足利義維 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋足利義維 出典: 『はてなダイアリー』 ウィキペディア(Wikipedia)記事
足利 義維(あしかが よしつな)は、室町幕府11代将軍足利義澄の次男・10代将軍足利義稙の養子・14代将軍足利義栄の父。堺公方・平島公方。母は斯波氏。 生涯1527年、桂川の戦いで三好元長・細川晴元らと、兄の12代将軍足利義晴を擁する細川高国を打ち破り近江国に放逐し、堺に居ながら京都および山城・摂津を実効支配した。義惟は将軍には正式にならなかったが朝廷から左馬頭には叙任されており次期将軍として約束されていたため堺公方(または堺大樹)と呼ばれるようになる。 しかし、1532年後見人の三好元長が細川晴元により自害に追い込まれると、阿波国の天竜寺の荘園平島荘に引き上げた。この5年間は、実質上幕政の中心にいたと考えられている。 1553年、三好義賢が細川持隆を謀殺した事件に激怒し、阿波国を去って母方の周防国へと移るが、後に帰国する。 1566年、松永久秀らによる足利義輝謀殺後、久秀に擁立されて将軍となった嫡子義栄を後見する。ついで織田信長に擁された足利義昭との決戦を摂津国にて用意するも、その最中に義栄が病没し、再度阿波に引き上げその生涯を閉じた。法名は慶林院実山道詮。 子孫しかし、阿波を支配した蜂須賀氏からは、足利姓を名乗る事を禁ぜられるなど、常に冷遇された。文化2年(1805年)、ついに9代公方足利義根が不満を爆発させ、先祖が政治を執った京都に去り、平島姓から足利姓に復した。 明治維新後に爵位を願い出たが徳島藩から去っていたため、古河公方系統の旧喜連川氏のように爵位を賜る事が出来なかった。 義維から数えて13代目の子孫にあたる足利進悟は2002年に95歳で永眠(歴史系雑誌歴史読本の有名人の子孫のコーナーにも登場したこともある)、現在は14代目の子孫で九州保健福祉大学の教授である足利義弘が足利家28代(尊氏から数えて)当主とされている。 関連この記事は、ウィキペディアの記事を複製、改変、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。ことなびに掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。 Yahoo!知恵袋
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