輪中 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋輪中(わじゅう)は岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とその支流域に存在した堤防で囲まれた構造あるいはその集落のこと。船舶における防水区画のような役割を果たすこともある。曲輪(くるわ)、輪之内(わのうち)とも呼ばれる。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
最安値(新品): ¥ 11,980
最安値(中古): ¥ 8,350
|
目次 |
鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちが、それまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に堤防を追加し、集落全体を囲う最初の輪中である高須輪中が完成した。その後周辺の集落もこれに習い、周辺地域には数十の輪中が形成された。木曽川や長良川の強力な水流が作りかけの堤防を流してしまうことも多く、人柱が捧げられることもあった。
江戸期においては愛知県西部が尾張藩の領土であったため、木曽川西岸の堤防は尾張藩を守るために構築された御囲堤よりも三尺低くしなければならないといった不文律もあったため(異説あり)、水害が絶えず、岐阜県側で特に輪中が発達することとなったと言われる。ただし、御囲堤は国境よりも東側にあり、また、木曽川の河口までは延びていなかったため、尾張国内でも御囲堤に守られていなかった地域には多くの輪中が造られている。
明治時代に入って、木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため、輪中の必要性は薄くなり、逆に道路交通に支障をきたすとして多くが破壊された。また、戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、ほとんど残っていない。
現在でも残る一部の輪中堤防は洪水の際に利用されることがある。昭和51年9月12日に起きた水害(通称9.12水害)では輪之内町の福束輪中の水門を締め切ることでその内側は水害から免れることができた。
輪中には水害から身を守るために様々な施設が存在した。
堀田とは特に濃尾平野にある輪中地域に作られた溝渠農業を示す。まわりの土を掘り上げて盛ってできた水田面と、その掘られてできたクリーク・沼で成り立ち、前者は堀上げ田、後者を堀潰れと呼ばれる。濃尾平野の地形上、定期的にどべあげ(じょれんで堀潰れの泥をかき上げる作業)が必要で、かき上げられた泥は肥料として用いられた。また、耕作には備中鍬、くれんこ、除草には田すりごまが用いられた。
堀田は形態や構造の違いにより、以下の3つに類型化されている。
水田中に湧く湧水を排除するために設けられた細長い溝渠で、それらの堀潰れは不規則なものが多い。水深は湿地状の場所から2mを越えるところまである。水温を15℃程度に保ち緩やかに水が流れことがほとんど。堀田の中でも存在していた地域が少ないタイプである。冬季の淡水魚の避難所として利用されていると考えられる水域もある。
堀潰れが短冊状に並び、水路とは直結せずに孤立している。通常水深は浅く、時には湿地になったり干上ったりもする。梅雨時などには排水路や堀上げ田と繋がる。これは、小規模の溜池やわんどなどの環境に近いものと考えられる。
水はけが最も悪い場所に存在した堀田で、規模も大きく堀上げ田と堀潰れの比が6対4、あるいはそれを上回るところもあった。堀潰れは櫛の歯状や梯子状で、水深は平均的に見て1~1.5mと深い。ほとんどは悪水路と直結する。流れはほとんどなく止水である。田舟でしか水田へ行けないところが多い。
現在、堀田は1954年(昭和29年)から1970年(昭和45年)にかけて行われた土地改良事業によりほとんど消滅したが、海津市歴史民俗資料館の敷地内に堀田が復元され実際に稲が栽培されている。また埋め立て用土砂の運搬に用いられた加藤ディーゼル機関車が展示されている。
輪中は堤防が切れることは死活問題であったため、各輪中では水防組が作られ、水害に備えて準備を怠らなかった。この水防組は明治以降も水害予防組合として存続している。
一般に輪中地域では生死を共にする輪中内での結束力は強かったが、他の輪中とは険悪な仲であった。他の輪中が自分たちの輪中より高くなることは自分たちが水害に遭うことに等しかったからである。自分たちの輪中を水害から守るため、隣の輪中堤防を破壊することもあったといわれているが、このような行為は現在で言うところの現住建造物等浸害にあたり、当時も厳しく罰せられた。
このような、水害から自分の住む輪中を守るためにその中での結束が固くなるが他の輪中の人に対しては冷ややか、という排他性から輪中根性という言葉が生まれた。岐阜県民の県民性を表すときによく使われるが、保守的で猜疑心の強い排他的な自己本位の田舎者といった意味であることが多い。しかし、実際に輪中が存在するのは岐阜県では南西部の一部地域のみで岐阜県人一般に適用することは難しい。特に北部は輪中のある美濃地方と密接な関わりがあったわけではない。
また、輪中地域は水害に悩まされた反面、渇水にも悩まされた。これは水害を防ぐため田畑はやや高いところに存在していたためである。そのため、これらの地域では雨乞い踊りなどが伝わっている。
PageRank5以上の相互リンク
・相互リンクスクエア
(PageRank 5)
・相互リンク インプロス
(PageRank 5)
→便利!NINJA TOOLS
→FC2検索
用語
Wikipedia
YouTube
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |