鹿内信隆 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋関連商品
桜田 武 /
最安値(中古): ¥ 250
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
目次 |
1911年11月17日、北海道夕張郡由仁町に生まれる。実家は写真館。
北海道庁立岩見沢中学校卒業後、1936年早稲田大学政治経済学部卒業。のちに早大総長で恩師にあたる阿部賢一(徳富蘇峰娘婿)の紹介で倉敷絹織(現クラレ)に入社し菊池寅七専務が業務拡大のため興した三徳工業の創設事務を手伝い、その常務課長に抜擢された。1938年応召し、予備役召集第一回の幹部候補生となり若松町の陸軍経理部に進み、のち主計少尉。ここで日清紡の専務で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと需給計画を通じて知り合う事になる。軍務時代慰安所設置に尽力していた(自著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。これが鹿内と財界人脈を結ぶ接点となる。
除隊後の1943年、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立に参加。戦時下におけるこうした産軍複合人脈が戦後、日経連の初代専務理事に推される要因となった。戦後の公職追放から復帰後は、経済同友会の創設に参加し1954年のニッポン放送設立に加わり、1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビジョンを開局させた。
1963年同局社長。1968年、産業経済新聞社社長に就任。1969年、箱根 彫刻の森美術館館長・フジサンケイグループ初代議長を務め、1984年最高顧問の座に就いた。しかし1988年、長男の鹿内春雄が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任。1990年10月28日死去。享年78。
信隆没後2年後の1992年に日枝久のクーデターでフジサンケイから追放された鹿内宏明は養子。元NHKアナウンサーの頼近美津子は義娘(春雄の妻)。女優の奈月ひろ子は長女(春雄の姉)。フジテレビプロデューサーの鹿内植は孫(長女・ひろ子の娘)で、信隆→春雄→宏明と続いた鹿内一族の4代目にあたる。
鹿内信隆の人生であまり知られていないものの一つに信州財界との関わりがあげられる。鹿内は1958年に常務として産経新聞社の経営に関わるようになるが関わるに至ったいきさつは信州財界が橋渡しをしたからである。
1950年に関西を地盤としていた産業経済新聞が東京に進出。5年後の1955年に別法人として(株)産業経済新聞東京本社を設立すると共に同社社長として勝田重太朗を招請した。勝田は信越放送社長を務めており、それ以前には信州・長野県を代表する新聞社である信濃毎日新聞社の役員を務めていた。相前後して産経社長だった前田久吉が経営に携わっていた時事新報(※福澤諭吉が創刊したが、戦時統合で休刊したのを戦後に復刊)を併合し産経時事(※東京のみ、大阪は産経新聞)と改題させてとりあえず軌道に乗せている。ここから産経と信州財界のルートが生まれた。
1956年に水野成夫社長の求めで、信越放送での勝田の後任社長だった野沢隆一が文化放送の専務に就任。文化放送はニッポン放送と共同でテレビ局を作るべく奔走していて、当時ニッポン放送の役員だった鹿内はそれを通じて水野と関わりを持ち、更に水野を介する形で信州財界とのつながりができた。そして1958年に前田が経営難を理由に産経を手放すと、当時信越化学工業(信毎と資本的には同系列)常務だった小坂徳三郎(のちに信毎社長)が経営再建のため鹿内を水野と共に送り込もうと工作。結果これが実現し、鹿内は常務として産経新聞の経営に関わることが出来た。信州財界が橋渡ししなければ後にフジテレビ・産経新聞社の社長にもなれなければフジサンケイグループを作って初代議長にもなれなかったわけだから鹿内は信州財界が作った傑物といえる。
鹿内自身が信州財界に感謝していた証拠はいろいろな形で残っている。信越放送はラジオの24時間放送を実施するとニッポン放送のオールナイトニッポンをネットすることでわかる様にフジサンケイグループ系列のラジオ局の番組を優先してネットしてもらえるようになったし、長野放送が設立された際ニッポン放送からNBSという略称を譲渡され、さらにフジテレビの番組を優先的にネットしてもらえる様になったし、(結果マストバイ局化が在長民放局の中で早く進んだ。)長野県上田市武石地区(旧小県郡武石村)の美ヶ原高原に鹿内自身が館長を務める彫刻の森美術館の姉妹館として美ヶ原高原美術館がオープンし長野県を代表する観光スポットとなった。鹿内(一族)と信州財界は太いパイプで結ばれていたのである。
共にフジテレビを設立し産業経済新聞社の立て直しに尽力した水野成夫との相違点の一つとして知られているのに野球好きか否かが挙げられる。
水野は1953年頃ナショナル・リーグを視察するほどの財界人きっての野球好きとして知られていた。1963年に国鉄スワローズの間接的な親会社日本国有鉄道が資金を投入出来なくなると、資本参加という形で経営にかかわり1965年5月10日には国鉄から経営権を買い取った。これは野球好きである事に加え、フジサンケイグループの経営基盤強化を図ったもので、正力松太郎の読売ジャイアンツを模した物でもあった。しかし、1968年病気を患ったため折角のオーナー職を辞する羽目になる。過去のいきさつから見れば後任オーナーは鹿内となるのが自然だが、鹿内は就任せず腹心の福田英雄(ニッポン放送出身で、当時フジテレビ・産経新聞の重役)がオーナーを務める事となった。つまり、これは鹿内自身が野球好きではない事が窺えるというものである。
鹿内は水野とは違い元々経理の出身(帝国陸軍の経理将校であった。)である。そのためプロ野球を単なる金食い虫としか見ていなかったといわれ、鹿内は水野から球団の経営を引き継ぐ事に消極的となっていた。実際、球団経営は赤字で球団保有のメリットは薄く、球団はグループの強化どころかグループのお荷物となってしまっていた。そのため1968年の末頃ヤクルト本社が球団買収に名乗りを挙げるとオーナー職を丸投げさせるという形で事実上手放してしまった。当時のヤクルトの経営者は旧来からの水野の盟友である南喜一で、いわば南は水野の意志を継承した形になった。鹿内にしてみれば、神宮球場での巨人戦の放送権さえ確保できれば、別に球団を持ち続ける必要はなかったといえる。現在の東京ヤクルトスワローズが誕生したのは合理主義者の鹿内が野球好きではなかった結果といえる。
このように、鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の水野でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ。」と水野を責めたという。
水野から引き継いだ事業のうち、上記球団(当時・サンケイアトムズ)と琵琶湖畔のスキー場・サンケイバレイを手放し、日本フィルハーモニー交響楽団を解散に追い込む一方、有楽町駅前のラクチョウビルや夕刊フジ(もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨て、カネになる物だけを引き上げると言った鹿内は水野よりもより冷徹でドラスティックな経営者であったと言えよう。
彼の思想と行動は、正論路線と呼ばれる反共・親米・国家主義に象徴されることで有名である。発言・行動としては概ね以下に挙げられるものがある。
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
PageRank5以上の相互リンク
・相互リンクスクエア
(PageRank 5)
・相互リンク インプロス
(PageRank 5)
→便利!NINJA TOOLS
→FC2検索
用語
Wikipedia
YouTube
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |