長いナイフの夜 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋長いナイフの夜事件(ながいナイフのよるじけん、Nacht der langen Messer)とは、1934年にナチスが行った大規模な粛清。事件名は、5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)にちなむ。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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レームはSAを正規軍とする事を望み、それに関する独自の構想も持っていた。この動きに対して、国防軍はSAを脅威と認識し、反発する。ヒトラーとしても、国防軍との連携を必要不可欠と考えており、そのためにもレームとSAの処遇を決定する必要があった。
しかし、ゲッベルスやゲーリングによる度々の粛清要請にも拘らず、ヒトラーは粛清の決意を固めることができなかった。ヒトラーにとってレームは、最も古くからの同志であることもあり、粛清を躊躇していたとされる。ヒトラーは、レームに対して勲章を与えるなどして懐柔を試みるが、レームとSAの独自路線を抑制するには至らなかった。そして、レームを中心とした突撃隊一派が謀反を企てているというデマが流れたのを機に、ヒトラーはついに粛清を決意する。
レーム自身には反乱の意志がなかったとされ、ヒムラーが部下の保安諜報部(SD)長官のハイドリヒに命じて、レームの反乱計画を捏造させたのが真相であるとされる。
この事件以後ヒトラーの主導権が確立された。また、市民は評判の悪い突撃隊の粛清をむしろ歓迎した。その後、ヴィクトール・ルッツェがSA最高幕僚長に就任。突撃隊は去勢された形となったが、その後のナチス支配下のドイツにおいて重要な位置を占め続けた。戦時中はヒトラーの親衛隊と幾度となく衝突を繰り返し、親衛隊とは消える事の無い因縁が残った。また、この事件後にルッツェは突撃隊とヒトラーを前にヒトラーに完全な忠誠を誓う演説を行っている。
欧米各国のメディアは、一斉にヒトラーの行為を非難した。民主主義諸国では、ヒトラー一派が非合法的な手段で政敵を排除したことが、政権の不安定さを示す兆候であり、ナチス政権は崩壊間近だとする論調が支配的だった。ファシズム体制のイタリアにおいてすら、ムッソリーニが「一連の行為は、乱暴で残忍なやり方であり、容認することはできない」と非難声明を出した。
非難一色の中、唯一ソ連のみが事件に対し肯定的な反応を示した。スターリンは、1934年7月、事件の直後にクレムリンで行われた政治局会議で事件に触れ、「政敵を排除したことにより、ヒトラーの権力と彼の体制は強固なものとなった」と、欧米各国とは正反対の分析を示した。スターリンがこの事件に強い関心を示した理由は、ヒトラーが国内で何の咎めも受けることなく公然と政敵を抹殺することができた、という点にあった。前述の政治局会議の席上、彼は次のように述べたといわれる。
スターリンは1920年代から反対勢力の排除を目論んでいたが、反撃にあうことを恐れて躊躇していた。事件は、彼に反対勢力を徹底的に根絶する決意を固めさせたといわれる。
政治局会議から5ヶ月足らず後の1934年12月1日には、スターリンの有力な後継者かつ潜在的なライバルと目されていたセルゲイ・キーロフが暗殺されている(暗殺にはスターリンの関与があったといわれる)。キーロフ暗殺を契機に、スターリンはソ連全土で大粛清を展開していくことになる。
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