足利義晴 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町幕府の第12代将軍(将軍在職:大永元年(1521年) - 天文15年(1546年))。第11代将軍・足利義澄の長男、母は日野永俊の娘で富子の姪。弟に足利義維がいる。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 足利義晴 出典: 『はてなダイアリー』 ウィキペディア(Wikipedia)記事
足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町幕府の第12代将軍(将軍在職:大永元年(1521年) - 天文15年(1546年))。第11代将軍・足利義澄の長男、母は日野永俊の娘で富子の姪。弟に足利義維がいる。
生涯将軍就任義晴の父・義澄は大内義興によって第10代将軍・足利義稙が擁立されて上洛してきた時、近江の六角高頼を頼って落ち延びていたが、その最中の永正8年(1511年)3月5日、義澄の長男として近江朽木で生まれた。しかし、父は義晴が誕生した年の8月14日に朽木で死去している。 このため、永正11年(1514年)、義晴は播磨に下向し、赤松義村の庇護を受けて養育された。大永元年(1521年)、父と対立して将軍職に再任していた足利義稙が、管領の細川高国と対立して京都から追放されたため、高国に擁立されて第12代将軍に就任した。 京都と近江の往復大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで波多野稙通や柳本賢治らも挙兵し、大永7年(1527年)に桂川の戦いで細川高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川晴元らによって京を追われ、享禄元年(1528年)には朽木稙綱を頼って近江(興聖寺)に落ち延び、元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。 享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い(大物崩れ)に敗れて自害する。戦後、今度は細川晴元と三好元長が対立。そして、天文元年(1532年)に元長が細川晴元によって討たれた後、天文3年(1534年)には六角定頼・六角義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。 しかし、その後も晴元と対立して敗れたのち、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。 将軍職譲渡と最期天文15年(1546年)、義晴は晴元と対立して敗れ(舎利寺の戦い)、近江坂本に避難したが、このときに嫡男・足利義輝に将軍職を譲り、以後は幼少の義輝の後見人となった。その後、晴元と和睦して義輝と共に京都に戻るが、天文18年(1549年)には晴元と晴元の重臣・三好長慶が対立。晴元は敗れ(江口の戦い)、義晴は義輝と共に近江朽木谷に逃れた。 天文19年(1550年)5月4日、近江穴太(現在の滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。 墓所官職位階履歴※日付=旧暦
義晴の偏諱を受けた人物
脚注
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↓ニュース ↓YouTube ↓テレビ番組 ↓はてブ ↓ヤフオク ↓このページへのリンク ニュース記事●足利将軍家の菩提寺として知られる京都市北区の臨済宗・等持院で、境内の霊光殿に安置された足利尊氏像と足利義晴像の手首部分が盗まれていたことが4日、分かった。 北署が窃盗容疑で調べている。 調べでは、尊氏像は9月3日、義晴像 ...●室町幕府の第12代将軍足利義晴を擁立した細川管領家の当主高国は1525年、新しい将軍御所を建設し家督を息子の稙国(たねくに)に譲った。 高国の統治下で栄える京都の姿を、幕府の御用絵師である狩野元信に描かせたのが甲本だという。 ...
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