足利義満 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利 義満(あしかが よしみつ)は室町幕府の第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。官位は従一位太政大臣、贈正一位。封号は日本国王。幼名を春王という。父は室町幕府第2代将軍・足利義詮で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘である日野業子で、後光厳天皇の寵姫である日野宣子(岡松一品)の介添えで義満の室となる。その後、業子のあとは業子の姪である日野康子が正室となる(のちの北山院)。側室は足利義持と足利義教の生母・藤原慶子、足利義嗣の生母・春日局など。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 足利義満 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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足利義満
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| 時代 | 室町時代 |
| 生誕 | 南朝:正平13年/北朝:延文3年8月22日 (ユリウス暦1358年9月25日) |
| 死没 | 応永15年5月6日(ユリウス暦1408年5月31日) |
| 改名 | 春王、義満、道有、道義 |
| 別名 | 室町殿、日本国王 |
| 諡号 | 鹿苑院太上天皇 |
| 戒名 | 鹿苑院天山道義 |
| 墓所 | 相国寺 |
| 官位 | 従五位下、正五位下、左馬頭 征夷大将軍、従四位下、参議 左近衛中将、従三位、権大納言 右近衛大将、従二位、右馬寮御監 従一位、内大臣、左大臣、蔵人別当 後円融院別当、源氏長者、准三宮 淳和奨学両院別当、太政大臣 |
| 幕府 | 室町幕府征夷大将軍(在位1368年 - 1394年) |
| 氏族 | 清和源氏足利氏 |
| 父母 | 父:足利義詮、母:紀良子 |
| 兄弟 | 千寿王、義満、柏庭清祖、満詮 廷用宗器、宝鏡寺殿 |
| 妻 | 正室:日野時光の娘・業子 継室:日野資康の娘・康子 側室:藤原慶子、春日局ほか |
| 子 | 義持、義嗣、義教、大覚寺義昭ほか |
足利 義満(あしかが よしみつ)は室町幕府の第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。官位は従一位太政大臣、贈正一位。封号は日本国王。幼名を春王という。父は室町幕府第2代将軍・足利義詮で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘である日野業子で、後光厳天皇の寵姫である日野宣子(岡松一品)の介添えで義満の室となる。その後、業子のあとは業子の姪である日野康子が正室となる(のちの北山院)。側室は足利義持と足利義教の生母・藤原慶子、足利義嗣の生母・春日局など。
義満が御所を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
目次 |
1358年(正平13年/延文3年)に生まれる。尊氏の死から丁度100日目のことである。義満が幼少の頃の室町幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、1361年(正平16年/康安元年)には清氏や南朝の楠木正儀らに京都を占領され、義満は赤松則祐の居城播磨国白旗城へ避難を余儀なくされた。翌年には幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津の国に泊まった際にその場所の景色が良い事が気に入り、「ここの景色は良いから、京都に持って帰ろう。お前らが担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその希有壮大さに驚いたという。1367年(正平22年/貞治6年)に父・義詮が病により死去すると、義満は11歳で3代将軍となる。
1368年(正平23年/応安元年)に評定始が行われ、1369年(正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。幕政は管領の細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固める。1374年(文中3年/応安7年)には日野業子を室に迎える。
さらに京都の支配を強化するために、1370年(応安3年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。1378年(天授4年/永和4年)には幕府を三条坊門より北小路室町に移した。移転後の幕府は後に花の御所と呼ばれ、その所在地により室町幕府と呼ばれるようになる。朝廷と幕府に二分化されていた京都の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆や奉行衆と呼ばれる実務官僚を整備する。また、1385年(元中2年/至徳2年)には東大寺・興福寺参詣、1388年(元中5年/嘉慶2年)には駿河国で富士山を遊覧し、1389年(元中6年/康応元年)には安芸厳島神社参詣などの権力示威行為(デモンストレーション)も行っている。
1379年(天授5年/康暦元年)、義満は反頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。
1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。
義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣へ就任し官位の昇進を続けた。1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり淳和・奨学両院別当を兼任、准三后の宣下をうけ、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。
1392年(元中9年/明徳3年)には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消されるかたちでの南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる。
義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が1393年(明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年(応永元年)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家が追従して出家している。
1395年(応永2年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。1399年(応永6年)には西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、1394年(明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の年号にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉[1]であるとして公家達が反発したため実現せず、応永の年号が用いられることとなった。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には年号を変えさせなかった。そのため、応永年号は明治以前では最も長い年号となった。
義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中華皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は臣下ではない自由な立場となった。
1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している。(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。
遣唐使の廃止以来、独自の小中華思想に基づく孤立政策を採っていた公家社会では明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
1397年(応永4年)には藤原公経から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。
1408年(応永15年)、急病のために死去、享年51(満49歳没)。法名:鹿苑院天山道義。 等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明期に火災に遭い、鹿苑院は廃寺となった。そのため、彼の墓は未だ不明だが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に安置されている。[2]
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所とよばれるようになった。
6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政をはじめるが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度をとりはじめる。
田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて作家の海音寺潮五郎、井沢元彦らは義満の死が突然だったため、これは義満の皇位簒奪を阻止するための暗殺ではないかとの意見を提示している。
義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)ついで女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。
なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権をもつ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。
暗殺説を取る者は、簒奪を阻止しようとした朝廷側による毒殺であると疑っている(井沢は著作で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理)。また、他には義満の義嗣偏愛によって将来が不安視された義持の陣営による暗殺と見る説もある。
しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたりその死を暗殺と疑った記録はなく、皇位簒奪計画や義満暗殺の直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。
今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代[3]で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年(しかし現在では亥年生まれとされる)生まれ、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。また井沢は、源氏物語をヒントにしているのではないかと推測している。
義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している。簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。
※()=旧暦
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