足利義澄 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利義澄 出典: 『はてなダイアリー』 ウィキペディア(Wikipedia)記事
足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代将軍(在職:明応2年(1493年) - 永正8年(1508年)。 父は8代将軍足利義政の弟である堀越公方足利政知。母は権大納言・武者小路隆光の娘。出家名は清晃、還俗して義遐、義高、そして義澄。義政の養子となる。正室は日野永俊の娘・安養院。子に足利義晴と足利義維がいる。 明応2年(1493年)に10代将軍足利義材(足利義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。
生涯文明12年(1480年)12月15日、堀越公方足利政知の子として生まれる。はじめ天竜寺で僧となるが、やがてで伯父・足利義政の養子となった。明応2年(1493年)の明応の政変で10代将軍足利義材(義稙)を追放した管領細川政元や日野富子らによって擁立され、11代将軍に就任する。しかし、実権は細川政元や日野富子らに握られていた。 永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍義尹(義材より改名)を擁立する大内軍が上洛してくるとの報により、近江の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡岡山に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義稙(義尹より改名)が将軍に返り咲いた。 その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・三好長秀親子を京都に侵攻させるなどしたが、そのたびに細川高国・大内義興らに敗れた。また、義稙の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。永正7年(1510年)には義稙の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後の大友親治や播磨の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。 しかし、永正8年(1511年)8月14日、義稙・高国・義興との決戦(船岡山の戦い)直前に近江国岡山で病死した。享年32。 肖像は京都市北区の等持院(木像)。 官職位階履歴※日付=旧暦
義澄の偏諱を受けた人物関連項目
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