鎌倉街道 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋鎌倉街道(かまくらかいどう)は、鎌倉に至る道を指す名称である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
村松健 /
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古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道である。本項では、鎌倉幕府の公式記録である吾妻鏡に記された事象を中心に、当時の御家人等が鎌倉と自領の往還に利用した道について記述する。
吾妻鑑に鎌倉街道という言葉は見られない。「鎌倉との往還道」という意味では、京や駿河・遠江と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総・常陸に向かう道として東海道、鎌倉から武蔵東部・下野に向かう中路、さらに中路を経て奥州に向かう奥大道、鎌倉から武蔵西部・上州に向かう下道、下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道などが散見される。これらのうち、東海道と北陸道は道路の意味よりむしろ地方の名称、すなわち律令制五畿七道の一道の意味合いで用いられているとも解される。現在では鎌倉から武蔵西部を経て上州に向かう道路は「上道」と言われているが、吾妻鏡によるとこの道は「下道」とされている。
現在では、鎌倉街道には上道、中道、下道があり、またこれら以外にも枝道などがあり、そうした支道も一括して鎌倉街道と称され、それらは各地に存在するとされる。
現在、上道(かみつみち)と呼ばれている道筋は、吾妻鏡には下道と記されている道筋と同じものと推定されている。吾妻鏡の文治5年7月17日の条には、奥州征伐の北陸道大将軍の比企能員および宇佐美実政等が、鎌倉から下道を経て上野国の住人を集め越後国から出羽国に出ると記述されており、下道は上州より北で北陸道に通じるものであったと推定されている。
さらに、吾妻鏡の養和元年9月16日の条には、下野国足利庄の桐生六郎は、幕府の命により追討の命が下された主人の藤原俊綱の首を取って武蔵大路よりその首を持参したとあり、この武蔵大路も現代の上道と同じ道筋であった可能性がある。武蔵大路とは鎌倉市中の道との説もあり、またその経路については一切の説明が無いため不詳である。
現在、この道は「武蔵路」とも呼ばれ、鎌倉から化粧坂を越えて境川左岸沿いに北上し、瀬谷、原町田、多摩、武蔵府中・堀兼(現・狭山市)を経て入間川に至り、入間川付近で上野国方面に向かう上道上野線と下野国方面に向かう上道下野線に分岐する。上野線は下野線と分かれてからは、笛吹峠・菅谷(現・比企郡嵐山町)・児玉(現・本庄市)を経由して上野国に至り、信濃国に向かう道である。下野線は上野線と分かれてから、高坂(現・東松山市)・村岡(現・熊谷市)・太田・足利を経て小山に至り、小山で中道と合流する。他にも各所で分岐する。なお、上道は、おおむね東山道武蔵路のあとをたどっており、古代官道との関連も捉える必要があろう。
「宴曲抄」からみた鎌倉街道上道推定ルート 鎌倉時代に編まれた「宴曲抄」の中の歌謡「善光寺修行」には、鎌倉街道の地名が織りこまれている。
由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜) ~ 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) ~ 村岡(藤沢市宮前を中心とした付近) ~ 柄沢(藤沢市柄沢付近) ~ 飯田(横浜市戸塚区の境川左岸) ~ 井出の沢(町田市本町田) ~ 小山田の里(町田市小野路町) ~ 霞の関(多摩市関戸) ~ 恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) ~ 久米川(東村山市と所沢市との境付近) ~ 武蔵野(所沢市一帯の地域) ~ 堀兼(狭山市堀兼) ~ 三ツ木(狭山市三ツ木) ~ 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった) ~ 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿) ~ 大蔵(嵐山町大蔵) ~ 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する) ~ 比企が原(嵐山町菅谷周辺) ~ 奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨) ~ 荒川(寄居町の荒川) ~ 見馴川(児玉町を流れる現在の小山川) ~ 見馴の渡(見馴川の渡) ~ 児玉(児玉町児玉) ~ 雉が岡(児玉町八幡山) ~ 鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる) ~ 山名(高崎市山名町) ~ 倉賀野(高崎市倉賀野町) ~ 衣沢(高崎市寺尾町) ~ 指出(高崎市石原町付近) ~ 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) ~ 板鼻(安中市板鼻) ~ 松井田(松井田町)
吾妻鏡の文治5年7月17日の条には、奥州征伐で源頼朝が大手中路より御下向されたと記述されており、鎌倉を発向した頼朝軍は下野国宇都宮(古多橋驛)、同那須(新渡戸驛)を経て白河関に至っていることから、中路は鎌倉より武蔵国および下野国を経ていたものと推定される。
また同じく吾妻鏡には、奥州平定後の記述として奥大道の文字も見え、1256年7月2日(建長8年6月2日)の条に、奥大道に夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等として以下の24名を挙げている。
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これら地頭等の所領を現代の自治体名で鎌倉側から並べると、神奈川県川崎市中原区上平間、川崎市幸区下平間、東京都足立区宮城、足立区伊興、埼玉県川口市本郷、鳩ヶ谷市、草加市谷塚、さいたま市岩槻区、久喜市、栃木県小山市、下野市薬師寺、河内郡上三川町多功、下野市児山、 宇都宮市(田川西岸の市街部)[1]、さくら市氏家、矢板市川崎、大田原市福原、大田原市黒羽、那須郡那須町芦野[2]となり、中路はこれら地域を経て奥州に至っていたものと考えられる。
さらに、吾妻鏡の養和元年9月16日の条には、下野国足利庄の桐生六郎は、幕府の命により追討の命が下された主人の藤原俊綱の首を取って武蔵大路よりその首を持参したとあり、この武蔵大路も中路であった可能性がある。この武蔵大路とは鎌倉市中の道との説もあり、またその経路については一切の説明が無く、また現在の上道との説もあり不詳である。
中道(なかつみち)は「奥州大路」とも呼ばれ、鎌倉から巨福呂坂(あるいは亀ヶ谷坂)を越えて戸塚方面に向かい、横浜市港北区・日吉、中山を経由し、現在の港北ニュータウンのあたりより東急田園都市線に近似したルートで二子玉川、渋谷へと進み、そこから新宿、赤羽、川口、岩槻、栗橋、古河、小山、宇都宮と北上していくルートが想定されている。
なお、先出の吾妻鏡の奥州征伐の記述によると、7月19日に鎌倉を発った頼朝軍は、中路を経て7月25日に宇都宮(古多橋驛)に到着、7月26日に宇都宮を発ち7月28日に那須(新渡戸驛)に到着、翌7月29日に白河関に至っており、各区間に要した概日数は鎌倉-宇都宮間約160kmが6日間、宇都宮-那須間約55kmが2日間であったことから、当時の中路の旅程は1日約25-30kmであったと見られる。
下道(しもつみち)は、鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされているが、房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称する場合もあるようである。現在鎌倉街道と呼ばれるもののうち、神奈川県道21号横浜鎌倉線(後述)は、小袋谷付近まで中道をほぼ踏襲しているが、それ以遠のルートは中道から大きく外れて横浜市中心部へ北上しており、六浦津方面より北上してきた下道への間道に沿った道筋に由来するものかと考えられる。
1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」には、下記の「鎌倉街道」が含まれている。
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