魯迅 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋魯迅(ろじん、簡体字表記:鲁迅、ピンイン: Lǔ Xùn 1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、中国の小説家、翻訳家、思想家。本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)で、字は豫才。ペンネームの魯は母親の姓だという。浙江省紹興市出身。4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 魯迅 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| 魯迅 | |
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(1936年)
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| 誕生 | 周樹人 1881年9月25日 浙江省紹興市 |
| 死没 | 1936年10月19日(満55歳没) |
| 職業 | 小説家 |
| 国籍 | |
| 活動期間 | 1918年 - 1936年 |
| 主題 | 小説 |
| 代表作 | 『阿Q正伝』 『狂人日記』 |
| 親族 | 周作人(弟) |
| 文学 |
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魯迅(ろじん、簡体字表記:鲁迅、ピンイン: Lǔ Xùn 1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、中国の小説家、翻訳家、思想家。本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)で、字は豫才。ペンネームの魯は母親の姓だという。浙江省紹興市出身。4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。
特に狂人日記は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した経験もあるが、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。
目次 |
松本亀次郎の下で日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。
当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され[1]、周は無試験で入学している。このため学力不足の留学生は途中で挫折している。特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技[2]であった。当時周には多額の奨学金[3]が支給されており、授業についていけず[4]町で遊興[5]に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。
1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を経て帰国。杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。
仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。
魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている[6]。中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年11月29日には江沢民・中華人民共和国主席も訪問している。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。
2004年、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈った[7][8]。ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更された。
魯迅の作品に見られる特徴のひとつとして、欧米語とりわけ英語の文法をなぞった、本来の中国語(白話)には無い語法がある。彼は中国語が文法的な精緻さにかけているという思想に取り付かれており、欧米語は文法が精緻なので思考も理性的なのだと考えていた[9]。そのため彼は本来中国語には無かった文法事項を、半ば人工的に欧米語をなぞって作り上げることになる。例を挙げると、魯迅は本来の白話では区別していなかった形容詞・副詞接辞deを、形容詞接辞の的と副詞接辞の地と書き分け、また三人称単数の代名詞taに、英語を模倣した男性形、女性形、中性形の区別を取り入れ、書き分けた。このような魯迅の欧米語文法の優越性に対する信仰への弁護として、当時の欧米において中国語が最も原始的な文法体系の言語とされ、はなはだしくは文法の無い言語だとさえいわれたという時代的背景をあげるものもいる。
無論現代の言語学的立場からすれば、魯迅の思想は疑似科学的なものである。たとえば英語では区別しない形容詞的なfromと副詞的なfromを、日本語では"からの"と"から"というように区別する。朝鮮語でも同様に両者を、無生物の場合はbute'yiとbute、生物の場合は'eise'yiと'eiseというように区別する[10]。しかし日本語や朝鮮語の話者が英語話者に比べて思考が理性的だとする科学的な根拠は何もない。又アラビア語には欧米語の殆どには無い双数形があるが、アラビア語の話者が欧米語の話者より思考が理性的で精緻だとする科学的根拠もない。
更にいえば、欧米語に比べて中国語(白話・北方官話)の文法が精緻ではないという魯迅の考え自体も一面的である。欧米語の一人称複数は、英語のweがそうであるように1種類しかないが、対して白話・北方官話では除外的なwomen(話し相手を含まない私たち)と包括的なzanmen(話し相手を含む私たち)という2種類の一人称複数形を用いており、この点では北方官話は欧米語よりも精緻な文法体系を持っている。
中国の近代化改革を望んだ文学者である彼がその過程で不可避に欧米への崇拝・事大意識をもち、それを自身の言語観や文学作品に投影したことは中国の近代化のあり方をめぐる一つの研究対象とされている。
また彼は上にも示したとおり、文言文を廃止して、民衆語である白話で書くべきだとしていたが、一方で上のような民衆語からかけ離れ、漢字の上でしか分からない人工的な語法を導入したことは矛盾しているのではないかという声もある。実際に1920年代以降、より民衆語(白話)に近づけた文章を規範とすべきとする大衆化運動の擁護者により、魯迅は中国語の自然な形態(何を以て「自然」と呼ぶかは議論があるが)を犠牲にして、欧米語に追随した事大主義者として批判されるようになる。甚だしくは彼や彼に代表される欧化文体を、民衆語からかけ離れた新文言とする声さえあった[11]。しかし最終的に欧化語法の少なからぬ部分が現代中国の普通話にも取り入れられることになり、魯迅は近代中国語の規範を作り上げた作家の一人とみなされるようになった。
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