日本映画(にほんえいが)とは、次のような特徴を持つ映画のことを指すが、市場のボーダーレス化等の事情により、一般には日本映画と認知されつつも、いずれかの特徴を欠いている映画もある。逆に、以下の特徴の多くを有しつつも、一般には外国映画とされているものもある。
- 日本国籍を持つ者または日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している。
- 大半の映画スタッフと俳優が日本国籍を持つか、あるいは、日本在住である。
- 日本国内の映画館などで公開を前提にして、ストーリーなどが組み立てられている。
- 劇中の舞台の大半が日本国内である。
- 撮影の大半が日本国内で行われた。
- 劇中で使用される言語の大半が日本語である。
なお、日本では邦画(ほうが)とも呼ばれる。また、明治・大正・昭和初期の日本では映画は活動写真、キネマ、シネマ等と呼ばれた。以来、100年を超えて、日本映画は製作され続けている。
歴史
サイレント時代
- 日本映画の歴史は、1899年(明治32年)に始まる。この年の6月20日、短編ドキュメンタリー映画『芸者の手踊り』公開(東京歌舞伎座)。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。
- 同年、柴田常吉と駒田好洋が共同撮影した『ピストル強盗清水定吉』(日本初の劇映画)が上映され、主演の横山運平が日本初の映画俳優となる。
- 吉沢商店、横田商会らが日露戦争実写撮影班を現地に派遣。ドキュメンタリー映画が大ヒットする。
京都の芝居小屋の狂言方であった牧野省三が横田商会公開用に監督した『本能寺合戦』(日本最初の劇映画)公開。牧野は翌年に、歌舞伎俳優の尾上松之助主演の『碁盤忠信』をヒットさせ、以降、尾上は「目玉の松ちゃん」の愛称で『豪傑児雷也』(1921年)などの作品で日本映画最初のスターとなる。
- 11月。Mパテー商会(日活の前身のひとつ)が白瀬矗中尉の南極探検隊に撮影隊を派遣して、実録映画の撮影に成功する。
- 9月、日本活動写真株式会社(略称日活)、横田商会・吉沢商店・Mパテー商会・福宝堂の既成4社の合併による日本で最初の大手映画会社として発足。
- 10月。日本活動写真が「向島撮影所」(日本初の近代映画スタジオ)を建設し、新派の現代劇映画の製作を開始する。
- 日活と天活が漫画映画を製作開始。
- 1910年代後半には、欧米流の洗練された映画に変革しようする、日本映画の近代化運動「純粋映画劇運動」が起こる。その結果、日本初の女優花柳はるみを使った帰山教正監督の『生の輝き』(1918年)、田中栄三監督の『生ける屍』、小山内薫が指導し村田実が監督した『路上の霊魂』(1921年)などの作品が生まれた。
- 1920年
- 松竹キネマ合名会社設立。
- 松竹キネマ合名社ができたときに、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響は大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
- 2月、芝居興行の「松竹」のキネマ部が本格的に映画事業に参入。「松竹キネマ」と改称して新発足
- 6月、「松竹蒲田撮影所」が誕生し、栗島すみ子が入社する。
- 帝国キネマ演芸(通称帝キネ)創立。同年、最初のアニメーション映画プロダクションである北山映画製作所成立。
- *日本の映画史が二分されるというべき大事、つまり関東大震災が起きた年に米国ではパンクロマティック・フィルムが発売された。この映画技術上のフィルムの進歩が白黒映画に大きな表現力を与えた。それまでのオーソクロマティック・フィルムは赤と黒の区別がつかず、唇が真っ黒に写ってしまうが、パンクロマティック・フィルムの導入と照明におけるカーボン・ライトからタングステン・ライトへの転換は、陰影を基調とした日本映画を大きく発展させることになる。
- 7月、内務省警保局、活動写真検閲全国統一を行う。
- 9月、阪東妻三郎、独立プロダクションを設立。名作『雄呂血』を製作する。
- 12月、京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映太秦撮影所)が開設される。日活で、伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演、唐沢利光撮影による『忠次旅日記三部作』制作され、新しい感覚のサイレント時代劇が始まる。
- 4月、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵が独立プロダクションを設立。嵐寛プロには山中貞雄、千恵プロには稲垣浩、伊丹万作などの優れた映像作家を輩出した。マキノ雅裕『浪人街三部作』制作。
- 2月、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)創立。
- 当時は、セリフだけではなく内容を語りで表現して解説する活動弁士(弁士)付きで上映された。
- 1923年の関東大震災、第二次世界大戦の戦災で、燃えやすかったフィルムは消失、散逸し、この時期の作品は残存していないケースも多い。
- 溝口健二(『東京行進曲』(1929年)ほか)、小津安二郎(『大学は出たけれど』(1929年)ほか)などの監督も、若き日にサイレント作品を手がけ、のちの世界的評価を受ける作品の礎を築いている。
- 1920年代では、ヘンリー小谷監督「島の女』(1920年)、野村芳亭監督『夕刊売り』(1921年)。二川文太郎監督『雄呂智』(1924年)、衣笠貞之助監督『狂った一頁』(1926年)、伊藤大輔監督『忠次旅日記』(1927年)などが話題を呼んだ。
1930年代
- 2月、鈴木重吉監督『何が彼女をさうさせたか』がヒット。内田吐夢監督『生ける人形』、溝口健二監督『都会交響曲』、伊藤大輔監督『新人斬馬剣』などの傾向映画(左翼思想を背景に社会矛盾、階級対立をテーマとした映画)が全盛となる。
- 帝キネが解散して新興キネマとして再生する。
- 五所平之助監督の『マダムと女房』(日本初のトーキー映画)が公開。トーキーの流行で、弁士、楽士らの反トーキー・ストライキ起きる。またトーキーの登場は、採算面から独立プロを直撃し、映画製作は映画会社が専門的に行う傾向が高まる。
- 入江たか子、女優で初の独立プロダクションを設立、溝口健二が参加。
- 小林一三が映画興業に進出して「写真化学研究所(PCL)」(現・東宝の前身のひとつ)を設立する。
- 11月、「宝塚キネマ」が設立される。コダックの日本代理店だった「長瀬商会」(現・長瀬産業)が京都の映画フイルム現像工場を分離独立させて「極東フィルム研究所」(後の極東現像所、現イマジカの前身)を設立する。
- 上原謙が立教大学の学生から松竹入社。新たな映画スターのタイプを作る。
- 3月、「映画国策建議案」衆議院で可決。映画法などの先駆け。官僚統制が始まる。
- 6月、銀座に「大都映画」(後の大映の前身のひとつ)が設立される。
- 1月、富士写真フイルム創立、国産フィルム量産を発表。同月、日活が現代劇部門を「多摩川撮影所」に移転。
- 2月、正月に有楽町に「東京宝塚劇場」をオープンさせた小林一三が本格的に東京進出を図り、映画館「日比谷映画劇場」を開場。
- 3月、内務省が映画統制委員会を設置。
- 日活京都撮影所の企画部長の永田雅一が退職して「第一映画撮影所」を設立。川口松太郎、伊藤大輔、溝口健二や山田五十鈴らが参加した。
- 11月、映画の国家統制機関「大日本映画協会」が設立される。
- 12月、有楽町の日本劇場の地下に戦況ニュース映画・短編映画を上映する専門館「第一地下劇場」(日本初のニュース映画館)がオープン。
- 1935年あたりから榎本健一がドタバタ喜劇で人気急上昇。
- 1936年
- 松竹キネマが松竹蒲田撮影所を神奈川県鎌倉の大船に移転し「松竹大船撮影所」が開設される。以降、大船調と呼ばれる独自のカラーを作った。
- 映画監督の自主独立・相互扶助などを目的に「監督協会」(現日本映画監督協会)が誕生する。
- 10月、京都にニュース映画専門館「松竹京都ニュース劇場」(関西初のニュース映画館)が開館する。
- 2月、小林一三が東京錦糸町に「江東楽天地」(現東京楽天地)を設立する。
- 4月、松竹キネマが演劇興行の「松竹興行」と合併し、映画・演劇を一元化を図り「松竹」と改称して新発足する。
- 5月、大阪に「大鉄映画劇場」(現きんえい)が設立される。
- 8月、満州国の国策映画制作会社「満洲映画協会」(満映)が設立される。
- 9月、東宝映画会社発足(写真科学研究所、PCL、東宝映画配給、JOスタジオが合併)。
- 11月、林長二郎が暴漢に襲われ、重傷を負う(林長二郎事件)。長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだもの。林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。
- 輸入配給会社「東和商事」(現東宝東和の前身)の川喜多長政が「新しき土」(日本初の日独合作映画)をアーノルド・フランク、伊丹万作監督、円谷英二の特撮で制作する。
- 独立プロ「片岡千恵蔵プロダクション」が解散し、社員全員が日活京都に入社。嵯峨野の撮影所は「日活京都第二撮影所」となる
- 独立プロ「嵐寛寿郎プロダクション(第二次)」が解散し、嵐寛を除く社員全員が新興キネマに入社する。
- *この年を頂点として日本の白黒映画の黄金期が訪れ、次々と名キャメラマンも生まれた。サイレント映画時代から『狂った一頁』などで知られていた杉山公平、『浪人街』『浪花悲歌』『祇園の姉妹』の三木稔、『人情紙風船』ではハリウッドでグレッグ・トーランドの助手をしていや三村明、また『土』の碧川道夫、『五人の斥候兵』の伊佐山左三郎、『川中島合戦』の三浦光雄など多くのキャメラマンが個性を発揮し、それは戦後の黄金期まで続いた。
- 3月、東和商事(現東宝東和)の製作の日本と満州映画協会の協同作品『東洋平和の道』が帝国劇場にて上映される。
- 4月、「支那事変特別税法」が施行され、映画館に映画入場税が課税(映画入場税の始まり。平成の消費税の導入で廃止)。
- 12月、松竹の女優、岡田嘉子が演出家の杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソビエトに亡命する。
- 東横映画設立。
- 大阪毎日新聞がニュース映画、文化映画を製作する映画部(現・毎日映画社)を設置する。
- 神戸の富豪、池長孟(のち淀川長治の姉と結婚)が、アメリカから輸入したカラー映写フィルムで東京・大阪・神戸の市街を映写撮影する。
- 4月5日。「映画法」(映画の事前検閲など国が直接に映画内容に関与した法律。1945年11月廃止)が公布。自由な映画製作が不可能となる。
- 佐藤武監督『チョコレートと兵隊』(1938年)がのちの太平洋戦争中、アメリカ国務省が編成した対日宣伝研究プロジェクト・チームによって、日本人の国民性研究の最も適当なテキストと考えられ、英語字幕を入れて研究試写に使われた。
- 30年代では伊丹万作監督『国士無双』(1932年)、『赤西蠣太』(1936年)、小津安二郎監督『生まれてはみたけれど』(1932年)、山中貞雄監督『抱き寝の長脇差』(1932年)、『丹下左善余話百万両の壷』(1935年)『人情紙風船』(1937年)、内田吐夢監督『人生劇場』(1936年)。成瀬巳喜男監督『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、溝口健二監督『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』(1936年)、野村浩将監督『愛染かつら』(1938年)、山本嘉次郎監督『綴形教室』(1938年)などの作品が発表された。
1940年代
- 1月、主要六大都市で「文化映画」の上映が強制上映となる。
- 12月、「映画之友」「キネマ旬報」などの映画雑誌が全て廃刊。(映画雑誌の定期刊行物統制の始まり)。
- 1月1日から全国の映画館でニュース映画・文化映画の強制上映が開始される。
- 1月、新興キネマ、大都映画、日活の製作部門、が合併して大日本映画製作株式会社(戦後の大映)発足。この戦時統合により、映画会社が松竹・東宝・大日本映画製作の3社に集約される。
- 山本嘉次郎監督+円谷英二特撮監督『ハワイ・マレー沖海戦』(日本初の特撮映画)が公開。
- 3月、アニメ作家瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』(日本初の長編アニメ映画)が海軍省の後援で公開上映。
- 9月、大政翼賛会の要請により映画上映前に軍歌「愛国行進曲」「海ゆかば」が流されるようになる。
- 東宝の黒澤明が『姿三四郎』、木下惠介が『花咲く港』で監督デビューし、共に「国民映画奨励賞」を受賞する。
- 4月、瀬尾光世による長編アニメ『桃太郎 海の神兵』が公開上映。
- 12月、映画フィルムが欠乏し、全国731の映画館に対し供給が停止。
- 8月15日、終戦。
- GHQによる映画管理が始まり、空襲で焼け残った戦前の映画作品の大部分が処分され、時代劇も禁止された。民主啓蒙映画や反封建的な時代劇は許可された。
- 11月、各映画会社、従業員組合結成
- 12月、映画法廃止
- 1月、GHQの映画検閲が開始
- 1月、新東宝映画製作所設立
- 7月、東横映画株式会社設立
- 3月、黒澤明ら「映画芸術協会」設立
- 8月、東宝争議起こる。撮影所を占拠した組合員に対し武装警官や占領軍の戦車や飛行機まで出動するまでに至る
- 組合主流の共産主義者たちの態度に反撥した映画スタッフを中心に新東宝が設立される。
- 日本映画監督協会が復活。
- 6月、GHQの要請で映画倫理規定管理委員会(映倫)発足
- 10月、東映の前身、東京映画配給株式会社設立
1950年代
- 3月、近代映画協会設立
- 5月、岩波映画社設立
- 東横映画と大泉スタジオが合併し、東映株式会社発足。
- 木下惠介監督『カルメン故郷に帰る』(日本初のカラー長編)が公開される。
- 日動映画(1955年に東映動画)創立。アニメーションのプロダクションとしては最大手となる。
- このころ、映画界にレッドパージが広まる。137名追放。
- 1952年
- 大映、東宝、松竹、東映、新東宝が相互に俳優その他の引き抜きをしない旨の秘密協定「五社協定」を結ぶ。
- 日活製作再開発表。
- 12月、『聖衣』(シネマスコープ第一作)公開
- 2月、東映、2本立て興行を開始
- 東宝で本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『ゴジラ』公開。怪獣映画流行の始まり。
-
- 黒澤明監督『羅生門』(1951年)ヴェネチア映画祭グランプリ
- 溝口健二監督『西鶴一代女』(1952年)ヴェネチア国際映画祭国際賞
- 溝口健二監督『雨月物語』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞
- 黒澤明監督『生きる』(1954年)ベルリン映画祭銀熊賞
- 黒澤明監督『七人の侍』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞
- 溝口健二監督『山椒大夫』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞
- 衣笠貞之助監督『地獄門』(1954年年)カンヌ国際映画祭グランプリ
東映
新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之助出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、中村錦之助、東千代之助出演の『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ江原真二郎、中原ひとみ、高倉健、佐久間良子、梅宮辰夫、三田佳子、千葉真一、大原麗子らがデビュー。今井正監督『米』『純愛物語』(1957年)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』(宮崎駿がアニメ界に入るきっかけの一つとなった作品と言われる)公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。
東宝
森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)などの秀作やヒット作も生み出した。また東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などの傑作にして大ヒット作を連発。だが、莫大な制作費をかける面もあって、1959年、黒澤プロダクション発足する。その後も東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には、ゴジラシリーズがスタートし、1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。
松竹
大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年 - 1954年)を筆頭に、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件 (映画)』(1959年 - 1962年)ではヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞など、海外で評価を集めた作品も手がけた。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下惠介監督が『カルメン故郷に帰る』(1951年)、『日本の悲劇』(1953年)、『二十四の瞳』『女の園』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『太陽とバラ』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などの名作を連発し、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『彼岸花』(1958年)、そして「日本映画の最高傑作」とも評される『東京物語』(1953年)などを発表した。
日活
1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を制作していた。五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、川地民夫、待田京介、和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作·配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督『幕末太陽伝』(1958年)などのカルト作品も残している。
大映
1950年代から1960年代前半にかけて長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子、山本富士子、若尾文子そして市川雷蔵と、日本映画史に残る大スター達を擁し、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川雷蔵主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。
- このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に制作・公開。1957年には勅使河原宏や羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。
1960年代
- 1960年に日本映画の製作本数は574本(日本映画史上最高)。日本映画の黄金期のピークを極める。だが1961年に新東宝が製作中止(実質的な倒産)するなど、崩壊は始まっていた。1960年代後半になると、テレビの普及などに伴い、次第に日本映画は集客力を失い、縮小再生産を繰り返してきた。大手五社の流れは、以下の通り。
東映
観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子(現・富司純子)らを擁して仁侠物ブームを作った(東映任侠映画)。この年代の東映の代表作、人気シリーズは以下の通り。
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東宝
植木等主演の無責任シリーズや加山雄三主演の若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズや駅前シリーズなど安定したプログラムピクチャー、昭和ゴジラシリーズ、『モスラ』などの特撮怪獣映画路線などを持っていたことも強みだった。黒澤明は、引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)などの作品を発表する。1969年にアメリカの20世紀フォックス社の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。この年代の東宝の代表作には、市川崑総監督『東京オリンピック』(1965年)、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』(1967年)、成瀬巳喜男監督の『女の中にいる他人』(1966年)、『乱れ雲』(1967年)など。
松竹
「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に城戸四郎社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、大島渚監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、吉田喜重監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、篠田正浩監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、日米安保改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。野村芳太郎は『拝啓天皇陛下様』(1963年)などの人情喜劇、コント55号主演映画などを監督。山田洋次監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)、『霧の旗』(1965年)などの作品を経て、1969年より「男はつらいよシリーズ」を始める。この年代の松竹の代表作には、小津安二郎監督『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)、木下惠介監督『笛吹川』(1960年)、『永遠の人』(1961年)、『二人で歩いた幾春秋』(1962年)、『死闘の伝説』(1963年)、『香華』(1964年)、小林正樹監督『切腹』『からみ合い』(1962年)、松山善三監督『山河あり』(1962年)、羽仁進監督『充たされた生活』(1962年)、中村登監督『古都 (映画)』(1963年)、『紀ノ川』『暖春』(1966年)、『智恵子抄』『惜春』(1967年)、『わが恋わが歌』(1969年)、吉村公三郎監督の『眠れる美女』(1968年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。
日活
60年代に引き続き、小林旭の和製西部劇(渡り鳥シリーズや流れ者シリーズなど)が大ヒットするが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎と小林旭の二大スターの人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、藤竜也、梶芽衣子、杉良太郎といった錚々たる新人スター達も生み出したが、退潮を食い止めることはできなかった。一方、今村昌平が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)などの話題作を連発する。鈴木清順が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などのちに再評価も受ける傑作群を残すが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀久作社長により解雇される。このほか、監督では熊井啓、浦山桐郎らを擁した。
大映
1960年代に入ると勝新太郎・田宮二郎が頭角を現すが、長谷川一夫・叶順子の引退(1963年)、永田雅一社長によって五社協定にかけられた山本富士子(1963年)・田宮二郎(1968年)の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田雅一社長のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)や『秦・始皇帝』(1962年)など大作映画路線も数作で終わった。この年代の大映の代表作には、市川崑監督の『おとうと』『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)、『私は二歳』『破戒』(1962年)、『雪之丞変化』(1963年)、増村保造監督の『偽大学生』(1960年)、『妻は告白する』(1961年)、『清作の妻』(1965年)、『華岡青洲の妻』(1967年)、三隅研次監督の『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)、吉村公三郎監督の『その夜は忘れない』(1962年)、『越前竹人形』(1963年)、川島雄三監督の『雁の寺』(1962年)、『しとやかな獣』(1963年)、山本薩夫監督の『傷だらけの山河』(1964年)、『白い巨塔 (映画)』『氷点』(1966年)などがある。大魔神シリーズ(1966年)、ガメラシリーズ(1965年 - 1971年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。主な人気シリーズは以下の通り。
-
独立系
羽仁進監督『不良少年』(1961年)、『ブワナ・トシの歌』(1962年)、若松孝二監督『犯された白衣』(1967年)、『処女ゲバゲバ』(1969年)などが発表された。
ATG
1961年に、日本アート・シアター・ギルド (ATG) 設立(- 1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品はイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は勅使河原宏監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、新藤兼人、羽仁進などの独立系監督のほか、三島由紀夫(作家)、実相寺昭雄(テレビ演出家)、寺山修司(演劇)、田原総一朗(ジャーナリスト)、清水邦夫(演劇)などの異業種出身監督、黒木和雄、松本俊夫などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の若松孝二など、そして大手五社映画を辞した大島渚、今村昌平、吉田喜重、篠田正浩、岡本喜八、熊井啓、増村保造、斎藤耕一またはフリーの市川崑などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。※日本アート・シアター・ギルド公開作品の一覧項目も参照。
その他の動き
1962年、手塚治虫が虫プロダクションを設立。
1970年代
1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらなかったが、その中では菅原文太主演の仁義なき戦いシリーズやトラック野郎シリーズが大ヒット。山口百恵・三浦友和などの俳優を擁した『潮騒』などがヒットし、また、小松左京の『日本沈没』などのSF大作作品が多くなった。1979年には『銀河鉄道999』が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。映画としてアニメ映画が評価されなかった[1]時代に異例の評価を得る。
1980年代
1980年、日本初のシネマコンプレックスができる。 劇場用アニメ映画『風の谷のナウシカ』が公開され、大ヒットを記録した。当時の劇場用アニメとしては異例の「映画作品として」の高い評価(キネマ旬報1984年度ベストテン日本映画第7位)を得て、日本の劇場用アニメの転機となる。アニメ映画において金熊賞など海外で高い評価を得る作品が多くなった。
1990年代
1993年、日本で初めて外資系の