長崎市長銃撃事件 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋長崎市長銃撃事件(ながさきしちょうじゅうげきじけん)は1990年1月18日、当時長崎市長であった本島等(当時67歳)が右翼団体幹部に銃撃され、全治1ヶ月の重傷を負った殺人未遂事件。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 関連商品
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本島市長が3期目の任期中であった1988年12月7日の市議会において、自身の体験などから「(昭和)天皇にも戦争責任はあると思う」と発言した。当時は昭和天皇の様態が悪化しており、日本国内ではこうした発言に対する自粛ムードが漂っており、この発言は大きくクローズアップされた。
この発言に対して支持基盤であった自由民主党から発言撤回を求められたが、良心を曲げることはできないとして拒否したため、自民党長崎県連は県連顧問から解任したうえ、多数の保守系組織が市長を非難した。そのうえ多くの右翼団体が街宣車で長崎市に押し寄せ、大々的に市長に対する批判を行った。最大62団体80台の街宣車と260名の構成員が市長の「天誅」を叫ぶ抗議活動を行った。そのうえ脅迫事件13件も発生し6名も逮捕された。また市長を支持する署名活動が行われ、激しい議論になっていた。このような右翼による活動は菊タブーと呼ばれるものであり、言論封殺とされるものであった。最終的に本島市長は右翼からの要求を拒否し、この発言を撤回しなかった。発言から1年が経過し、昭和天皇も崩御し右翼団体による抗議活動も終息したかのように見えたため、市長側から要請で警察による身辺警護を解除して間もなく事件が発生した。
1990年1月18日午後3時ごろ、長崎市役所玄関前で公用車に乗り込もうとした本島が、背後から近付いてきた右翼団体正氣塾幹部の田尻和美(当時40歳)に背後1メートルの至近距離から銃撃された。弾丸は左胸部に命中したが、肋骨に当たったため弾道が変わり心臓や大動脈などを外れ貫通したため、全治1ヶ月の重傷を負ったものの、一命をとりとめた。尚、被疑者は銃撃直後倒れている本島市長に「大丈夫か?」と声をかけている。
市長を銃撃した田尻は殺人未遂罪等で起訴された。被告人の弁護人は、銃撃は1発のみで左肩を撃っているから、殺意は無かったとして刑罰が殺人未遂よりも軽い傷害罪の成立を主張した。しかし動機からみて殺意があった事にまちがいないとして、1審も控訴審もこの主張を認めず、福岡高等裁判所が1991年9月7日の控訴を棄却し懲役12年が確定した。田尻は2000年に刑期満了で出所し、同右翼団体の創始者と養子縁組して若島和美となりNo.2の幹部となっている。2003年4月には長崎市長選に立候補したが落選。
なお正氣塾はその後も1991年3月1日に意見広告掲載拒否をめぐるトラブルから長崎新聞社と長崎地裁に対する銃撃事件などのテロ事件を起こしている。また2006年8月に発生した加藤紘一邸放火事件を正当化する趣旨の声明を発表している。このテロ行為賛美の姿勢であるが『自分らはテロ行為を否定できない。話し合いだけなら、市民団体になってしまう』という理論を主張している。現在でも団体のウェブサイトは、「過去の主な活動」とするコーナーにこれらのテロ行為を実績としている。
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