麻原彰晃 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋麻原 彰晃(あさはら しょうこう、1955年3月2日 - 、本名:松本 智津夫〈まつもと ちづお〉)は、宗教団体オウム真理教(現・アーレフ)の元代表で教祖である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 麻原彰晃 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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| 麻原 彰晃 (本名:松本 智津夫) |
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| 出生 | 1955年3月2日(53歳) 熊本県八代市 |
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| ホーリーネーム | マハー・グル・アサハラ | |
| ステージ | 尊師、神聖法皇 | |
| 教団での役職 | 代表 | |
麻原 彰晃(あさはら しょうこう、1955年3月2日 - 、本名:松本 智津夫〈まつもと ちづお〉)は、宗教団体オウム真理教(現・アーレフ)の元代表で教祖である。
1996年6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。同団体は宗教団体アレフに一旦改組されアーレフにすぐに再度改称。アーレフに於いての公式呼称は「旧団体代表」とされた。
著書では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」名義を用いていた。宗教団体オウム真理教の信者からは尊師、もしくは本来ヒンドゥー教の導師を指すグルと呼ばれ、崇拝の対象となっていた(宗教団体アーレフでは、尊師・グルの呼称の使用及び、写真・イラスト・その他その肖像を表わしたものを団体施設の祭壇及び個人所有の祭壇に備え付けることを禁じた)。
教団は日本支配を画策しており、その憲法草案の中では神聖法皇と呼称されていた。また、神や死者の声が聞こえる霊能者であるとも自称していた。
目次 |
麻原こと松本智津夫は、1955年3月2日熊本県八代市高植本町(旧・八代郡金剛村)の畳職人の家庭に生まれた。
週刊文春2000年新年合併号によれば、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」という。週刊現代1995年5月27日号「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」記事中で「父親は、在日朝鮮人である」と栗本慎一郎が主張しているが、オウム真理教大辞典(東京キララ社)の『麻原彰晃』の項によれば「本人による『在日』発言があるという『噂』があったため、『在日説』が浮上したが、これはデマである」と『在日説』を否定している。また、高山文彦は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との親族の言葉を紹介している。
視覚障害者(隻眼)であるために、6歳から20歳までを寄宿制の熊本県立盲学校で過ごし、鍼灸術を学ぶ(智津夫の長兄の証言によると、この視覚障害は水俣病による被害の結果だったという[1]。ただし智津夫は水俣病患者としての公的認定を受けていない)。同校を卒業後、東京大学文科1類受験を目指し、1977年4月代々木ゼミナール渋谷校(現在は無い)に入学したが、受験に失敗する。
1976年7月、知人を殴打し、傷害罪で罰金刑を受ける。1977年頃から仙道やヨガの修行を始める。 1978年、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子と結婚し、千葉県船橋市で鍼灸院「松本鍼灸院」を開業。のちに「亜細亜堂」と名前を改め診察室兼漢方薬局の経営に転じたが、1980年に保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。その後、新興宗教団体阿含宗に入信する。
1981年、健康薬品販売店「BMA薬局」を開局したものの、1982年に無許可の医薬品を製造販売したため薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける。
1984年、東京都渋谷区にヨガ道場「オウムの会」を結成し、株式会社オウムを設立。松本は「麻原彰晃」と名乗り始める。 1986年、ヒマラヤで最終解脱と称す。同年、「オウムの会」を「オウム神仙の会」と改称。1987年、さらに「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称する。空中浮遊などのショー的なアピールで徐々に信者を獲得していく。
1990年2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として東京4区から出馬したが落選。
1995年5月16日に山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設で地下鉄サリン事件・松本サリン事件など、一連のオウム真理教事件の首謀者として逮捕された。麻原は札束を抱えて、第6サティアンの1階への階段途中の壁の中に隠れていた。逮捕された際は失禁していたと伝えられている。
最終的には13事件で殺人罪など7つの罪に問われる。1996年4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、僅か48席の一般傍聴席に対して、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した(この数字は2007年現在でも破られていない)。弁護側は「事件は村井元幹部を中心とした、弟子たちの暴走によるもので、松本自身は一切指示をしていない」と無罪を主張した。しかし2004年2月27日、東京地裁は「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と認定し、死刑判決を言い渡した。
2006年9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した。
1996年4月24日、1審の初公判(阿部文洋裁判長)。公判では突如英語を話したり、居眠りをしたりなどの異常な行動が目立ち、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受ける。起訴案件の罪状認否に関しては留保した。
日本テレビはここから、麻原から松本と本名で報道されるようになった。その後、民放全局や、産経新聞や東京新聞などを除く殆どの新聞社も本名で報道されるようになった。NHKは結審まで麻原と称したが、その理由として芸能人に値すると述べられている。
1997年4月、保留していた罪状認否について、起訴された17事件のうち16事件で無罪を主張(駐車場経営者VX襲撃事件のみ留保)。2000年10月5日、検察側は長期裁判を避けるため被害者がいない薬物密造など4事件の起訴を取下げ、案件を13事件に絞り込む。
2003年4月、1審の論告求刑公判で死刑を求刑され、松本は「わが国の犯罪史上最も凶悪な犯罪者」と指弾された。同年10月31日、弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」旨の最終弁論を行い結審。東京地裁での麻原被告の公判回数は254回に上った。2004年2月27日、一連の事件に対して東京地方裁判所(小川正持裁判長)は求刑通り死刑の判決を言渡した。これに対し弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。
1審を担当した国選弁護団は終了後全員が辞任し、後を引き継いだ私選弁護団は1審判決後、松本が弁護団の問いかけに一切反応せず意思疎通が不可能であることや、弁護側が依頼した6人の精神科医が彼には裁判を受ける能力がないと意見していることなどを挙げ、裁判の停止を求め、控訴審の開始のために必要な控訴趣意書の提出を、2005年8月31日の期限を過ぎても拒み続けていた。
控訴審の開始手続きに関連して、裁判所側が依頼した医師による精神鑑定も行われたが、この鑑定で松本には裁判を受ける能力があるとされたことを受け、2006年3月27日に東京高等裁判所は、弁護側の控訴を棄却する決定をした。この控訴棄却の決定は、控訴審の審理が結審した後に下される控訴棄却の判決とは異なり、控訴趣意書が正当な理由なく期限までに提出されなかったため、刑事訴訟法の規定に従って、控訴審を開始せずに裁判を打ち切るという決定である。
弁護団はこの決定に対し、同年3月30日に東京高等裁判所へ異議申立てを行ったが棄却された。さらに同年9月15日、最高裁判所は特別抗告も棄却し、松本への死刑判決が確定した。また東京高裁は同年9月25日に控訴趣意書の提出遅延に関して、日弁連に対し「審理の進行を妨げた」として、刑事訴訟法に基づく処置請求を行い、担当した弁護士2人の処分を求めたが、日弁連側は2007年2月15日に処分を行わない決定を下した。なお東京高裁は弁護士会にひきつづき懲戒請求をする方針である。
麻原には12人の子がいる[2]。うち松本知子の子は6人である。
彼の三女(知子の子)は和光大学の入試に合格し、一度は入学を許可されたにもかかわらず、2004年3月12日に大学から入学を拒否された。三女らは和光大学を提訴し、東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じた。
その後、同じく入試に合格していた文教大学からも入学を拒否されたが、学生としての地位保全を求める仮処分を申請。東京地裁がこれを認め、入学拒否は違法であるとの判断が再びなされたため、入学することとなった。
さらに2006年2月7日、今度は次男(知子の子)が春日部共栄中学校に合格したものの、松本被告の息子だという理由で入学を拒否された。次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えを起こした。因みに次男は日本シャンバラ化計画に於いて皇子の称号を与えられていた。
中学校の多くは年齢主義であり、12歳での入学機会を一度逃すと、再受験はさらに困難になる。ただし、麻原の子ではない一般のオウム施設出身者は、神奈川の夜間中学などに受け入れられている場合もあるため、人権侵害ではないかとも言われている。
1990年代前半に多くの著書を出し、ベストセラーになった。中でも『キリスト宣言』は1991年11月の全国月間ベストセラーランキングで3位を記録した。『麻原彰晃の世界パート13・これが尊師!』は1992年2月の全国月間ベストセラーランキングで4位を記録し、以後5月までベストセラーのトップテンにランクインし続けた(ランキングは日経産業新聞に掲載されていたトーハン・日販調べによるもの)。
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