007 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋この項目では作品のタイトルとしてのジェームズ・ボンド(007)について説明しています。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 007 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
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原作者のイアン・ランカスター・フレミングは1908年5月28日ロンドン生まれ。 ロイター通信社の記者、銀行の副頭取などの職業を転々としたのち、第二次世界大戦中はジョン・ゴドフリー提督の助手としてイギリス情報部(SOE―特別作戦部)に所属。対敵諜報工作に携わっており、この経験を活かして007を書いたと言われる。
「ジェームズ・ボンド」という、英語圏ではやや凡庸な印象の強い名前は、戦前の活劇映画的な、華やかな印象の名を、フレミングが意識的に避けたものである。「ジェームズ・ボンド」という名前はフレミングがイギリス情報部在職中のコードネームだったのではないか、といわれることもあるが、フレミングが愛読する「西インド諸島の鳥」の著者で鳥類学者の名前をいただいたというのが定説である。なおシリーズ第20作『ダイ・アナザー・デイ』ではボンドが鳥類研究の本を脇に挟みながら「鳥類学者だ」と身分を偽るシーンがある。
また、前出のイギリス情報部で諜報工作に関わっていた際に、情報部がフレミングに与えたコードネームが『くまのプーさん』の主人公の名前であった事からフレミングが勝手に「ジェームズ・ボンド」を名乗っていた、という説もある。
ちなみに鳥類学者のジェームズ・ボンドは1989年に亡くなった。
フレミングの小説「007シリーズ」は1953年4月13日、イギリスのジョナサン・ケープ社から出版された第1作『カジノ・ロワイヤル』に始まり、1964年8月12日にフレミングが亡くなるまで書き継がれる。
当初はそれなりの評価を得ながらもあまり売れなかった。そのため、フレミングは何度もシリーズを終了しようと考えるが、その度に映像化の話が出てきてシリーズは継続されることになった。本格的に売れ始めるのは1950年代後半で、そのきっかけは、フレミングと縁があったケネディ米大統領が『ロシアから愛をこめて』を愛読書のリストの中に入れたことだった(実際には007を愛読していたのはケネディ夫人のジャクリーンだったとも言われている)。
その作風は、従来のイギリスにおける主流であった重厚なリアリズム派スパイ小説とは対極にあり、華やかで享楽的な設定の中で、アメリカのハードボイルド小説の影響を受けたシビアな暴力やアクションを描くものであった(『カジノ・ロワイヤル』はその好例である)。
しかし、「悪役から美女を救い出す」凡庸なパターンにはまってしまった結果、1950年代末期以降の作品はマンネリ化し、誇大妄想的な設定が多くなった(1959年の『ゴールドフィンガー』など)。
超人的なプレイボーイのスパイをヒーローとし、グラマラスな美女を配した「洗練されたマッチョイズム」の物語は大衆の嗜好に合致し、また冷戦状況下では、東側ブロックを絶対悪に擬す安易な設定が濫用しやすかったことから、1950年代後半以降、膨大な量の007亜流小説が世界各国に氾濫した。映画・コミックへの影響も非常に多大である。
フレミングの死後、イギリスの作家キングスレー・エイミスが未亡人の許可を得てロバート・マーカムの名で『007/孫大佐』を書いた。シリーズ化される予定だったが、評判は芳しくなく、シリーズ化には至らなかった。
1977年には、映画『The Spy Who Loved Me(私を愛したスパイ)』のノベライゼーションが出版された(タイトルはJames Bond, the Spy Who Loved Me)。執筆したのは、脚本を担当した小説家クリストファー・ウッド。クリストファー・ウッドは、1979年に公開された『ムーンレイカー』の脚本も担当。同様にノベライゼーションを手がけた(タイトルはJames Bond and Moonraker)。映画シリーズで、脚本家がノベライゼーションを担当したのはこの二作だけ。
1981年に発表された『メルトダウン作戦 Licence Renewed』から、ジョン・ガードナーがフレミングを引き継ぐ形で「007シリーズ」を再開させた。ガードナーによる新・「007シリーズ」は、当初は好評を得たものの、作品が発表される度に評価は低下していった。独自に展開しているうちに映画シリーズとは全くかけ離れたものになってしまったのが原因と思われる。その後1996年からレイモンド・ベンソンがシリーズ3代目の作家として作品を発表したが、6作目(『赤い刺青の男 The Man with the Red Tattoo』)で007作家を辞めることになった。これを引き継ぐ作家は未定のようである。
なお、2002年にベンソンが『007/赤い刺青の男』を発表した際、日本を舞台とした内容であったことから、日本の一部マスコミが映画の次回作は日本が舞台かと騒いだが、この両者のオリジナル作品が映画化されたことはなく、逆に映画の脚本を基にしたノベライゼーション版をオリジナルに併行して発表しているにすぎない。だが、舞台とされる香川県直島町では町や県を挙げてのロケ誘致をはじめていて、町内には007資料館まで作ってしまうほどの力の入れようである(もうひとつの舞台とされる北海道の登別温泉でも直島ほどではないがロケ誘致が行なわれている)。
日本では井上一夫によってすべてが翻訳された。
『ゴルゴ13』で有名なさいとう・たかをによって劇画化されている。『死ぬのは奴らだ』の敵ボス・ミスター・ビッグがブロフェルドに代わって『女王陛下の007』までのボスを務めるなど、大幅な脚色が施されたものとなっている。 『黄金の銃を持つ男』は、「原作や映画より、面白い」と評価されたことがある(『ファンタスティック・コレクション 007/オクトパシー 007の素晴らしき世界』より)
※すべて「ボーイズライフ」掲載(後に二度コミック化)
「007」は、日本の漫画界にも影響を及ぼしている。さいとう・たかを『ゴルゴ13』は007の内容のように現実からかけ離れた設定ではないものの、「映画『007シリーズ』のエピゴーネン」とまで評されている(実際に著者のさいとう・たかをは先述の通り『007』を劇画化している)。特に、初期作品は007色が濃くなっている。
宝石強盗団とダイアGメンや刑事とのアクション等がある怪獣映画「宇宙大怪獣ドゴラ」など。
モンキー・パンチ原作の人気アニメ『ルパン三世』では、サブタイトルに007の映画題名を使用したものがある(例:『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』第26話「バラとピストル」、第32話「ルパンは二度死ぬ」、第47話「女王陛下のズッコケ警部」、第50話「私が愛したルパン」、TVスペシャル第四弾『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』など。また、TVスペシャル第十五弾『ルパン三世 お宝返却大作戦!!』には、当初『ダイヤモンドは永遠に』という仮題があった)。
ほかにも小説・漫画、メディア作品への影響は強く、「~愛をこめて」「わたしが愛した~」などのフレーズは頻繁に使用されている(例:青池保子「エロイカより愛をこめて」、沢田研二「ヤマトより愛をこめて」(映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』主題歌)など)、森口博子「水の星へ愛をこめて」(アニメ『機動戦士Ζガンダムオープニング』)。
1954年に『カジノ・ロワイヤル』がモノクロ短編テレビドラマ化された(米CBS放送「クライマックス」の1エピソード 主演:バリー・ネルソン 役名は「ジミー・ボンド」でCIAスパイ)が、1950年代を通じてそれ以外の映像化の例は確認されていない。このドラマで敵役ル・シッフルを演じたのは、『M』『暗殺者の家』『マルタの鷹』などの映画で知られる名優ピーター・ローレだった。
その後、1960年代初頭に二人のプロデューサーが007に関心を抱いたことで本格的な映画化が始まった。
1960年頃、フレミングの原作を読んだプロデューサーのアルバート・R・ブロッコリは、「これは映画化に向いている」と感じ、フレミングに交渉を求めた。しかし、フレミングは映像権を一足先にハリー・サルツマンに売り渡していた。ブロッコリは直ちにハリー・サルツマンと接触、二人は手を組んで映画製作会社イオン・プロダクション(EON Productions)を設立し、協力して007映画の製作に当たることになった。
当時刊行されていた007シリーズの小説の中で最初の映画化作品を検討した結果『ドクター・ノオ』が最も映像化に向いていると判断され、ユナイテッド・アーティスツを配給会社に職人肌の監督テレンス・ヤングを当てて映画化した(1962年公開。邦題は『007は殺しの番号』)。
この映画は低予算作品ながらも予想以上の大ヒットとなり、特に主役のジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーはこの一作で成功、ボンドは彼の当たり役となった。モンティ・ノーマン作曲、ジョン・バリー演奏の「ジェームズ・ボンドのテーマ」も大好評で、以後の作品のオープニングでボンドを狙う銃口が逆にボンドに撃たれて血を流すシーン(通称「ガンバレル・シークエンス」)と共に必ず流されるようになった。
この作品のヒットに影響され、1960年代中期には「007もどき」のB級スパイ映画が世界各国で濫造されたが、一つとして007を超える成功を収めたものはなかった。
『ドクター・ノオ』以後、イオン・プロダクションによってプロデュースされる007映画は、主演俳優を幾度か変えつつも現在に至るまで人気シリーズとして存続している。シリーズでも特に有名な作品として、シリーズ第2作『007 ロシアより愛をこめて』(初公開時の邦題は『007危機一発』、1963年)が挙げられる。
1970年代初期以降の作品、特にロジャー・ムーア時代の作品は、フレミングの小説から題名のみを借りたシナリオライターによるオリジナルストーリーで、原作とはほとんど無関係となっている。
内容は、派手な設定とグラマラスなボンドガール、大物俳優のゲスト出演をセットとした、エンターテインメントの王道とも言うべきもので、設定は全般にマンネリズムの傾向が強くなって行く。それが「行き過ぎ」と批判されると、「原点回帰」と銘打って再び初期のようなハードな内容の作品が製作されるが、やがてまた派手なストーリーが製作されるというパターンが繰り返されている。
なお、各作品作成時の国際情勢・各国国内情勢が各作品に多かれ少なかれ影響されてはいるが、トム・クランシーなど国際情勢に精通する一部の人物からは批判的な目を向けられている。しかしながら、各作品は娯楽作品に徹し、敵役は実在の国家政府や犯罪組織、産業、企業などとはかけ離れた存在の設定が多い。
また、冷戦時代の作品でも現実の外交関係を考慮してかソ連政府それ自体を主敵とした作品は少ない。例として1983年のシリーズ第13作『オクトパシー』ではソ連政府の急進派政治家を敵の一つとする、あるいは1964年のシリーズ第2作『ロシアより愛を込めて』では二次的な敵であったため、いずれも「主敵」ではない。ただし、1995年のシリーズ第17作『ゴールデンアイ』では冒頭での任務はソ連の神経ガス工場の破壊任務であったが、これはむしろ冷戦終結後の時代との対比のための設定であろう。逆に1978年のシリーズ第10作『私を愛したスパイ』ではソ連スパイと協力して敵を倒した。冷戦時代、各作品でのソ連などの共産圏の扱いは、「雪解けのバロメーター」とされた。
アルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンは、1970年代初期まで共同プロデューサーを務めていたが、ブロッコリの娯楽路線に原作派で文芸趣味のあるサルツマンは次第に反発するようになる。レン・デイトンが007へのアンチテーゼとして執筆した難解なスパイ小説『イプクレス・ファイル』をマイケル・ケイン主演で『国際諜報局』(監督:シドニー・フューリー、1965年)として映画化させたのは、他ならぬサルツマンだった。
サルツマンの意見を元に製作され、リアリティやロマンチシズムへの傾倒があった『女王陛下の007』の興行成績が芳しくなかった一方、続いてブロッコリの意見を元に製作された荒唐無稽で派手なストーリーの『ダイヤモンドは永遠に』の興行成績が良かったことから、ブロッコリが主導権を握るようになった。
結局、サルツマンはイオン・プロダクションから離脱し、それ以降、イオン・プロダクションはアルバート・R・ブロッコリとその一族が支配することになる。
イオン・プロ製作のシリーズの内、第10作『私を愛したスパイ』までの作品は、一般にイギリス映画と見なされている[3][4]。 主役がイギリスの情報部のスパイであること、イギリス人の俳優や制作スタッフを多く雇用し、ロンドンにあるスタジオで撮影をしていること、そしてプレミア公開が通常ニューヨークに先立ってロンドンで行われ[5]、その多くにイギリス王室のメンバーが列席することなどもその理由である。その一方で、ハリウッドのユナイテッド・アーティスツが、共同製作および配給を行っていることを指摘[6]し、そのために純粋なイギリス映画とは言えないのではないかという意見もある[7]。
『私を愛したスパイ』以後では、『ムーンレイカー』がスタジオ撮影の大半がフランスで行われたことから、英仏合作。ユナイテッド・アーティスツがメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに買収されて以降の『ユア・アイズ・オンリー』から『ダイ・アナザー・デイ』までは、英米合作。その次の『カジノ・ロワイヤル』は英米独チェコの合作とされることもある[8]。
007小説のシリーズ第1作『カジノ・ロワイヤル』は、1960年代、権利関係の錯綜からイオン・プロは映画化権利を押さえることができなかった。
この映画はコロムビアが製作権を獲得し、ジョン・ヒューストンら5人の監督によって共同で映画化された(1967年)。だが実際にはさらに多数の監督が関わっているとも言われ、製作過程は混乱の上に混乱を極めた。デヴィッド・ニーヴン、ピーター・セラーズら実力派の名優を総動員しながら、結果としては原作から別次元に逸脱した奇想天外なドタバタパロディ作品として作られている。ストーリーはもはや筋の通ったものとして理解することは困難なほど破綻しており、最初から最後までギャグとジョークと人を食った展開が連発されるナンセンスものの怪作である。当時のスパイ映画の流行もあってか一応の収益は上げたものの、公開当時は奇異な映画として見られ(後述のとおり音楽など評価された部分も有ったが)、大ヒット作とはならなかった。
だが1980年代以降この作品は、1960年代中期のポップ・カルチャーの影響を色濃く残すユニークな映画としてカルト的評価を受けるようになっており、近年のヒット映画『オースティン・パワーズ』シリーズにも強い影響を与えている。イオン・プロ系007シリーズとは異なった観客層からの評価の高い作品である。
イオン・プロは後に「カジノ・ロワイヤル」の映画化権を取得し、2006年に原作に比較的近いシリアスな設定で映画化した。これは1967年版とはまったくの別物と見なければならない。
1982年に、007映画から離れていたショーン・コネリー主演で『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(アーヴィン・カーシュナー監督)が製作された。タイトルはコネリーの妻がコネリーを激励するために言った一言に由来する。コネリーが「二度とボンドはやりたくない」と言うのに対して、妻は「“決して” とは決して言わないこと」(Never say “never” again) という格言で返して逆にこれを奨めたという。
これは1961年にフレミングが書いた『サンダーボール作戦』(1965年にイオン・プロダクションのシリーズ第4作としてテレンス・ヤング監督、コネリー主演で映画化)のイオン・プロダクションから離れた形での再映画化である。この作品も権利関係の混乱による産物であり、以後、イオン・プロダクション以外で007映画は製作されていない(上記の様な理由から、007映画にはおなじみのオープニングテーマとガンバレル・シークエンスは、本作品には使用されていない)。
2000年頃に『ネバーセイ・ネバーアゲイン』のプロデューサーとソニーが組んで、イオン・プロダクションとは無関係の新007シリーズを製作すると発表した。イオン・プロダクションとメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(ユナイテッド・アーティスツを買収)はこれに反発し、事態は法廷闘争に持ちこまれた。最終的にソニーは新007の製作を断念、その代替としてかヴィン・ディーゼル主演のスパイアクション大作『トリプルX』を製作した。これをシリーズ化するかと見られていたソニーだが、意表を突くかのように経営難に陥ったメトロ・ゴールドウィン・メイヤーを買収したため、ソニーは本家『007』映画の製作に携われるようになった。
映画シリーズは当初からタイトル・デザインのユニークさでも知られた。タイポグラフィ(字体)が変幻自在なソウル・バスやカイル・クーパーとは異なる独自のスタイルが今日まで一貫している。
第1作『ドクター・ノオ』ではスタンリー・ドーネン作品で知られていたモーリス・ビンダーを招聘した幾何学パターンを用いたアニメーション作品。第2~3作ではロバート・ブラウンジョンが女性の身体に文字や作品のワンシーンが投射されるという奇抜な映像を提供し、女性をモチーフにしたエロティックなスタイルが確立された(ブラウンジョンはタイトル・デザイナーとしては寡作で、007シリーズ2作の他には『スパイがいっぱい』(1965年)と『将軍たちの夜』(1967年)があるだけである)。
第4作『サンダーボール作戦』からはビンダーが再び担当し、女性のシルエットを多用したスタイルが続くが、1991年にビンダーが亡くなり、『ゴールデンアイ』以降はビンダーの助手で1980年代からマドンナやヴァン・ヘイレンのミュージック・ビデオを多数手がけているダニエル・クラインマンが、デジタル合成を駆使しつつビンダー/ブラウンジョンのスタイルを受け継いだ。
なお、シリーズ各作品のガンバレル・シークエンスで、拳銃をしっかり狙って構えていたボンドは、ピアース・ブロスナンとダニエル・クレイグだけである。他のボンドたちは、よく見ると相手を正確に狙った構えができていないのだが、これはご愛敬であろう。
ボブ・シモンズは発砲が早い、ショーン、ジョージ、ロジャー(2種類とも)、ティモシーは位置が低い。
007映画は、テーマ音楽・挿入歌にも秀逸なものが多いことで知られている。
イオン・プロダクションの007シリーズはモンティ・ノーマン作曲による「ジェームズ・ボンドのテーマ (James Bond Theme)」と、初期~中期の音楽監督ジョン・バリーのオーケストレーションが007サウンドの基本スタイルを作り上げた。
(わずかな例外を除けば)メインタイトルバックにはボーカル入りのテーマ曲がかかるのが通例になっており、時代ごとの一流ミュージシャン・歌手が参加。映画とともにテーマ曲もヒットした。
イオン・プロ以外の007映画の音楽