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阪神タイガース とは?

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阪神タイガース(はんしんタイガース、HANSHIN Tigers)は、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。運営法人は阪急阪神東宝グループの系列下である阪神電気鉄道兵庫県保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場専用球場(本拠地)としている。二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地は、同市にある阪神鳴尾浜球場

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』


阪神タイガースはてなダイアリーを別ウィンドウで表示  :  プロ野球チーム。一軍はセ・リーグに所属。 親会社は阪急阪神ホールディングス(阪神電気鉄道)。 概要 法人名 株式会社阪神タイガース フランチャイズ 兵庫県西宮市*1 ホームスタジアム 阪神甲子園球場 チームカラー 黄色と黒 チームマスコット トラッキー&ラッキー 球団歌 「阪神タイガースの歌」(通称「六甲颪」)。 沿革 1961年、大阪タイガースから阪神タイガースに名称変更。 1962年、二リーグ制度下で初のリーグ優勝。 1964年、2度目のセ・リーグ優勝を果たすも、日本一には届かなかった ...

出典: 『はてなダイアリー』


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おすすめ度5.0(全レビューの平均)残り試合数4試合。実に140試合目までもつれにもつれた今シーズン。 結果こそ巨人がリーグ優勝を果たしたわけですが…。 2008年は岡田ismの集大成と言えるシーズンだったのではと思います。 金本を軸にその想いを強く受け継ぐ赤星、鳥谷。つなぎに徹する平野。 今シーズンから新たに加わった新井。育成選手ながらの大活躍、バルディリス。 クライマックスシリーズ最後の最後は藤川で打たれてシーズン終了。 ドラマティック以外何物でもない2008年。 ゴールデングラブ賞に赤星、新井が選ばれ、ベストナインに金本と鳥谷が選ばれ…。 生え抜きとFA選手がともに今後の阪神タイガースを支えていく…そんな予感がする、そんなシーズンでした。 来期はおそらく投手陣の補強で横浜から三浦が来るでしょう。 打って守って勝って優勝!…そんな2009年開幕までにぜひとも復習したい1本です。  (わか さんのレビュー)

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ウィキペディア(Wikipedia)記事


阪神タイガース(はんしんタイガース、HANSHIN Tigers)は、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。運営法人は阪急阪神東宝グループの系列下である阪神電気鉄道兵庫県保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場専用球場(本拠地)としている。二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地は、同市にある阪神鳴尾浜球場

2005年 - 2007年度ペナントレースでの観客動員実数は12球団中で唯一300万人を超える。チームスローガンは「Be the Best For the Fans」(最高をめざせ!そしてファンのために!)で、2006年から使用されている。

阪神タイガース
チーム名 阪神タイガース
会社名 株式会社阪神タイガース
加盟団体 セントラル・リーグ(一軍)、ウエスタン・リーグ(二軍)
創設年度 1935年(一軍)、1950年(二軍)
チーム名の遍歴 (一軍)
大阪タイガース(1935年 - 1940年途中)
→阪神軍(1940年途中 - 1944年
→大阪タイガース(1946年 - 1960年
阪神タイガース1961年 - )
(二軍)
大阪タイガース(1950年 - 1953年
→阪神ジャガース(1954年 - 1956年
阪神タイガース1957年 - )
フランチャイズ
の遍歴
兵庫県1952年 - 2004年)→兵庫県・大阪府2005年 - 2007年)→兵庫県(2008年 - )
本拠地 阪神甲子園球場(本拠地)
阪神鳴尾浜球場(2軍本拠地)
収容人員 46229人
オーナー 坂井信也(阪神電気鉄道代表取締役社長
運営母体 阪急阪神ホールディングス
(阪神電気鉄道配下)
監督 真弓明信
タイトル リーグ戦:9回、日本シリーズ:1回
優勝年度 (リーグ戦)1937秋、1938春、1944、1947、1962、1964、1985、2003、2005
(日本シリーズ)1985
クライマックス
シリーズ
2回 - 0勝2敗(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
20072008
  
株式会社阪神タイガース
HANSHIN Tigers Co., Ltd.
種類 株式会社
略称 阪神、タイガース
本社所在地 〒663-8151
兵庫県西宮市甲子園町2-33
設立 1935年12月10日
(株式会社大阪野球倶楽部として設立)
業種 サービス業
事業内容 プロ野球興行事業など
代表者 オーナー 坂井信也
代表取締役社長 南信男
主要株主 阪神電気鉄道(100%)
外部リンク 阪神タイガース
特記事項:1961年に株式会社阪神タイガースに商号変更。
阪急阪神ホールディングス連結子会社
  

目次

球団の歴史

戦前期

1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京大阪名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになった。

1935年10月25日門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信藤村富美男藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさかタイガース)が発足した。日本運動協会天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。

1936年にも、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志2月28日立教大学景浦將など有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋阪急等と共に日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。

本拠地・阪神甲子園球場で応援するファンの様子

1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかった。しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨んだが、タイガースはいずれも1位を逃した。

1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。

戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となった。

1940年9月、戦局悪化によって敵性語である英語の使用禁止を受け、球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。

戦後期(1946年 - 1959年)

戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入した際、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は「猛虎」(参照)。

1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「ミスタータイガース」と称された。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。

1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等と共にセ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。さらに遊撃手長谷川善三西鉄クリッパースへ、門前眞佐人大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。

セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男藤村隆男梶岡忠義白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。

一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男渡辺省三小山正明田宮謙次郎藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中でタイガースは優勝から遠ざかることになった。

2度のリーグ制覇(1960年代)

フランチャイズ制度の正式導入に伴って保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更した。しかし、チームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰がシーズン中に監督を解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。

1962年、藤本の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。

1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンだった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。

迷走から日本一へ(1970年 - 1985年)

1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、当時は王貞治長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、優勝には手が届かなかった(1970年2位、1971年5位、1972年2位)。1971年のオールスターゲームでは、江夏が9者連続奪三振を記録した。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。

1973年、金田監督が復帰して9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。

1975年、吉田が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、エース江夏の不調などから3位に終わった。そしてオフに江夏を江本孟紀島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデンマイク・ラインバック掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。1977年も序盤は好調だったが、中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わった。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。

1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司西武ライオンズ竹之内雅史真弓明信若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに空白の1日事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を1位指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航。結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。

1979年ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が巨人戦8勝を含む22勝を挙げたが、江夏を擁する広島東洋カープに夏場で離されて4位に終わる。1980年、新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などにより、ブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。以降、中西太安藤統男が監督に就任したが、チーム成績は3~5位が続いた。

1985年、吉田が監督に復帰。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録。これは2004年に巨人に破られるまでセ・リーグ記録だった。特に阪神初の三冠王に輝いたバースは本塁打が54本と、巨人の王のシーズン最多本塁打記録に迫る活躍をしたが、シーズンの最終2戦で、記録保持者の王が監督として率いる巨人に敬遠攻めをされ、記録更新を阻まれた。翌日のスポーツ報知は、“バース、記録達成失敗”と見出しで記事を載せ、「自分は敬遠するよう指示しなかった」という王監督のコメントも掲載された。ただ、元巨人のカムストック投手が、帰国後に米国のスポーツ誌のインタビューに解答したところによれば、試合前に巨人の全ピッチャーに「バースにストライクを1球投げるごとに罰金100万円」という脅しが出ていたという。当時、巨人の親会社である読売新聞社には阪神ファンからの抗議が殺到した。

また、中西清起福間納山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をし、見事21年ぶりのリーグ優勝を果たした。なお、この年の8月12日に発生した日航機墜落事故で、当時の球団社長だった中埜肇が死去した。また、日本シリーズで、4勝2敗で西武を下して日本一を達成した。最優秀選手(MVP)となったバースは、翌年も三冠王を獲得した。

第一次低迷期(1986年 - 1992年)

1986年、バースがシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークして大活躍したが、掛布の骨折と主軸投手の池田親興の負傷による長期戦線離脱や、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。1987年は球団史上最低勝率(3割3分1厘)を記録してシーズン最下位となり、吉田は監督を辞任した。

1988年、村山実が監督に復帰。「少年隊」トリオと呼ばれた和田豊大野久中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進めたが、バースの帰国、掛布の引退などが重なって2年連続最下位。1989年は新外国人のセシル・フィルダーが活躍するも、三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。順位は5位で、辛うじて3年連続最下位は免れたが、シーズン中から浮上した監督問題で村山は監督を辞任した。

1990年中村勝広が監督に就任。前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調だったが、投手陣はエースのマット・キーオが怪我で退団し、規定投球回数に達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状で2年ぶりの最下位。1991年も、開幕5連敗、6月に10連敗を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗と成績は振るわず、結局2年連続の最下位となった。後半戦は、猪俣、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めた。また、オフにビートたけし率いるたけし軍団と対戦して敗れるという失態もあった。

1992年、衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績が無かった亀山努新庄剛志の両外野手に加え、和田豊、トーマス・オマリージム・パチョレック八木裕らが活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田、中込伸湯舟敏郎野田浩司弓長起浩田村勤ら投手陣も奮起し、ヤクルトスワローズと優勝争いを繰り広げ、巨人と同率ながら2位となった。

第二次低迷期(1993年 - 2002年)

1993年、主力選手の故障に加え、外国人枠を巡ってパチョレックが退団、昨年絶好調だった投手陣が崩壊し、4位に終わった。なお、この年に野田と交換トレードで獲得した松永浩美がFAを宣言して福岡ダイエーホークスへ移籍した。1994年、FAでオリックスから石嶺和彦を獲得。新人の藪恵壹、オリックスから移籍の古溝克之が活躍してシーズン後半まで首位争いに加わったが、終盤の7連敗により2年連続の4位。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇した。1995年には、FAでオリックスから山沖之彦を獲得。開幕から和田、石嶺といった日本人打者の不振もあって極度な成績低迷が続き、中村がシーズン途中で監督を辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも4年ぶりの最下位に終わった。

1996年、藤田が正式に監督へ就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、チームは開幕から低迷。5月終了時点で借金15と、早々にペナントレースから脱落し、最終的には2年連続最下位となった。新庄や主力選手との確執により、藤田がシーズン途中で監督を辞任した。

1997年、吉田義男が3たび監督に就任。中盤まで上位を狙える位置にいたが、マイク・グリーンウェルの途中退団、新庄剛志ら主力選手の不振により失速し、5位に終わった。オフに久慈照嘉関川浩一を中日へ放出し、大豊泰昭矢野輝弘を中日から獲得。1998年は、新人の坪井智哉が奮闘したものの、アロンゾ・パウエル、大豊といった主力打者が不振。8月の死のロード中に球団ワースト記録となる12連敗(横浜、ヤクルト、中日、巨人の4チームに3タテ)を喫して2年ぶりの最下位となり、シーズン後に吉田は監督を辞任した。

1999年、前ヤクルト監督の野村克也が監督に就任。6月には一時首位に立ったが、先発投手陣の不振から徐々に失速、最下位に終わった。2000年、4月に9連勝して首位に立ち、5月には近鉄からトレードで吉田剛西川慎一を獲得。吉田がいぶし銀の活躍を見せ、さらには新庄剛志が自己最高の28本塁打を放ったが、結果は3年連続の最下位。オフに新庄がニューヨーク・メッツにFAで移籍した。

2001年井川慶が防御率2位の活躍、濱中治の台頭、赤星憲広が盗塁王・新人王を獲得したが、イバン・クルーズら外国人打者の期待外れもあり、球団創設以来初となる4年連続最下位。野村は、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、夫人の野村沙知代の脱税の責任を取って、この年限りで監督を辞任した。

2002年、前中日監督の星野仙一が監督に就任。FAで片岡篤史が日本ハムから加入。開幕7連勝と好スタートを切って優勝争いに絡んだが、矢野輝弘赤星憲広がケガで離脱し夏場以降は巨人に圧倒されて結局は4位だった。しかし、巨人との直接対決の試合で、マジック対象チームの敗戦で巨人の優勝が試合中に確定していたものの、劣勢だった試合を延長戦でサヨナラ勝ちし、巨人を「試合に負けて原辰徳監督を胴上げ」という事態にさせた。オフには所属選手の解雇・放出を断行した一方、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝を獲得し、日本ハムから下柳剛野口寿浩らをトレードで獲得した。また、広島から金本知憲をFAで獲得した。

猛虎復活(2003年 - )

2003年は開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させ、9月15日に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズ福岡ダイエーホークスと戦い、第7戦までもつれ込んだが3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、星野は体調不良を理由に監督を退任した。この試合はテレビ東京系列で29年ぶりの日本シリーズ中継として放送された。なお、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長として、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一達川光男西本聖は退団した。

2004年岡田彰布が監督に就任。1年目は片岡篤史ら主力選手の不振、更に藤本敦士安藤優也ジェフ・ウィリアムスアテネ五輪出場による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だったが、翌2005年、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児久保田智之(「JFK」)や桟原将司橋本健太郎江草仁貴(「SHE」)などの救援陣の活躍、アンディ・シーツ、金本知憲、今岡誠によるクリーンナップの安定した成績で、この年から導入された交流戦で好成績をあげて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく5度目のリーグ優勝を飾った。また、下柳剛が規定投球回未到達ながら最多勝を獲得するという珍事もあった。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズは0勝4敗で敗退した。

2006年は最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝したものの、今岡の不振と負傷、久保田の負傷など、主力選手の不振が響いて2位となった。しかし、1985・1986年以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団史上初の2年連続80勝を達成し、2005年から実施された実数での観客動員数は2年連続で300万人を超え、1試合平均観客動員数は12球団一の4万3,000人台だった。オフに井川慶がポスティングシステムでニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。

2007年は4月から5月にかけて先発・打撃陣の不振で9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷して借金は最大で9を抱えた。リーグ戦再開後は、打撃陣が挙げた少ない点数をJFKを筆頭とした中継ぎ陣で守り抜く野球で、上位の巨人・中日と戦った7月の13戦を10勝3敗で切り抜け、この月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越し、シーズン終盤には10連勝して一時首位に立った。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、さらに先発・打撃陣ともに不振に陥って8連敗を喫するなど失速し、最終的には3位に終わった。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ2位の中日と対戦。1戦目・2戦目共に初回の大量失点と打撃陣の不振が響き、2連敗で敗退した。この年は、先発陣の完投杉山直久能見篤史上園啓史による3回だけ(12球団最少)で、2003年のオリックス・ブルーウェーブ以来4年ぶりに、規定投球回数に到達した投手がいないという事態に陥った。また、打率得点も12球団中最下位だった。一方で、林威助桜井広大、上園啓史、狩野恵輔渡辺亮庄田隆弘坂克彦といった若手選手の台頭も目立ち、観客動員数は3年連続で300万人を突破した。オフに、広島からFA宣言した新井貴浩、トレードで金村曉平野恵一阿部健太を獲得。代わって、FAの人的補償で赤松真人、トレードで中村泰広濱中治吉野誠を放出した。

2008年はシーズン序盤から首位を独走し、5月6日の対巨人戦では、巨人に次いでプロ野球史上2球団目の球団通算4,500勝を達成し、さらに7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、7月22日に優勝マジックを点灯させた。だが、今岡・久保田の不振に加え、主力である新井・矢野・藤川の北京オリンピック出場による戦線離脱の影響を受け失速し、巨人の驚異的な猛追を交わしきれず、10月8日の直接対決最終戦で破れ、2位に終わった(いわゆるメークレジェンド)。13ゲーム差を逆転されての2位はセ・リーグワースト記録[1]で、各メディアから「歴史的V逸」と評された。岡田はリーグ優勝を逃した責任を取り、監督を辞任する意思をリーグ最終戦前に球団に表明した。球団は説得を試みたが、岡田の決意は固く、シーズン終了後に正式に承諾した(クライマックスシリーズまでは岡田が指揮を執った)。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ3位の中日と対戦するが、一歩及ばず1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。後任は真弓明信に決まり、10月27日に正式に就任が発表された。背番号は本人の希望から太平洋(現・埼玉西武)入団時の2と阪神時代の7を合わせた72に決定。秋季キャンプからチームの指揮を執っている。

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本一を示す。
  • リーグ優勝 9回 (1937秋、1938春、1944、1947、1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
  • 日本一 1回 (1985年)
  • 年間王者 2回 (1937年、1938年)
  • Aクラス 44回 (1937春 - 1940年、1942年 - 1948年、1951年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1985年、1986年、1992年、2003年、2005年 - 2008年)
  • Bクラス 28回 (1941年、1949年、1950年、1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年、1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年)
  • 最多勝利 87勝 (2003年、2005年)
  • 最多敗戦 84敗 (1995年)
  • 最多引分 13分 (1976年)
  • 最高勝率 .829 (1938年春)
  • 最低勝率 .331 (1987年)
  • 最多連勝 14連勝 (1937年、1946年)
  • 最多連敗 12連敗 (1998年、1999年)

その他の記録

  • 最小ゲーム差 0.5ゲーム (1937年春、1973年)
  • 最大ゲーム差 37.5ゲーム (1987年)
  • 最多本塁打 219本 (1985年)
  • 最少本塁打 1本 (1944年)
  • 最高打率 .345 (1936年夏)
  • 最低打率 .197 (1941年)
  • 最高防御率 1.53 (1944年)
  • 最低防御率 4.79 (1978年)
  • 連続2ケタ安打 10試合 (2008年)

チーム特徴

球団名称

ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪の姉妹都市のデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。このニックネームについては、英語表記「Tigers」を発音すると「タイガーズ」のほうがより近いが、正式名称は日本語の固有名詞であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名においては、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった。その後「タイガース」の名は、戦争中の英語が使えなかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、2005年に復活した「イーグルス」を除けば、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。

球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が大阪市と神戸市の間の「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、当時ヘッドコーチだった青田昇等の意見により、1961年に改称した。改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。

球団名を一文字で表記する時は一般的に「」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目の「阪」の字を用いるところだが、かつて阪急との混乱を避けるために、阪神は「神」、阪急は「急」としていた名残りである。

六甲おろし

詳細は阪神タイガースの歌を参照

球団歌は『阪神タイガースの歌(旧:大阪タイガースの歌)』である。歌詞の冒頭をとって六甲おろし(ろっこうおろし)と呼ばれる。

『阪神タイガースの歌』は球団結成と同時に『大阪タイガースの歌』として作られたもので、戦前から現在まで用いられている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり、球団が消滅するなどして、いずれも現在では使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは、歌詞中の大阪タイガースという単語を阪神タイガースに変えただけで現在も使われている。なお、歌詞の中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大」に掛けたものであるが、球団名を改めた後もそのまま残った。

試合開催地について

歴代本拠地

詳細は阪神甲子園球場を参照

ホームゲームでは大部分の試合で本拠地である阪神甲子園球場を使う。現在のプロ野球で本拠地となっているものの中では最古である。元々は高校野球開催など、多目的にスポーツ行事で使うことを目的として造られた球場だった。

1948年フランチャイズ制仮導入までは、ホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場阪急西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。また、フランチャイズ制導入後も、甲子園球場のナイター設備が導入されるまでは大阪球場でナイターを行うなど、他球場での主催試合もあった。また、大阪ドームでも1997年の開場から主催試合を行っているが、2005年 - 2007年までは野球協約上の保護地域が大阪府にも暫定拡大したことから、公式な準本拠地として使っていた。ダブルフランチャイズ前後の2004年までと2008年も高校野球シーズンを中心に3カード・10試合程度を京セラドーム大阪で行っている。甲子園球場以外での主催試合も主に関西を中心とした西日本で開催されることが特徴である。

大阪ドーム開場以前は、1988 - 1990年には