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長嶋茂雄 とは?

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長嶋 茂雄(ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県出身のプロ野球選手内野手)・プロ野球監督

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


長嶋茂雄はてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  プロ野球、読売巨人軍終身名誉監督。 アテネオリンピック野球日本代表監督。 通称「燃える男」、「ミスター」、「ミスタージャイアンツ」。 右投右打、ポジションは三塁手。背番号は3→90→33→3。 1936年2月20日生まれ。千葉県佐倉市出身、血液型B型。 佐倉一高から立教大学に進み、東京六大学リーグでは通算本塁打8本で当時の六大学記録を更新し連覇にも貢献。 その実績を引っ提げて1958年に読売ジャイアンツに入団。この年本塁打王・打点王の二冠に輝き、新人王を獲得した。 その後王貞治との通称「ONコンビ」で巨 ...

出典: 『はてなダイアリー』


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ウィキペディア(Wikipedia)記事


長嶋茂雄
基本情報
出身地 千葉県印旛郡臼井町
(現・佐倉市臼井)
生年月日 1936年2月20日(72歳)
身長
体重
176cm
76kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 三塁手
プロ入り 1957年
初出場 1958年4月5日
最終出場 1974年10月14日
経歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1988年
選出方法 競技者表彰
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

長嶋 茂雄(ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県出身のプロ野球選手内野手)・プロ野球監督

目次

来歴・人物

高校野球界では無名の高校出身であったが、練習試合で訪れた埼玉県熊谷市内の球場で、その素質をプロスカウトに見いだされてはいた。 1954年から1957年まで東京六大学野球立教大学の選手として活躍。

1958年1974年までプロ野球チームの読売ジャイアンツ(以下、巨人と記す)で三塁手としてプレイ。巨人の中心選手として活躍した。背番号3は巨人の永久欠番のひとつである。

現役引退後、1975年から1980年まで(背番号90)と、1993年から2001年まで(1993年〜1999年は背番号33、2000年・2001年は背番号3)に巨人軍の監督を務めた。2001年より、株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督に就任した。

2002年2004年アテネオリンピック野球日本代表チーム監督に就任したが、2004年に脳梗塞で倒れ指揮することを断念したため、その後は中畑清ヘッドコーチ(肩書きはそのまま変わらず)に指揮を託した。

愛称は「チョーさん」「ミスター」「シゲ」。マスコミでは「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」と呼ばれることもある。

1959年石原裕次郎(故人)が歌った長嶋の応援歌「男の友情背番号・3」が発売された。2000年には「ミレニアム・バージョン」として再発されている。

※1993年の2度目の監督就任以前までは、新聞やマスコミの常用漢字ではない、旧字体の「嶋」の字はあまり使われず、「長島」姓の表記が使われていたこともあった。

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略歴

年度別打撃成績

  • 太字はリーグ最高(試合数においては全試合出場)。
年度 チーム



























O
P
S
1958年 巨人 3 130 502 89 153 34 8 29 290 92 37 1 6 36 15 5 53 3 .305(2) .353 .578 .931
1959年 124 449 88 150 32 6 27 275 82 21 0 3 70 17 4 40 9 .334(1) .426 .612 1.038
1960年 126 452 71 151 22 12 16 245 64 31 0 2 70 32 0 28 8 .334(1) .422 .542 .964
1961年 130 448 84 158 32 9 28 292 86 14 1 5 88 35 1 34 14 .353(1) .456 .652 1.108
1962年 134 525 69 151 38 5 25 274 80 18 0 3 51 7 5 61 14 .288(5) .354 .522 .876
1963年 134 478 99 163 28 6 37 314 112 16 0 10 86 18 3 30 14 .341(1) .437 .657 1.094
1964年 133 459 81 144 19 6 31 268 90 13 0 6 96 15 5 34 8 .314(4) .433 .584 1.017
1965年 131 503 70 151 23 5 17 235 80 2 0 5 50 12 2 42 16 .300(5) .363 .467 .830
1966年 128 474 83 163 31 3 26 278 105 14 0 8 58 14 3 39 17 .344(1) .413 .586 .999
1967年 122 474 65 134 25 3 19 222 77 2 0 3 37 4 1 37 24 .283(12) .334 .468 .802
1968年 131 494 80 157 21 4 39 303 125 8 1 5 66 12 3 74 19 .318(2) .398 .613 1.011
1969年 126 502 71 156 23 2 32 279 115 1 0 4 38 1 2 58 5 .311(3) .359 .556 .915
1970年 127 476 56 128 22 2 22 220 105 1 0 9 40 1 0 52 15 .269(10) .320 .462 .782
1971年 130 485 84 155 21 2 34 282 86 4 0 1 59 8 2 45 20 .320(1) .395 .581 .976
1972年 125 448 64 119 17 0 27 217 92 3 0 8 63 11 1 34 23 .266(21) .352 .484 .836
1973年 127 483 60 130 14 0 20 204 76 3 1 8 37 3 1 35 20 .269(13) .318 .422 .740
1974年 128 442 56 108 16 1 15 171 55 2 1 4 24 0 5 33 18 .244(24) .288 .387 .675
通算成績 2186 8094 1270 2471 418 74 444 4369 1522 190 5 90 969 205 43 729 257 .305 .379 .540 .919
23位 11位 10位 7位 6位 8位 12位 6位 7位 - - 5位 14位 3位 - - 4位 14位 - 11位 -

オールスター通算打撃成績

























43 150 21 47 10 0 7 78 21 8 3 0 1 17 0 0 13 6 .313

日本シリーズ通算打撃成績

























68 265 49 91 14 2 25 184 66 3 6 0 3 27 1 1 21 5 .343

年度別守備成績

位置 1958 1959 1960
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
130 129 385 25 31 .954 123 103 370 15 25 .969 123 92 362 19 30 .960
10 14 24 2 4 .950
位置 1961 1962 1963
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
129 125 369 16 30 .969 134 120 341 15 29 .968 132 114 374 13 33 .974
8 12 17 1 4 .967
1 0 0 0 0
位置 1964 1965 1966
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
133 118 385 16 30 .969 131 117 317 14 24 .969 127 109 314 14 20 .968
位置 1967 1968 1969
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
121 88 274 13 29 .965 131 111 285 19 31 .954 126 109 305 12 22 .972
位置 1970 1971 1972
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
127 88 256 19 8 .948 129 79 262 14 21 .961 124 103 237 10 28 .971
位置 1973 1974 通算成績
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
127 96 279 12 25 .969 125 66 210 15 18 .948 2172 1767 5325 261 434 .965
18 26 41 3 8 .957
1 0 0 0 0

タイトル・表彰・記録

タイトル

  • 新人王(1958年)
  • MVP:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)
  • 首位打者:6回(1959年 - 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回はセ・リーグ記録。3年連続はセ・リーグタイ記録。
  • 本塁打王:2回(1958年、1961年)
  • 打点王:5回(1958年、1963年、1968年 - 1970年)
  • ベストナイン:17回(1958年 - 1974年)※入団年から引退年まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。
  • ゴールデングラブ賞:2回(1972年、1973年)

表彰

  • 日本シリーズMVP:4回(1963年、1965年、1969年、1970年)※史上最多。
  • 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1966年、1972年)
  • 日本シリーズ打撃賞:2回(1969年、1970年)

記録

レギュラーシーズン

  • 最多安打:10回(1958年 - 1963年、1966年、1968年、1969年、1971年)※6年連続と通算10回記録は、それぞれ日本記録。当時は表彰なし。
  • シーズン打率3割以上:11回(1958年 - 1961年、1963年 - 1966年、1968年、1969年、1971年)※歴代5位タイ。
  • シーズン150安打以上:11回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1971年)※日本記録。
  • 打撃ベストテン入り:13回(1958年 - 1966年、1968年 - 1971年)※歴代4位。
  • シーズン二塁打数リーグ1位:3回(1958年、1961年、1962年)※セ・リーグ記録。
  • 6年連続シーズン150安打以上(1958年 - 1963年)※セ・リーグタイ記録。
  • 17年連続シーズン100安打以上(1958年 - 1974年)※歴代4位タイ。入団1年目からの記録としては、セ・リーグ記録。
  • 2年連続シーズン30敬遠以上(1960年 - 1961年)※日本タイ記録。
  • 6試合連続敬遠:2回(1958年9月7日 - 9月15日、1961年8月16日 - 8月22日)※日本記録。
  • 4試合連続三塁打(1960年5月8日 - 5月14日)※日本記録。
  • シーズン214守備機会連続無失策(1969年7月17日 - 10月9日)※三塁手としての日本記録。
  • 5年連続開幕戦本塁打(1970年 - 1974年)※日本記録。
  • 通算開幕戦本塁打:10本(1959年、1960年、1963年2本、1968年、1970年 - 1974年) ※日本記録。
  • 通算サヨナラ本塁打:7本(1959年、1961年、1962年、1963年、1966年、1973年)※歴代6位タイ。
  • 通算猛打賞:186回 ※セ・リーグ記録。

日本シリーズ

  • 通算試合出場:68(1958年、1959年、1961年、1963年、1965年 - 1972年)※歴代5位。
  • 通算打率:.343 ※160打数以上では、歴代1位。
  • 通算打数:265 ※歴代最多。
  • 通算得点:49 ※歴代2位。
  • 通算安打:91 ※歴代最多。
  • 通算二塁打:14 ※歴代最多。
  • 通算三塁打:2 ※歴代5位タイ。
  • 通算本塁打:25 ※歴代2位。
  • 通算塁打:184 ※歴代最多。
  • 通算長打:41 ※歴代最多。
  • 通算打点:66 ※歴代最多。
  • 通算四球:27 ※歴代5位。
  • シリーズ打率4割以上:4回(1966年、1968年 - 1970年)※シリーズ記録。
  • シリーズ4本塁打(1969年、1970年)※シリーズタイ記録。1970年は5試合シリーズ記録。2回記録したのは長嶋と城島健司(2000年、2003年)のみ。
  • 連続打席本塁打:3(1970年)※シリーズ記録。

オールスターゲーム

  • 出場回数16回(1958年 - 1963年、1965年 - 1974年)※1964年にもファン投票で選出されているが、負傷により出場を辞退。
  • 通算打率:.313 ※150打数以上では、歴代1位。

総合

  • 公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上 ※史上唯一。

監督としてのチーム成績

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1975年 巨人 90 6位 130 47 76 7 .382 27 117 .236 3.53 39歳
1976年 1位 130 76 45 9 .628 - 167 .280 3.58 40歳
1977年 1位 130 80 46 4 .635 - 181 .280 3.48 41歳
1978年 2位 130 65 49 16 .570 3 136 .270 3.61 42歳
1979年 5位 130 58 62 10 .483 10.5 154 .259 3.85 43歳
1980年 3位 130 61 60 9 .504 14 153 .243 2.95 44歳
1993年 33 3位 131 64 66 1 .492 16 105 .238 3.22 57歳
1994年 1位 130 70 60 0 .538 - 122 .258 3.41 58歳
1995年 3位 131 72 58 1 .554 10 139 .252 3.40 59歳
1996年 1位 130 77 53 0 .592 - 147 .253 3.47 60歳
1997年 4位 135 63 72 0 .467 20 150 .251 3.69 61歳
1998年 3位 135 73 62 0 .541 6 148 .267 3.74 62歳
1999年 2位 135 75 60 0 .556 6 182 .265 3.84 63歳
2000年 3 1位 135 78 57 0 .578 - 203 .263 3.34 64歳
2001年 2位 140 75 63 2 .543 3 196 .271 4.45 65歳
※1 太字は日本一
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制
※4 2001年から2004年までは140試合制

監督通算成績

  • 1982試合 1034勝889敗59分 勝率.538
  • Aクラス12回 Bクラス3回
  • 日本一2回 リーグ優勝3回 最下位1回

プロ入り以前

東京六大学野球での活躍

幼少時代、藤村富美男のプレーを見て野球を志す。当時は阪神ファンだったと言う。千葉県立佐倉第一高校(現:佐倉高校)から立教大学に進む。野球部では砂押邦信監督の下、猛練習を重ね、正三塁手となる。同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、同じく主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)とともに「立教三羽烏」と呼ばれた。

長嶋は東京六大学野球において1956年春季・1957年秋季には首位打者を獲得。また1955年秋季から1957年秋季まで5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれている。1957年、六大学リーグの通算記録となる8本塁打を放つ。プロ入りが確実視されており、特に大学の先輩大沢昌芳の所属する南海ホークス鶴岡一人監督は、大沢を通じて熱心に長嶋と杉浦に多額の栄養費を渡すなどして勧誘していた。同じ頃広島カープも長嶋を広島観光に誘うなど獲得を希望するものの、プロ入り時は長嶋、杉浦とも南海でほぼ決定していた。特にプロ入りに熱心でなかった杉浦を南海に誘ったのは、長嶋であった。しかし長嶋は直前で一転、巨人入団を決め、11月20日契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」、契約金は当時最高額の1800万円であった。長嶋は当初、杉浦と共に南海に入ることを希望していたが、巨人や周りのマスコミが当時大学野球のスターだった長嶋は、巨人に入るものだと決め付け長嶋自身に圧力をかけたため、長嶋は巨人に行かざる得なかったと言われている。 長嶋は、立教大学の合宿所の食堂で、杉浦に南海行きを断ることを告白した。しかし杉浦はそのまま南海に入団。また、長嶋は鶴岡にオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪している。 このとき鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。

プロ入り以後

新人時代

長嶋は、東京六大学リーグでの活躍もあり、「ゴールデンボーイ」あるいは「ハリケーン」とあだ名され、入団時から活躍が大いに期待されていた。1958年4月5日、開幕戦である対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場して公式戦デビューを果たすが、国鉄のエース金田正一投手に4打席連続三振を喫した。しかし、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。

しかしその2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日大洋戦で権藤正利から初本塁打を奪うと、本来の力を出し始め、シーズン途中から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

この年の9月19日に行なわれた対・広島戦(後楽園)で新人新記録(当時)となる28号本塁打を放ったが、一塁を踏み忘れて、本塁打を取り消されている(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた。なお、長嶋は翌9月20日の阪神戦で28号を打ち直し、新人新記録を達成した(現在の新人記録は1959年桑田武1986年清原和博の31本塁打)。

最終打撃成績は、本塁打29本、打点92を記録し二冠王。打率は、大阪タイガース田宮謙次郎と首位打者争いをするが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的には2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

天覧試合

1959年6月25日後楽園球場で行われた対阪神戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合天皇が観戦した試合、当時は昭和天皇)であった。長嶋は4対4で迎えた9回裏、阪神の2番手村山実投手からサヨナラホームランを放った。村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、この試合では新人王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。

ON砲

1962年、王貞治が本塁打王、打点王のタイトルを獲得して以後、長嶋は王とともに巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これは米メジャーリーグニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王・4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番・王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇したが、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。

長嶋の守備

プロ選手としての長嶋は、その打撃力のみならず三塁手としての守備も注目された。長嶋はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していた。そのため、長嶋とコンビを組む遊撃手(初期には広岡達朗、のちに黒江透修)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていた。しかし長嶋は、時に通常の守備範囲を超え、本来であるならば遊撃手が捕るべき打球にまで反応し、猛烈なダッシュとともに捕球を試みる場合も多かった。

イージーゴロにさえ鋭いダッシュをみせる長嶋の守備は、プロ経験者からは「簡単なゴロを難しく見せる」と評された。一方、フライ飛球などは「見せ場がない」と、遊撃手に任せるということもしばしばあった。それゆえ、当時から守備の堅実さでは三宅秀史(同時代のタイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンや解説者も少なからずいた。しかし、長嶋の派手なアクションをまじえた守備は、トンネルなどの単純なエラーですら、多くの観客に喜ばれた。

不振と引退

1971年に6度目の首位打者を獲得して以後、衰えが見えてきた。打席数を増やすことで不振を克服しようと考えた川上監督は、長嶋の打順を1番にするなどの対策をとったが、結果的に同年が最後の打率3割のシーズンとなった。また、14年務めた川上の後継者としての期待もあり、コーチを兼任するなど、現役引退後の進路も定まった。

1974年10月12日中日ドラゴンズの優勝が決まり、巨人の10連覇が消えると、長嶋は現役引退を表明した。翌々日の10月14日、後楽園球場で行われた優勝したドラゴンズとのダブルヘッダーの第1試合で、長嶋はホームランを放つ。これが現役最後のホームラン(通算444号)である。また、大卒での通算2471安打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われている。 第2試合の最終打席はショートゴロ(ダブルプレー)であった。引退セレモニーでは「わが巨人軍は永久に不滅です」という、あまりにも有名な言葉を残した(しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用されることもある)。

第1期監督時代

クリーン・ベースボール

1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上流の緻密な用兵と作戦重視のスタイルではなく、投・打の力量差がそのまま勝敗につながることを理想としていることを端的にあらわした言葉である。「哲のカーテン」と揶揄された川上監督時代とは対照的に、マスコミとのスキンシップを重要視した。それゆえ、川上監督時代のスタッフはほぼ一掃された。新生長嶋巨人軍の選手達には「シンデレラ・ボーイ」と名付けた。又、球団初の非日系の外国人選手であるデーブ・ジョンソン内野手を獲得し、自らの後継三塁手とした。長嶋は自らの背番号を「90」に変更し、現役時代の「3」は永久欠番となった。この「90」は当時小学生の息子・一茂のアイディアといわれている。「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。これに0を付け加えて90番にしたら?」という言葉がきっかけになった。しかし、迎えた1975年のシーズンは長嶋の構想が裏目に出て、球団創設以来初の最下位に終わった。そのため、オフには日本ハムファイターズから高橋一三投手・富田勝内野手との交換で「安打製造機」と呼ばれた張本勲を獲得。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。その結果、翌1976年、1977年と優勝を果たすが、日本シリーズではともに阪急に敗れた。同年、ヤクルトから倉田誠投手との交換で浅野啓司投手を獲得した。

江川事件

1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とするなど、さらなる強化策を図った。しかし1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、いったんは首位に立つものの力尽き、結局、広岡監督率いるヤクルトにペナントを奪われた。長嶋が巨人に入団した当時の監督であった水原茂は、ヤクルトの優勝が確定的となった10月1日、テレビ朝日のニュース番組「こちらデスク」の放送中、「長嶋は野球を知らないのではないか」と、長嶋の監督としての手腕を批判した。巨人OBによる長嶋の采配に対する批判が、公の場でなされたのはこれが初めてであった。江川卓の入団をめぐって騒動(江川事件)がおきたのはこのシーズンのオフのことである。

エース小林繁を江川の代わりに阪神へトレードに出した1979年は5位に終わり、長嶋は若手を率いて静岡県伊東市で秋季キャンプを行なった。このキャンプでは中畑清篠塚利夫定岡正二らが成長株として、このシーズン限りで引退した土井正三や、衰えが見えてきたV9時代の主力選手の後継者として期待された。また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイト外野手を獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であるOB青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。

長嶋解任劇

この頃(1980年前後)になると長嶋の采配が「カンピューター野球」(論理的に説明することができない、長嶋独自の勘・ひらめきによる野球)と揶揄されることも常となり、また、OBによる批判も数多く出るようになった。前監督である川上が、週刊文春の座談会で長嶋の後継監督について語ったことは、長嶋批判の象徴的な出来事であったと言えよう。また、王の衰えも明らかであり、チームの成績は芳しくなかった。長嶋の指揮する巨人の低迷を憂慮した務臺光雄読売新聞社幹部は、1980年のシーズン終了前には長嶋の監督解任を決断した。10月21日に行われた記者会見で長嶋は「男のけじめ」と、みずから不振の責任を取り辞任することを表明したが、自身が「辞任」を知らされたのは、会見の直前のことであったという。解任が発表されると、一連の読売新聞社および巨人の措置に激怒した一部のファンによる、読売新聞・スポーツ報知の不買運動が起きた。

第2期監督時代

監督復帰以前

長嶋以後、藤田元司1981年1983年1989年1992年)、王(1984年1988年)が監督に就任し、リーグ優勝5度、日本一も2度達成するが、プロ野球全体、そして巨人の人気は低下していった。V9時代の巨人にはじまり、そのOBである広岡や森祇晶などにより確立されたシステマティックな野球は管理野球(長嶋の前任者だった川上監督時代の流れを汲む野球)と評され、かつての長嶋のように個人技が際立つということがみられなくなったことによる人気の低下と考えられよう[1]

そのような状況の下、長嶋の現場復帰待望論があらわれた。長嶋待望論は、1980年以降何度となく沸き起こった。たとえば1981年オフ、土井淳監督辞任後の大洋監督就任説(関根潤三が就任)、1984年オフに立教の先輩である大沢の後任として日本ハム監督就任が噂され(高田が就任)、1985年オフに広岡の後任として西武監督就任が観測されたり(森が就任)、1986年オフ、土橋正幸監督辞任後のヤクルト監督就任が噂されたり(関根が就任)、1989年の関根監督辞任後のヤクルト監督候補にも祭り上げられたり(野村克也が就任)、1990年上田利治監督辞任後のオリックス監督就任説(土井正三が就任)がささやかれた。しかし、長嶋本人はそれらの噂に対しすべて否定するか、あるいはノー・コメントを貫いている。

復帰・日本一

Jリーグの創設を翌年に控えた1992年には、巨人は2位でシーズンを終了、2年連続で優勝を逃したこともあり、国民的スポーツとしての野球を再活性化するためのキャラクターとして長嶋の復帰が求められた。読売グループ内の事情を考えても、長嶋の復帰を阻む最大の障害であると考えられていた務臺光雄が1991年に死去し、現役時代から親交のある渡邊恒雄が読売新聞社社長に就任したことが、長嶋の監督再就任を容易にした。ふたたび現場に復帰することとなった長嶋の新しい背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)となり、同年のドラフト会議において当時、星稜高等学校松井秀喜(現:ニューヨーク・ヤンキース)を引き当てた。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」を球団のキャッチフレーズとしていた。又、現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させるなど、チーム再建を期待されたが、1993年は3位に終わった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。翌1994年には中日と同率で最終戦(対中日戦)を迎え、リーグ優勝を果たす。なお戦前、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメント。後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。 さらには、西武ライオンズを下して長嶋監督の指揮では初めて日本一となった。その後も1996年には最大11.5ゲーム差をつけられた広島から首位を奪いリーグ優勝。前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる。1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用するが何れもV逸に終わっている。

監督晩年

この間長嶋は監督にとどまり続けるが、シーズンオフになるたびに後継監督候補として、堀内恒夫や森、江川などのOBの名が取りざたされた。しかし、長嶋本人が解任されることはなく、それに代わるように、コーチ陣の入れ替えがなされたのは、成績不振の責任を取らせるとはいえ、処理を誤れば、1980年のように不買運動が起こることを読売本社は恐れたからであると観る向きもあった。

2000年には、FAで獲得した江藤智内野手に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」を25年ぶりにつけた。当初、この背番号「3」を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号「3」の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。この年、長嶋率いる巨人は前述のとおり2度目の日本シリーズ制覇を達成した。翌2001年はヤクルトとの優勝争いをするも力尽き、この年をもって監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退および原辰徳ヘッドコーチを後任の監督とする発表がなされた記者会見で、吉田填一郎アナウンサー(当時日本テレビ)の「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。

オリンピック日本代表監督と闘病生活

2002年アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。2003年11月に行われたアジア選手権で中国台湾