輪廻 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋この項目ではヒンドゥー教、仏教用語について説明しています。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 輪廻 輪廻 輪廻 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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輪廻はインドにおいてサンサーラ(saMsAra)と呼ばれる。サンサーラとは、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karuman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。
元来は先住民族のものであったとされる輪廻思想がバラモン教に公認されたのは、最終期のブラーフマナ文献文[1]ないし最初期のウパニシャッド文献[2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。
五火説とは、5つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[3]。
これが、やがて輪廻の思想へと発展した。すなわち、ヒンドゥー教では、輪廻を教義の根幹とし、信心と業(カルマ、karuman)によって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。
行為が行われた後、なんらかの結果(para)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。
これが、業(行為)にもとづく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。
仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とした。仏教教義では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定せず(無我)、主体の存在しない、無我だからこそ輪廻という現象が成り立つとしている。この点で、永遠不滅の我(アートマン)を説く他のインドの宗教と対立している。
上座部仏教の見解では、原初的な「再生」ではなく、「輪廻」という概念を、はじめて完全に持ったのは釈迦である。当時の一般的な思想において、輪廻が通説となっていたわけではなく、当時のバラモン教には輪廻という概念はなかった。理由としては、仏教経典においては三つのヴェーダ聖典までが記録されており、他にも当時の様々な自由思想家(六師外道)の存在も記されているが、ウパニシャッド文献については全く記述がないことがあげられる。
仏教における輪廻の定義とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。生命に永遠不滅の霊魂は存在せず、また、生命自体も、物質と様々な認識機能のあつまり(五蘊)であり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎない。それゆえ輪廻における、単立常住の主体(霊魂)を否定する。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれるということである。このことは科学のエネルギー不滅の法則にたとえて説明される場合がある。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、心の流れとして一貫している。これが輪廻という現象である。また、このようなプロセスは生命の生存中にも起こっており、心とは、単なる認識の流れにすぎない。それゆえ、仏教における輪廻とは、心の生滅全体を説明する概念であり、単なる死後説のひとつではない。
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者のなかには、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。[4]
新仏教運動の開祖、ビームラーオ・アンベードカルはブッダが輪廻転生を否定したという見解を持つ。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[5]
「輪廻」は、「業」や「縁起」と共に釈迦の教説の根本をなしているため、釈迦が輪廻を積極的に否定したとは考えられない。また、科学に近い唯物論を説き、輪廻を否定したアジタ・ケーサカンバリンは、原始仏典において、誤った見解をもつ思想家である、六師外道の中に入れられていることも考慮すべきである。
後代における、教義の発展としては、世親(ヴァスバンドゥ)の『倶舎論』で、地獄・餓鬼・畜生・人・天の五趣(五道)が説かれ、命あるものは、この五趣を輪廻するものとされた。後に世親の五趣に阿修羅が加わり、これらの地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道を六道と呼び、このいずれかを輪廻するといわれるようになった。さらに後代に至ると大乗仏教では、六道輪廻を超越した上に、縁覚・声聞・菩薩・如来の世界があるとして、六道とあわせて十界を立てるようになった。
古代ギリシアなどには一部で輪廻の発想はあったが、キリスト教文化圏の伝統からみれば異端に近いものとされた。ただ、欧米のキリスト教文化圏でも、Reincarnation(リンカネーション、もしくはリインカネーション)という霊魂の生まれ変わりないしは転生の概念は存在する。たとえば神秘学の範疇においては、輪廻はその教義展開の題材となっていることが多く、信奉者も多い。また、怪奇小説や映画の題材になることもある。なお、神秘学の歴史は比較的新しいもので、これといった起源は特定しにくいが、輪廻の観念は大航海時代以後の世界の一体化、近年ではグローバリゼーションの進展によって、東洋の情報が入手しやすくなったため採り入れられたと見られる。[要出典]
なお、キリスト教に見られるものはイエスの復活の話が原形と思われるが、東洋の輪廻とは多少異なり人外への転生や個性が消滅した後の転生は想定されていない。また、伝統的な世界観とも関わってきて、蘇りを何回も繰り返すことはない。アブラハムの宗教では、最後の審判ののちに新しい世が始まるという、いわば「全体に拡大した復活」ともいうべき発想があり、ここでは直線状の時間観念が指摘される。[要出典]つまり、西洋においては、時間は直線のように進むが、輪廻の字義通り輪のように循環するという発想は伝統的教義にはみられないのである。
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