長州力 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋長州 力(ちょうしゅう りき、本名:吉田光雄(よしだ みつお 韓国名・郭 光雄(クァク・クァンウン、곽광웅))、1951年12月3日 - )は、山口県徳山市(現:周南市)出身のプロレスラー。血液型O型。在日韓国人2世である。ニックネームは「革命戦士」。最終学歴は専修大学卒業。海外遠征時のリングネームはリッキー・チョーシュー。入場曲は平沢進作曲のオリジナルテーマ曲「パワーホール」。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 長州力 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| 長州 力 | |
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| プロフィール | |
| リングネーム | 長州 力 |
| 本名 | 郭 光雄 (通名:吉田 光雄) |
| ニックネーム | 革命戦士 |
| 身長 | 184cm |
| 体重 | 120kg |
| 誕生日 | 1951年12月3日(57歳) |
| 出身地 | 山口県徳山市 |
| 所属 | リキプロ |
| スポーツ歴 | レスリング |
| トレーナー | アントニオ猪木 |
| デビュー | 1974年8月8日 |
長州 力(ちょうしゅう りき、本名:吉田光雄(よしだ みつお 韓国名・郭 光雄(クァク・クァンウン、곽광웅))、1951年12月3日 - )は、山口県徳山市(現:周南市)出身のプロレスラー。血液型O型。在日韓国人2世である。ニックネームは「革命戦士」。最終学歴は専修大学卒業。海外遠征時のリングネームはリッキー・チョーシュー。入場曲は平沢進作曲のオリジナルテーマ曲「パワーホール」。
目次 |
小学生の頃から柔道を習い、高校(山口県桜ヶ丘高校)からレスリングに転向。ミュンヘンオリンピックには韓国代表として出場。
同じオリンピック代表選手であったジャンボ鶴田をライバル視しており、スカウトにより大学卒業と同時に新日本プロレスに入門。デビューは1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦。サソリ固めで勝利を飾る。デビュー時のリングネームは吉田光雄であったが、後に故郷の旧名である長州と力道山から長州力と、ファン公募によって改名。因みに出身地の徳山市は旧周防国(すおう)であるが、長門国(ながと)と合わせた2国を治めていたのが毛利家の長州藩であった。
テレビでの登場機会も多くタイトルマッチも多かった。チャンスを多くもらったのだが、長髪全盛の時代に角刈りでおなかも出ており、技も華やかさに欠け無骨なファイトだった長州はさっぱり人気が出ず、精悍で女性受けする藤波辰巳、木村健悟の後塵を拝す。ストロング小林を抜いてヘビー級3番手に浮上し、坂口征二と共にNWA北米タッグ王座を保持していたが単なる脇役という印象は拭い去れずにいた。同タイトルもアントニオ猪木の提唱するIWGP構想により(IWGP発表当初はタッグに関する構想はなかったにもかかわらず)返上となる。
ワールドプロレスリングの視聴率が20%を超えるという「新日ブーム」で沸く1982年に入ると、藤波辰巳との「名勝負数え歌」で一躍ブレイク。『革命戦士』のニックネームとともに時代の寵児となり、また素早いロープワークを駆使し、短時間で勝負を付けるプロレス・スタイル「ハイスパート・レスリング」はのちにプロレス界の主流となっていった。
ブレイクの発端となったのは「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない!」という発言だが、実際には長州が実際に発した言葉は「なんでオレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ! なんで(メキシコで当時実力№1のエル・カネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取し凱旋してきた)オレがオマエの前に(試合前での)コールされなきゃいけないんだ!」であった。これを「噛ませ犬」と変えたのは当時の新日本プロレス実況を行っていた古舘伊知郎アナである。
その後、当時の体制に反旗を翻して、師と仰ぐマサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成。さらにラッシャー木村率いる国際軍団を振り切る形で長州と活動を共にするアニマル浜口[1]、浜口と同じく国際軍団の寺西勇、タイガーマスクとの抗争で同じく新日軍を敵に回していた小林邦昭、そしてレスリング日本一の触れ込みで新日入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成する。また、アメリカで活躍するタイガー戸口(キム・ドク)も時折、維新軍に帯同した。[2]
長州は長髪にし日焼けしてイメージチェンジ。1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを真似た「リキ・ラリアット」を頻繁に使うようになる。新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を巡って藤波と「名勝負数え唄」といわれる連戦を展開、1983年4月3日には藤波をピン・フォールで破り王座奪取。「俺の人生にも一度くらいこんなことがあってもいいだろう」という名言を残す。
その後ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍団に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移すという、新日本に対し最初の造反を行う。UWFに続き、長州および維新軍団にも去られた新日本は選手が不足し、窮余の策として若手を登用、これが後の闘魂三銃士の隆盛に繋がる。
全日本マットにハイスパート・レスリングを持ち込むものの、当初はジャイアント馬場からシャム猫のケンカと揶揄された。だが、結果的にはそれまでショー的要素の強いアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こす事となった。また全日本所属の天龍源一郎は長州にライバル意識をムキ出しにしたことで注目され、エースのジャンボ鶴田とも大阪城ホールでのメーンエベントにて60分フルタイムの激闘を展開した。その他にも馬場をはじめブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、ドリー・ファンク・ジュニア、リック・フレアーらの世界的な名選手との対戦が行われ、長州にとっても大きな経験となった。1985年秋から全日本プロレス中継がゴールデンタイムに復帰するのも長州らの参戦による盛り上がりが大きく貢献している[3]
1986年2月5日に谷津嘉章とのチームで鶴田、天龍の鶴龍コンビを破ってインターナショナル・タッグ王座を奪取。(この時は谷津がジャーマンスープレックスで天龍からフォール勝ち)さらに、二ヵ月後の4月5日にはハンセンを破ってPWFヘビー級王座を奪取。この王座は全日本創設以来の看板タイトルで、この時点で鶴田も天龍も奪取していなかった。しかし全日本のタイトルに興味がない長州はベルトを無造作に手に持ったり肩に掛けたりして、マスコミへの撮影以外で腰に巻くことはほとんどなかった。
その後、テリー・ゴディ、テリー・ファンク、カート・ヘニングらを相手に防衛に成功。1987年2月から病気(ガングリオン)で全日本のシリーズを欠場し、そのまま新日本に復帰。契約問題で馬場および日本テレビと揉め大騒動に発展した(該当項目参照)。これによりジャパンプロレスは崩壊。また、長州のスタイルに強い影響を受けた天龍は、長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築いた。
以後、1987年に新日本に出戻りし、ジャパンプロレス時代に1986年8月全日マットで謀反を起こしたカーン、そして当時引退状態にあったアニマル浜口、全日本にそのまま残った谷津嘉章、寺西勇らを除き、マサ斎藤、小林邦昭、カルガリー・ハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、 またマシンとともに常に行動を共にしていたヒロ斉藤、更に専修大学の後輩でジャパンプロ出身の馳浩、そしてジャパンプロ生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。正式な軍団名は無かったが全員リキプロに所属し、テレビやマスコミからは“長州軍”“ニュー維新軍”などと呼ばれていた。その軍団の当時のトレーニングジャージ(チャンピオンプロダクツ製)には背番号が入っていた(ちなみにマサ斎藤:0、長州:1、マシン:2、小林:3、(欠):4、ヒロ斉藤:5、保永昇男:6、佐々木:7、馳:8)。現在でもマシーンはこのジャージを着用してリングインするときがある。
長州は1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、新日本マットの中心となる。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、UWFインターナショナルとの抗争を主導し、新日本プロレスに莫大な利益をもたらす。しかし、その後は愛弟子の佐々木健介や他団体の天龍源一郎を重用する等の私情優先とも取れる経営も見られた他、サイパン合宿に代表される不明朗な経費処理[要出典]もあり、西村修などの一部新日選手に長州を嫌う傾向が出始める。
1998年1月4日の東京ドーム大会で引退。引退後、長州力のリングネームは愛弟子の佐々木健介が襲名するという話が持ち上がるも実現せず[4]、大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月に現役復帰した。
2002年2月武藤敬司派が新日を退団した責任を取らされ現場監督の任を剥奪。2002年5月痛烈な猪木、藤波批判を行った上新日本プロレスを退社。盟友・永島勝司と共に有力タニマチであった福田政二を代表取締役として2003年3月WJプロレス(ファイティングオブワールドジャパン)を旗揚げしたものの、多数の「諸般の事情」により頓挫、総合格闘技イベントX-1やZERO-ONEとの対抗戦に活路を見出そうとするも崩壊に至った(該当項目参照)。
なお、WJ設立時のオープニングシリーズでは全6戦全てのメインに長州対天龍のシングルマッチを組んだ。
ハッスルやインディー団体へ参戦を続け、2004年新日本に一時復帰。2005年10月8日、サイモン・ケリー猪木(当時新日本社長)との会談で、リキプロに所属しつつ新日本プロレスの現場監督として復帰(ただし、新日本所属ではなく、あくまでリキプロ所属である)。このサイモンの独断により新日所属レスラーの意見は真っ二つに別れた。特に藤波は発表当初は歓迎をしていたものの、なぜかドーム興行終了後に態度を180度転換している。実際、現場監督に復帰後も現場責任者の平田淳嗣、副責任者の後藤達俊(のちに新日本を退団)を独断で解任したり、前日組まれていたカードを当日になって変更するなど一部の選手とは更なる軋轢を生んでいる。
佐々木健介、北斗晶夫妻はWJ時代に慢性的な経営難を打破すべく、自ら私財を放出したものの、長州側がその時の借金を「会社に貸した金だよな。オレ、返さないから」と告げたまま一銭も返却していないとされる[5]。その後、WRESTLE-1 GP1回戦(健介勝利)での長州の無気力ファイトから断絶が決定的となった。
現在は新日本の現場監督と、元WJ所属の若手選手によるプロダクションリキプロで、選手会興行を単発で行っている。
「力」という名前に相応しく、鍛えぬかれた肉体を駆使した力技・肉弾技が多い。また試合中に使う技の種類はレスラーの中でも比較的少ない方である。
入場曲「パワー・ホール」は、作曲者の平沢進がプロレスに全く興味が無く、長州力という人物についても全く知らなかった為、依頼を受けて「頭の中のプロレス会場のイメージだけで適当に作った」とされる[要出典]。この曲は同じフレーズが延々と繰り返される当時としては珍しいテクノ調の入場曲であった。なお作曲者クレジットは『異母犯抄』(異母犯妙の誤植、いぼはんみょう)という変名が用いられている。[7]ついでながら、『いぼはんみょう』とは平沢氏の好きな昆虫 ハンミョウ にいぼいぼがついたような姿をイメージしてつけたとのこと。
長州といえば長髪が特徴であったが、過去に3度短髪にしている(1993年7月~アキレス腱断裂・入院、復帰の際。1995年6月~越中とのタッグマッチに敗れ、リング上で自ら長髪を切る。1998年1月~引退後。)。1997年にも何度か髪を切っているが、目立った部分は前述の通りである。現在も長髪は維持しているが、全盛期程の長さはなく襟足が肩に乗る程度である。また近年はかなりの茶髪になっており、髪質もストレートからパーマになっている。
マスコミ嫌いでも有名であり、かつては金澤克彦の様な御用マスコミ以外の取材を拒否する姿勢であったが、WJ崩壊の際に逆にマスコミから無視された事もあって、この点は多少改善しているとも言われる[要出典]。
試合前の時間にレスラーおよび関係者以外が控え室に入る事も極端に嫌う。ある時、興行関係者の親族の子供がサインを貰いに控え室に入った際も追い返そうとしたが、そばにいた木村健悟に、「オイ、サインぐらいしてやれよ」と言われ、しぶしぶサインに応じたことがある。維新軍団全盛期には、控え室の窓から中を覗こうとしたファンに怒り、スリッパで窓ガラスを叩き割り、「うるさい!」と叫んでいる記事が週刊プロレスに掲載された。しかしそんな彼も例外的にファンにサインをした事があった。1988年9月、津山市総合体育館での試 合の時に地元に住む長州のファンが訪れた事があった。彼は先天性の不治の病と闘っていて車椅子に乗って花束を持って来場した。しかも彼は長くてあと1年しか生きられないと言う事だった。控室で彼は長州に花束を渡し、普段はファンに無愛想な長州も笑顔で「ありがとう、頑張れよ」と声をかけ、更に握手とサインもしていた[要出典]。
1980年代の「かませ犬」発言以降の長州の人気は凄まじく、TBSでは長州を扱った1時間の特集番組(1984年12月)が組まれるほどであった(その番組内で、当時専修大学のレスリング部部長であった松浪健四郎(元衆議院議員)がコメントをした)。また、1983年に鈴木雅之の紹介で「笑っていいとも!!」のテレフォンショッキングにも出演し、次の友達に関根勤を紹介した。
人気が最高潮である1985年12月には、さだまさしのセイヤング」(文化放送)にゲスト出演。最後にさだ側から腕相撲をやりたいと要望があり、さだは両手で挑んだが当然負けた。2006年に「ズバリ言うわよ!」の新春スペシャルにゲスト出演した際には「子供達の会話に入っていけない」等3人の娘を持つ父親としての悩みを打ち明け、細木数子と他の出演者からどう接すれば良いか助言を貰っていた。なお、この放送の時、有田哲平は長州の出演で興奮気味で、本人の前で物真似も披露した(この番組で朝青龍とも共演)。
以前、岩手県内の某パチンコ店のコマーシャルに出演していたこともある。内容は長州の練習姿を数種類映した後、山盛りのパチンコ玉の前で箸を持った長州が「こんなん食えねーよ!」と吠える、という内容。他のCM出演として日本ヴェルテック(関西地区のみ)、雪印ローリーエース等の出演がある。
「さんまのまんま」に出演した際には、「自分はタイトルをとってもなかなか防衛することが出来なかった」と話した折に明石家さんまから「あんた、弱いんだ?」とあっさり言われて苦笑した(事実、王者としては、シングル・タッグともに短命に終わることが多かった)。また「話が舌足らずで聴きづらい」というさんまに対し「自分ではそう思ってないが、人にはよく言われる」と答えている。
冗談の通じない性格なのでテレビの露出は極めて少なくバラエティ番組等はもっての他だったが、「草野☆キッド」で小力と共演した頃から、バラエティへの出演が増えていった。「ふんころがしの旅」(日本テレビ)では長州小力との旅行も実現している。近年、長州小力の物真似により、若い世代や、全くプロレスに興味のない人にもその名を知られることになった。最近では試合中に「長州小力に動きが似てる」という理由で笑いを取る事もある。その一方で、2007年4月10日の「踊る!さんま御殿!!」で大沢あかねは、当初、長州小力を知りながら長州力を知らず、本物の長州力を見て相手を小力と勘違いして挨拶し、あとで人から指摘され、初めて長州小力が長州力の真似をしているのだと知ったと告白していた。
1987年にリコーエレメックスが発売したファミコン用ゲーム「新人類」にタイアップ企画で出演。ゲーム中に主人公が最強状態にパワーアップすると長州力に変身してリキラリアットで敵を攻撃するというものだった。また広告やTVCMにも直接本人が出演していた。
2006年1月の最後(と当時謳っていた)の東京ドーム大会でのマッチメークを「新日本対インディー」と呼んだことで他団体レスラー(特にビッグマウス・ラウド)から批判を受けた。因みにWJプロレス時期におけるインディー団体選手との絡みにより、現在ではかつてのようなインディー敵視は薄まっている。