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長谷川 正次 /
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高遠の地は戦国時代、諏訪氏の一族であった高遠頼継が治めていた。頼継が武田信玄(晴信)との戦いで没落した後、高遠は武田氏の支配下に入る。後に信玄の五男・仁科盛信が高遠城主となり、ここで武田氏滅亡と運命をともにしている。同氏滅亡後には徳川家康が支配して保科正俊が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、高遠には2万5000石で保科正光(正俊の孫)が入り、高遠藩が成立した。正光は第2代将軍・徳川秀忠の隠し子(生母が正室・於江与では無かったため、その悋気に触れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと保科正之を養育した功績により、元和4年(1618年)に5000石を加増された。寛永8年(1631年)、正光の死により正之が家督を継いだが、この頃になると於江与が既に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事実となったため、兄・徳川家光の計らいにより、正之は寛永13年(1636年)に出羽国山形藩20万石に加増移封された。入れ替わりで、山形より鳥居忠春が3万2000石で入る。ところが、忠春の後を継いだ鳥居忠則のとき、江戸城警備を担当していた家臣が不手際を起こし、忠則はその事件の最中に急死。死後、家督相続が認められず、鳥居氏は改易となった。後、忠則の後継者であった鳥居忠英は、1万石を与えられて能登下村藩を立藩している。このため、高遠藩は廃藩となり、元禄4年(1691年)まで天領となった。その後、摂津富田林藩より内藤清枚が3万3000石で入る。
第2代藩主・内藤頼卿の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。このとき江島生島事件にかかわっている。第7代藩主・内藤頼寧は産物会所設置による産業奨励、学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革に成功を収めた。しかしわらじ騒動という百姓一揆も発生し、藩政は不安定であった。
安政6年(1859年)に最後の藩主となった内藤頼直もそれなりに有能で、藩校である進徳館の設立や長州征伐参加で活躍した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与した。明治2年(1869年)の版籍奉還で、頼直は藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県で高遠藩は廃藩となって高遠県となり、同年12月には筑摩県に編入された。
譜代 2万5000石→3万石
譜代 3万2000石
譜代 3万3000石
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