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鈴木慶江 /
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| 高麗 | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 고려/고려왕조 |
| 漢字: | 高麗/高麗王朝 |
| 平仮名: (日本語読み仮名) |
こうらい/こうらいおうちょう |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
コリョ/コリョワンチョウ |
| ラテン文字転写: | Goryeo/Goryeo Dynasty(文化観光部2000年式) |
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高麗(こうらい)は、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国(918年 - 1392年)。都は開城。
朝鮮をさすKorea(コリア)の語は、10世紀から12世紀まで高麗とアラビア間の貿易が盛行した時、高麗の首都だった開京の碧瀾渡で アラビアの商人たちが「高麗(コリョ)」を「コウリオ」と呼び始めたのが「コリア」になり、今の朝鮮を指す英語表記の「コリア」になった。 [1]
昔の日本や中国では「高句麗」を「高麗」と記したので、今の中国では区別上「王氏高麗」ということもある。
目次 |
新羅は朝鮮半島を統一し、仏教文化を成立させただけでなく民衆の生活も豊かにした。しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起きたほか地方のあちこちでも農民の反乱が起き、新羅の政府の命令は遠い地方では無視されるようになった。この乱れてしまった政局は真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。
王建は後高句麗の将軍であった。王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため動員された民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こし、918年に高麗を起こした。朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が続き分裂したままかと思われたが、935年、後百済の王の甄萱が4男に王位を継がせようとして長男の神劍(後百済の2代王)に反乱を起こされた。神劍は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。結局、甄萱は935年3月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同年、新羅は高麗に自ら降伏した。高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。
その間、926年に北方民族契丹の遼(916年成立)が渤海を滅ぼすと、高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配する。これにより現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の西部を合わせた地域を版図とした。また、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。
宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ。さらに993年から朝貢を求めて大規模な侵入を行う。高麗はこれを撃退したのち、江東6州の獲得と引換えに翌994年に朝貢した。1009年に高麗で政変が起きると、契丹はこの隙を突いて1010年に再度侵入し、首都開城に攻め込む。しかし高麗の将軍・姜邯賛の策により、開城には高麗軍も物資もなく、補給に難が生じた契丹軍は開城から後退。この間高麗王は羅州に避難した。姜邯賛は西京以北の要所要所に伏兵を配置し、後退する契丹軍に反撃を加えて勝利した。こののちも契丹は1013年から1015年まで継続して侵入するが高麗は1015年にこれを撃退する。しかし契丹はその年のうちに再再度侵攻した。高麗は1016年に宋の年号を用いた。1018年、蘇排押率いる10万の契丹軍が高麗に攻め込むが姜邯賛率いる高麗軍14万が鴨緑江と亀城にて、これを迎え撃ち大勝利を収めた。この戦いで生き残った契丹兵は、僅か数千に過ぎなかった。(亀州大捷)。侵攻は1019年まで続き、高麗は何度もこれを撃退するが、1020年に和がなり、1022年には遼の年号を用いて再び朝貢した。
その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。女真は1019年に日本へ侵攻(刀伊の入寇)した民族だと考えられているが、契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻し、高麗青磁など美しい磁器が発達し、仏教が普及した。
この間に女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年に金を建て、1125年に遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。
12世紀中ごろから王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)である鄭仲夫がクーデターを起こして国王を廃位し、武臣政権時代が始まる。しかし、他の武臣の反発を招き、1179年に暗殺される。その後、李義ミンが政権を握るが、崔忠献により暗殺され、その後、武臣同士の内紛を制して1194年に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。
崔氏武臣政権下、北方ではチンギスハン率いるモンゴル(蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。このため1224年に金の年号を止め、独立を回復した。しかし、1231年から蒙古(後の元)の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開京から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗は蒙古に服属し、太子(王子)を人質として蒙古に差し出した。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。
一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、倭寇などが沿岸を襲い始めていたようである(新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない)。
蒙古はこれまでの契丹や女真と異なり、露骨な内政干渉をしてきた。国内には多くの蒙古軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた(1290年返還)。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、蒙古支配に納得しない人々が反乱し、三別抄の乱となった。反乱者たちは済州島に移って徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年と1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため高麗は前線基地として、兵站の補給と軍艦の建造を命令され、これらの協力と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。一方、高麗史には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。
親政を回復した忠烈王(在位1274年~1308年)はクビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)[2]と結婚してハーンの娘婿の待遇を受けるようになるが、同時に日本征討のために設けられた元の出先機関である征東行省(高麗王が長官となる)と高麗政府が一体化して、高麗は元の強い影響下に入ることとなった。また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて、事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれた。そのような中で忠烈王とモンゴル人の夫人の間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降の高麗世子は禿魯花(ta-ru-Ha-Chi)として元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなる。
具体的には、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、元風の名も持っていた。[1]
14世紀に大陸で紅巾の乱が起こって元が衰え始めると、恭愍王(1351年 - 1374年)は1356年に元と断交し、双城総管府など北辺を奪還して蒙古侵入以前の高麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを制圧した。また、1350年頃から活発化した倭寇(前期倭寇)に高麗は苦しむことになる。1356年から1362年までの紅巾賊侵入に至っては都・開京が陥落したが、崔瑩・鄭世雲・李芳實・李成桂らが率いる高麗軍は10万人にも及ぶ紅巾軍を撃退し開京の奪回に成功する。1359年には、李承慶・李芳實が西京(平壌)で、1361年には李成桂・鄭世雲が黄州で、紅巾軍に大勝した。倭寇についても、崔瑩・李成桂・羅世・鄭地・朴ウィらの有力武将は、次第に倭寇に打撃を与えて行き、1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣・羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、大勝利を収め、1389年の朴ウィによる対馬攻撃を境に、倭寇の回数は激減する。1368年に明が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂は、1388年にクーデターを起こして政権を掌握し、1389年に恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、李氏朝鮮王朝を興す。ここに高麗は474年で滅びた。
高麗の社会は朝鮮の歴史にとって新羅に続き、女性の社会的地位が高いという時代だった。もちろん、政治や生活全般には男が優先されたが、財産の分配は息子と嫁いだ娘を同等に待遇した。また夫に殴られた妻が官庁に告発し、官庁に引っぱられた夫がむち打ちの刑をうけた事もあった。忠烈王の時、朴楡は王に貴族の畜妾(ちくしょう)制度を法律で定めることを建議した。後に朴楡は町で老婆と女たちに後ろ指を指され、面前で悪口を言われた。離婚と再婚が自由だったというが、特別な理由もなく妻を見捨てると法律によって処罰された。12世紀に宋の徐兢が高麗を訪問してから書いた『高麗図経』には、「離婚率が高いし、恋愛と別れが多すぎるので、風習がおかしい」と書かれている。息子がいなくても祭祀は娘と婿が行なった。婿取婚の比率も高い、女性は影響力が強かった。
高麗では貿易が栄え、特に開京から近い礼成江河口にある港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。詳らかなことは下を参照。
高麗は宋に入朝し、親宋を標榜した。宋は高麗の最大の貿易国だった。高麗は宋に金・銀・螺鈿漆器・花茣蓙・紙・銅・陶磁器(高麗青磁)・朝鮮人参を輸出し、宋から絹・薬材・書籍・楽器・香料を輸入した。1976年に韓国の全羅南道新安の沖で高麗と宋の難破船が発見され、宋と高麗の遺物18000点が引き揚げた。
高麗の首都の開京(現在の北朝鮮の開城市)の礼成江河口の国際貿易港だった碧瀾渡でアラビア商人が賑やかだった。『高麗史』の記録には1024年(顕宗15年)と1025年(顕宗16年)、1040年(靖宗6年)にアラビアと大食国(ペルシア)の商人らが高麗に入朝し、産物を献上したと記されている。高麗はアラビアから水銀・香料・ガラス工芸品・珊瑚を輸入した。この時代に高麗の名称がヨーロッパに知られ、アラビアの商人たちが高麗(コリョ)を「コリア」と呼び始め、今の朝鮮を指す英語表記「Korea」になった。
高麗は建国初期に契丹に対して「渤海を滅ぼした民族とは共存できない」と言い、太祖は契丹との貿易を禁止した。遼を建国した契丹の国土が宋と高麗の間にかけて存在したので、高麗は海上貿易を通じて宋と交易した。3回目の遼の高麗侵攻が失敗で終わってから、高麗と遼は国交を回復し、 高麗は遼に書籍・食糧・銅・鉄・朝鮮人参を輸出した。高麗は遼から銀と毛皮を輸入した。
女真は宋と高麗両国に朝貢してきたが、12世紀に入ると満州で成長し、金を建国した。高麗は女真に毛皮や馬を輸入し、書籍・農機具を輸出した。
高麗の文学は初期の詩と中期・後期の小説で区分できる。高麗仁宗時代の詩人鄭知常の漢詩の『送人』は“晴れ上った長い堤に草色が濃いのに…”で始まる詩で、現在まで愛されている。その他に文学の形式の高麗歌謡が流行り、恋人との別れを悲しむ『西京別曲』、『カシリ(行ってしまいますよね)』がある。また俗世を脱して自分の寂しさや悲哀を歌った『青山別曲』は『西京別曲』・『カシリ』と共に現存する高麗歌謡として高く評価されている。中期と後期には執権者や社会の矛盾を風刺した小説が書かれた。特に物事を擬人化して創作した假伝体小説が流行った。酒を擬人化した林椿の『麹醇伝』や李奎報の『麹先生伝』が有名である。
高麗初期から仏教は王族たちの支援をもらいながら発展した。太祖は開京に多い寺院を建築したし、訓要十條で仏教を崇尚して燃燈会と八関会など仏教の行事を盛大に開催することを頼んで仏教に対する国家の指針を提示した。貴族たちも仏教に大きい関心を見せたが、これらは政治的理念にした儒教と信仰にした仏教をお互いに代置されることと思わなかった。民たちも起伏信仰として仏教を信奉した。光宗の治世からは王が僧科を実施して、試験に合格した者には僧侶の地位を与えたし、国師を置いてこれらにとって王の顧問役目を引き受けるようにした。また、寺院には土地を支給して僧侶たちに各種恩恵を与えた。
高麗時代には仏教思想に対する体系が整備されながら仏教と係わる書籍を皆集めて体系化する大蔵経が編纂された。大蔵経の内容は仏教の経典たちを集大成したこととして釈迦の説教を記録した経蔵、すべての戒律を記録した律蔵、仏者たちの論説を記録した論蔵で構成なっている。高麗は外勢の侵入を受ける度に仏陀の力を借りて勝利しようと大蔵経を刊行した。元の侵攻が開始された時には八萬大蔵経を刊行した。38年にわたって完成した八萬大蔵経は膨大な内容を記したけれども誤った字や抜けた字がほとんどない精緻さと字体の美しさのため世界遺産に指定されたりした。現在海印寺で保管している。
高麗には道教も盛んだったが、不老長生と現世での豊かさを追い求めることを特徴にする道教は幾多の神々を仕えながら災いから脱して救援を望んで国の平安と王室の繁栄を祈った。これのために道教的行事がよく開催されたし、宮廷では天に祭祀を執り行なう醮祭を開催した。新羅後期に流行った風水地理説は未来を予言する図讖思想が追加されて高麗時代に大きく流行った。高麗時代には開京と西京(平壌)が明堂といううわさが流布して西京遷都と北進政策推進の理論的根拠になった。しかしこのような明堂説は開京勢力と西京勢力の政治的闘いに利用されたりした。文宗の治世以後ではソウルが明堂といううわさが流布してこちらを南京で改称して王宮を建てて王がしばらくとどまったりした。
高麗は役人たちを養成するために全国に多い学校を建てて民たちに教育を奨励した。開京には今の国立大学校にあたる国子監があった。国子監には国子学、太学、四門学のような儒学部と律学、書学、算学などの技術学部があった。儒学部には名望高い高位級貴族たちの子弟が入学したし、技術学部には下級貴族たちの子弟と庶民たちの子弟が入学した。そして地方ちほうには地方貴族たちと庶民たちの教育を担当する郷校があった。
高麗は光宗が科挙を実施しながら漢文学が大きく発展した。成宗の治世以後文治主義が盛んさによって漢文学は貴族たちの必須な教養になったし、朴寅亮と鄭知常など優秀な詩人たちが登場した。民衆社会では作曲家と作詞者の名前が不明である俗謡という歌謡が流行った。
ぜいたくに生きた高麗の貴族たちは自分たちの欲望を満たすために多様な芸術作品を作って鑑賞したから芸術分野で大きく発展した。その中でも一番脚光を浴びた分野は工芸だった。工芸は貴族たちの生活道具と仏教儀式ぎしきに使われる道具などを中心に発展したし、特に磁器工芸がすぐれた。高麗の磁器は新羅と渤海伝統と技術を土台で宋の磁器技術を受け入れて貴族たちの全盛期の11世紀に独自の境地を成した。磁器の中で一番有名なことは翡翠色が出る青磁なのに、外国人たちも天下の名品と認めた。高麗の金属工芸も仏教道具を中心に大きく発展した。
高麗時代には主に王宮と寺刹を建築したが現在まで保存している建物はほとんどない。高麗の石塔は新羅の石塔様式を土台で独自の造形感覚を加味して多様な形態に製作された。高麗の佛像は新羅以来の造形伝統を受け継ぐ様式が主流をなしたが、時期と地域によって形態に差がある。高麗時代には大型鉄仏像をたくさん作られたし、人々がたくさん過ぎ去る町角にも巨大な仏像らを作っておいたりした。
絵画の場合、王族たちと貴族たちの依頼を受け入れて仏画がたくさん描かれた。特に高麗の画家たちは極楽往生を祈る阿彌陀仏図と地蔵菩薩図、観世音菩薩図をたくさん描いた。また、仏教の経典を筆写するとか印刷する時、最初のページにその経典の内容を絵で説明した写経画も流行った。高麗後期には四君子を主題にした文人画が流行った。
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