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斉藤 光政 /
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目次 |
初め道奥(みちのおく)といい、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。
道奥国は、7世紀に常陸国から分立して、現在の東北地方南部に設置された。[要出典]設置時の範囲は、おおよそ現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、および福島県のほぼ全域に相当し、太平洋側のみならず、奥羽山脈の西側、すなわち、日本海側に当たる現在の山形県内陸盆地群や福島県会津地方を含んだ。
和銅5年(712年)に、最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を新しく成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域のみになった。
養老2年(718年)に、陸奥国は、陸奥国・石城国・石背国の三つに分割された。このときの陸奥国の範囲は阿武隈川下流の北岸から宮城県中部までの狭い範囲であった。阿武隈川下流の南岸以南の浜通りは石城国、阿武隈川流域の盆地群、中通り、および会津で石背国とした。石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡をあわせた。しかし、養老6年(722年)年から神亀元年(724年)までのいずれかの時期に、三国は合同して元の陸奥国に戻った。菊多郡はそのまま陸奥に属した。
| 名目 | 支出(束) |
|---|---|
| 正税 | 60万3000 |
| 公廨 | 80万3715 |
| うち国司料 | (64万1200) |
| うち鎮官料 | (16万2515) |
| 国分寺料 | 4万0000 |
| 文殊会料 | 2000 |
| 救急料 | 12万0000 |
| 祭塩竃神料 | 1万0000 |
| 学生料 | 4000 |
| 計 | 158万2715 |
蝦夷(えみし)の領域に接する陸奥国には、陸奥・出羽両国を統括する按察使が置かれた。陸奥国府には鎮守府が置かれ、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。陸奥出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。
和名類聚抄による田の面積は、5万1440町3反99歩。延喜式による租稲(租の税収)は158万2715束。都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布、薬草として甘草・秦膠・大黄・石斛・人参・附子・猪脂、筆、零羊の角。交易雑物には鹿の革、独犴(ラッコ)の皮、砂金、昆布・策昆布・細昆布があった。また、特産物の金、名馬、毛皮、羽根は都の貴族に珍重された。
陸奥国南東部(後の岩代国)の会津地方では、802年(大同2年)年創建の恵日寺が強大な勢力を持ち、11世紀から12世紀に最盛期を迎えて陸奥国から北陸地方北部まで影響力を持った。
平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長安倍氏が陸奥の北部(後の陸中国)、奥六郡で力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これにかわって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、南部となる現在の福島県域では、信夫佐藤氏が信夫郡を本拠地として宮城県南部、山形県南部、福島県中部、後に恵日寺衰退後の会津を支配した。福島県南東部(分国後の磐城国)では、前9年の役に従軍した後石川郡に定住した清和源氏の石川氏や、浜通り南部を支配した桓武平氏の岩城氏もあったが、いずれも藤原氏に服属していた。
奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年に源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。
頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置した。奥州土着の武士は衰退し、鎌倉以来の武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。守護は置かれなかった。
なお、平安時代の陸奥国および出羽国は、北東北領域で境界不明瞭なことが多く、平安末期には、奥州藤原氏の勢力範囲の秋田県領域も陸奥国と見なされていたようである(→出羽国)。
鎌倉時代後期には蝦夷大乱が起きた。
明治維新の折、明治政府による天皇を中心とした中央集権体制が敷かれる過程で、江戸時代の各藩の領国支配と異なった単位での地方支配体制が求められ、令制国をもとにした地方区分が試みられた。
その際、面積が広い陸奥国と出羽国は分割されることになり、明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)に陸奥国から陸中国・陸前国・岩代国・磐城国の4ヶ国が分立した。4国分立後の陸奥国は、現在の青森県に岩手県西北の二戸郡を加えた範囲となり、初期の陸奥国から300kmも離れた土地になった。
分国後、陸奥国の領域にあった藩は下記のとおりである。
明治政府の地方支配体制は、その後の廃藩置県によって実現されたため、明治元年の陸奥国分割は、政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。ただし、分割後の国名は、鉄道の駅名や陸前高田市などに利用されている。また、陸奥・陸中・陸前の三国を総称した「三陸」の呼称は三陸海岸を始め現在も定着している。
国府は宮城郡にあった。はじめは現在の仙台市太白区にある郡山遺跡にあったと推測される。神亀元年(724年)、多賀に多賀城が建設されると同時に国府もここに移った。これは現在の多賀城市にあり、遺跡が発掘されている。遺跡調査からこの国府が10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府が鎌倉時代、南北朝時代に存在したことがわかっている。場所がやや西の岩切(現在の仙台市北東部)付近に移ったのではないかと、推測されているが確認されていない。
国分寺は現在の仙台市若林区木の下にあった。1189年に奥州合戦で焼失したが、同じ位置に慶長12年(1607年)、伊達政宗が陸奥国分寺を再建し、真言宗智山派の護国山医王院陸奥国分寺(本尊:薬師如来)として今日に至る。後に古い国分寺の遺跡が発掘され、国の史跡に指定された。
国分尼寺は、仙台市若林区白萩町に曹洞宗の護国山国分尼寺(本尊:聖観世音菩薩)があって、その法燈を伝承する。安国寺は、宮城県古川市柏崎に臨済宗妙心寺派の興聖山安国寺(本尊:阿弥陀如来)がある。なお、利生塔は未詳である。
延喜式神名帳には大社15座15社・小社85座85社の計100座100社が記載されている。大社15社は以下の通りで、全て名神大社である。
中世以降鹽竈神社(宮城県塩竈市)が一宮とされるようになった。戦国時代ごろから都都古和気神社(福島県棚倉町棚倉・同町八槻)も一宮を名乗るようになり、以降、両社が一宮とされた。近世以降、石都々古和気神社(福島県石川町)も一宮を主張している。二宮は伊佐須美神社(福島県会津美里町宮林)であるが、これに対する一宮は鹽竈神社であるとしている。総社は陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川)であるとされるが、鹽竈神社が惣社を兼ねていたとする説もある。
定員は1名。従五位上相当。ただし、伊達氏の陸奥守は武家官位であり、京都には別に任官した陸奥守が存在した。
※日付=旧暦
平安期と近代の分国後の郡を挙げる。
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
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