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銅鐸は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器である。これまでに出土した銅鐸は約470個である。主に近畿地方の遺跡から出土している。
大きさについては12センチから1メートルを越すものまである。1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。しかし、その直後鋳造が止んでいる。
文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させている。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っている。紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されている。この文様は紀元前1世紀頃に衰退する。 当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもある。
中国の銅鈴が起源とされるが、日本で出土する形状に類似するものは見つかっていない。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達した。
1世紀末ごろを境にして急に大型化する。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。『続日本紀』には、和銅6年、大和宇波郷のひとが長岡野において発見した記事があり、『日本記略』には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
現在のところ用途は未だ定かではないが、出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度明らかにされている。銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕の内側に紐などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる。 これは鈕の下部及び側面に紐で長期間吊るされた事による「擦れ」と考えられる痕跡や、内部の突帯に舌が当たった為にできたと思われる凹みの形での損傷が確認される銅鐸があるためであり、鐘のように胴体部の外面を叩く事でできたと考えられる痕跡のある物はないため、そのように鳴らしたような再現図は誤りである。 なお、銅鐸を「鳴らす」段階にあってはこの内面突帯の摩滅を軽減するため、この内面突帯を二本に増やした物が銅鐸の発達と共に増えていく。
1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はあるが、)音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したのではないかと言われている。これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ(佐原真)、鈕・鰭外部に耳が付くことが多くなる。また、すでに鳴らす事を放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)された物もある。これは通常目に触れることのない内面にまで装飾の手が伸びた例と言えるだろう。
埋納状況については村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多い(逆さまに埋められた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。 あまり注目される事が無いが頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。 なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。 銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説ある。
しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険である。
弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説がある。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見。
かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。そしてこの偏りが絶対であったうちは中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。)
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと(特に有名な例が吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。 しかし、現在でもこれらの出土分布の大勢に変わりはない。
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