を傀儡とする松永久秀や三好三人衆らの勢力によって暗殺され、弟で鹿苑院院主であった足利周嵩も誘殺された。このとき、覚慶も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された(久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる)。しかし、足利義輝の側近であった一色藤長・和田惟政・仁木義政・三淵藤英・細川藤孝および大覚寺義俊(近衛尚通子)らに助けられて脱出した。
義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には密かに従五位下、左馬頭に叙位・任官。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、山科言継の『言継卿記』によれば永禄11年(1568年)2月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった言継の屋敷に義昭の使者が現れて従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。
奈良から木津川をさかのぼり伊賀(近臣の仁木義政が守護であった国・国人の一人である服部氏は、この後義秋に随行することとなる)へ脱出した義秋とその一行は、さらに近江の六角義賢の許可を得た上で近江甲賀郡の和田城(伊賀ー近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置いた。
正統な血筋による将軍家を再興するため、永禄9年(1566年)2月17日、矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。矢島御所とは義秋が、御供衆でもあり六角氏とも深い関係にあった和田惟政(甲賀住人)と御相伴衆でもあり六角氏一族の仁木義政(伊賀住人)の斡旋により近江の六角義賢・義治親子の許可を得た上で、山奥の甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所(二町四方の規模で二重の水堀で囲まれていたとの記録が残る)としたものであった。
矢島御所において義秋は、三管領家の畠山高政や関東管領の上杉輝虎や能登守護の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。とくに三管領家の一つである河内の畠山高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山秋高を、この頃に義秋に従えさせた。この義秋の行動に対して、三好三人衆の軍勢3000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊・近衛兵)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。しかし肝心の六角義治自体が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、8月には妹の婿である武田義統を頼り、若狭へ下った。
しかし、京都北白川に出城も構え、かつては応仁の乱で東軍の副将として隆盛を極めた若狭武田氏も家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった(武田義統は出兵の代わりに実弟の武田信景を義秋に従えさせた)、9月には若狭から越前の朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。足利義秋は朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して、実現したりしている。かし朝倉義景は、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」足利嗣知もかかえており、還俗したての足利義秋を奉じて積極的な上洛をする意思を表さなかったため、越前での滞在は長期間となった。この頃越前の仮御所には、上野清延、大館晴忠などの幕府の重臣が帰参する。
なお、朝倉家滞在中の永禄11年(1568年)4月15日、「秋」の字は不吉であるとし、正式に元服して義昭と改名した。加冠役は朝倉義景が務めている(なお、義昭はこの時点まで正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる元服だったといえる)。
やがて、朝倉家の重臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張へ移る。
永禄11年(1568年)9月、沿道の美濃斉藤氏・北近江浅井氏・南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長率いる尾張軍と浅井長政率いる北近江軍に警護されて上洛した。途中、六角氏の有力支族である箕作氏の反乱もあったが退け、無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された。また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実に偏諱を与え足利義昭政権の安定を計り、兄義輝が持っていた山城および丹波の御料所も掌握した。
兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備し室町幕府の再興を果たした。義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた家柄の者が参勤し、ここに足利義昭の念願であった室町幕府は再興された。
永禄12年(1569年)1月、織田信長が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しがあり、義昭の御所が襲われた。兄義輝同様の運命になるかとも思われたが、奉公衆および北近江の浅井長政・摂津の池田勝正・明智光秀らの奮戦により、これを撃退した。
義昭は当初は信長を信用していたようで、将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名している。
また、信長に幕府の役職である副将軍・管領職の地位を与えようとするなど良好な関係を維持しようとするが信長は拒否し、朝廷の官位である弾正忠への叙任の推薦だけを受けた。また信長は旧・三好領であった和泉国一国の支配を望んだので、和泉守護に任命しようと申し入れたが、信長は、これも拒否した。
やがて信長が本性を顕わし、将軍権力を著しく制約しはじめたために両者の関係は悪化していくこととなる。信長は永禄12年(1569年)1月、『殿中御掟』という9箇条の掟書を、永禄13年(1570年)1月にも殿中御掟追加7箇条を発して義昭を脅し無理やり承認させた。
出身の低い信長の、室町幕府に対する甚だしい専横に不満を持った義昭は信長を室町幕府から排除しようと企み、関東管領の上杉輝虎や、本願寺顕如や武田信玄、朝倉義景らに逆臣である信長討伐令を下して信長包囲網を形成する。
この包囲網には、当然ながら浅井長政や松永久秀、三好三人衆、三好家当主三好義継らも加わった。これにより信長は一時的に窮地に陥ったが、元亀4年(1573年)4月の武田信玄の病死を契機として信長包囲網は瓦解してしまった。
4月、義昭は三好家当主三好義継および松永久秀らと同盟を結び、山城槙島において挙兵する。槙島城は天然の要害に築かれ、当時は石山の本願寺と同じく、難攻不落の城として知られていた。
このときは正親町天皇の勅命もあって和睦するが、7月に再度挙兵。信長は、ついに義昭を追放し、足利将軍家が歴代相伝する山城および丹波の御料所をことごとく奪いさった。
一般に、これによって室町幕府は滅亡したとされている。しかし、実は義昭はその後足利家瑞祥の地である備後鞆に一度下向して再起を計っただけというのが真実のようである。義昭に限らず、応仁の乱以降の歴代の将軍は戦況により地方に下ることが常であった。将軍が、京都を離れた事実を持って幕府の終焉とするならば、足利義昭の数代も前に室町幕府は滅亡していたことになる。
織田信長が室町幕府を滅ぼしたというのは、信長贔屓達による後世の創作である(ちなみに信長は六角氏すら滅ぼしていない、信長が滅ぼしたのは六角氏の有力庶家である箕作氏であり、六角氏宗家は足利義昭の上洛に好意的に協力した。また六角氏のみならず、美濃斉藤氏および越前朝倉氏も信長とは敵対していたが、足利義昭が上洛することに関しては信長に協力した。足利義昭に将軍辞職させたのは豊臣秀吉である)。
天皇および朝廷から征夷大将軍職を解任されたわけではなかったので、近畿周辺の信長勢力圏以外(北陸・中国・九州)では、その後も従来通り将軍家として権威を保ち続け、大名達も自らの地位に将軍による正式な承認を欲っした。
また京都五山の住持任命権も五山を定めた足利将軍家にあると考えられていたため、その任命のための献金収入もあった。『公卿補任』(朝廷の人事録)では、関白豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍位を辞する天正16年1月13日(1588年2月9日)まで征夷大将軍と正式に記録している。
信長によって京を追われたとき、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、妹婿の河内の大名である河内の三好義継(三好家当主)のもとへ秀吉の護衛のもと移された。しかし三好義継も天正元年、信長によって滅ぼされたため、和泉の堺に移った。
天正4年(1576年)、その昔足利尊氏が再起を果たし足利家にとって縁起の良い土地であった備後鞆(当時は毛利勢力圏)に亡命政府(幕府)を樹立(鞆幕府とも呼ばれる)し、そこから信長追放を目指して全国の諸大名に賊徒討伐令を下した。
鞆幕府といわれる所以は、室町幕府歴代の近臣である伊勢氏・高氏・上野氏・大館氏・飯尾氏・松田氏他多数の幕府の中枢を構成した名門の武家が、京都から義昭のいた備後へ下向し、当人である義昭自身が近臣や大名を役職に任命するなど、幕府が継続しているという認識のもとで行動していた事実からである。公卿補任には征夷大将軍足利義昭の項に「備後在国」と明記されており、将軍の備後在国は、朝廷も知る事実であったことが分かる。鞆での生活は、隣国備中の御料所からの年貢のほか、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの巨額の支援もあり財政的には困難な状態ではなかったといわれている。
義昭を備後に追った信長は、管領家の細川昭元や細川藤賢を近くに止め、傀儡とした。守護代ですらない出身の低い信長としては、やはり何がしかの伝統的な武家の権威は必要としたようである。天正6年(1578年)に関東管領の上杉謙信が死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏してしまう。しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった天正10年(1582年)に、とうとう信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた。将軍である義昭は毛利輝元の支援を受けての京都への再上洛を期待した。
一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった小早川隆景らが反対したこともあり、また、義昭は勝家を支持したため、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。
天正11年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正14年、羽柴秀吉が関白太政大臣となる。しかしその後も、関白秀吉、将軍義昭という時代が約三年間続いた。この三年間は、豊臣秀吉が天下を統一していく期間に該当する。
天正16年(1588年)薩摩の島津義弘が秀吉の軍門に下ると義昭はついに征夷大将軍を辞し准三宮(皇族待遇)の称号を朝廷から得、出家し昌山と号した。
秀吉からは山城填島において1万石の領地を認められた。1万石の大名とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、軍を引き連れ肥前名護屋まで参陣している。
また、山名豊国らとともに御伽衆にも列せられ、晩年は秀吉の良き話相手であったとされる。
義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となったあと仏門(興福寺の大乗院門跡)に入った。義尋には二人の子がいたが、これも仏門に入った。一色藤長に養育された義喬は母方の矢島姓を名乗って矢島氏となったという。また、「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集」で泉州蟄居の際にできた子として記されている足利義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称した。このため足利を名乗る子孫は江戸時代にいない。
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