JR福知山線脱線事故 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋JR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年4月25日午前9時18分頃に西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線尼崎駅~塚口駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 JR福知山線脱線事故 出典: 『はてなダイアリー』 関連商品
JR福知山線脱線事故被害者有志 /
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脱線した207系電車(塚口側)
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JR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年4月25日午前9時18分頃に西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線尼崎駅~塚口駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。
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列車は塚口~尼崎駅間の曲線で脱線し、先頭の2両が線路脇のマンションに激突した(概要の節で詳述)。また事故を起こした列車は、直前の停車駅である伊丹駅で停車位置通過および超過(オーバーラン)を起こしていたことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされる。さらに、JR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置き石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置き石や自転車などの障害物を置くといったことも相次ぐ。
報道では、事故が起こった路線名の表記が分かれた。朝日新聞と神戸新聞、サンテレビは「JR宝塚線(福知山線)」の愛称を使用しているが、それ以外のマスメディアでは正式名称の「福知山線」を使用している。
事故は、JR福知山線の兵庫県尼崎市久々知の半径300mの右カーブ区間[1](塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。
事故列車は宝塚発JR東西線経由片町線(学研都市線)同志社前行きの上り快速電車(5418M列車、7両編成(前4両は、網干総合車両所に所属の神ホシZ16編成207系0番台(クハ207-17+モハ207-31+モハ206-17+クハ206-129)同志社前行き。後ろ3両は、同所所属の神ホシS18編成207系1000番台(クモハ207-1033+サハ207-1019+クハ206-1033)京田辺行き。))である。列車の前5両が脱線して先頭2両は線路横の9階建てマンションに激突し原形をとどめない形で大破した。
事故発生と同時刻には並行する下り線に、新大阪発城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であったが、事故を目撃した近隣住民の機転により近くの踏切の非常ボタンが押されて特殊信号発光機が点灯したために運転士が異常を察知し、およそ100m手前で停車して防護無線を発報している。そのために、二重事故が回避されている。事故後、現場の半径300mの曲線区間は制限速度70km/hから60km/hに、手前の直線区間は120km/hから95km/hへとそれぞれ変更された。なお、これはカーブ区間においては、運輸省令における制限速度算式での300R97Cの制限74km/h台を5km/h単位に丸めて制定したものであるから、安全に掛かる技術的な必要性から制限を厳しくしたわけではない。
事故列車は4両編成と途中の片町線(学研都市線)京田辺駅で切離す予定であった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目に、列車の運行状態(非常ブレーキ作動の前後5秒間)を逐一記録する「モニター制御装置」の装備があり、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。ただし、これが直ちに脱線時の速度を示しているとは限らない。
先頭車両が脱線、急減速した影響で車列が折れ、連結器部分で折り畳まれるような形になったために玉突きになって被害が拡大したものとされる。
当時、事故車両の1両目は片輪走行で左に傾きながら、マンション脇の立体駐車場と同スペースに駐車していた乗用車を巻き込みマンション1階の駐車場部分へと突入して壁にも激突。続く2両目も片輪走行しながら、マンションに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に追突されたことによって、建物に巻きつくような形で大破。3両目は進行方向と前後が逆になる。4両目は、3両目を挟むようにして下り方向(福知山方面)の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止した。
救助作業は、駐車場周辺においてガソリン漏れが確認されたため引火を避ける目的や被害者の安全のためにバーナーや電動カッターを用いることができないことにより難航する。また、3両目から順に車両を解体する作業を伴い、昼夜を問わず24時間続けられ3日後の4月28日に終了した。
近隣住民への二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は、死者107名(当該電車運転士含む)、負傷者562名[2]を出す未曾有の大惨事となった。犠牲者の多くは1両目か2両目でほとんどが多発外傷や窒息で亡くなっていて、クラッシュ症候群も確認されている。死者数においてJR発足後としては1991年の信楽高原鐵道での衝突事故(死者42名)を抜いて過去最大となり、鉄道事故全般で見ると戦後以降(旧国鉄時代含む)では桜木町事故(106名)を上回り、八高線の列車脱線転覆事故(184名)・鶴見事故(161名)・三河島事故(160名)に次いで4番目、戦前・戦中に遡っても7番目(関東大震災時の根府川駅被災(112名)を含む)となる甚大な被害を出した。
後に、事故では負傷しなかった同列車の乗客やマンション住人、救助作業に参加した周辺住民なども心的外傷後ストレス障害を発症するなど大きな影響を及ぼした。
また、マンションには47世帯が居住していた。倒壊した場合などに備えてJRの用意したホテルなどへ避難して、2世帯が残っていたが8月上旬までに順次マンションを離れていった。
阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の経験が生かされ、迅速な対応が行われた。事故発生当時、いち早く現場へ駆けつけて救助にあたったのは近隣の人々であった。負傷者の半数近くは近隣の人々が医療機関に搬送しており、震災当時にみられたボランティアの精神が生かされている。後に、救助・救援活動の功績を讃えて、同年7月に76企業・団体と1個人に対して国から感謝状が、8月には48企業・団体と34個人に対して兵庫県警から感謝状が、9月には32企業・団体と30個人に対して尼崎市から感謝状がそれぞれ贈呈された。また、11月には1企業と1個人に対して紅綬褒章が授与された。
また、救急医療関係者が事故現場周辺に展開して大量の負傷者が発生した場合のトリアージを実施している。事故から約2時間後には、尼崎市により事故現場至近の中学校が開放され、避難所として利用されたほか、緊急車両の待機場や消防防災ヘリコプターの臨時ヘリポートとして活用された。兵庫県は緊急消防援助隊の応援要請、広域緊急援助隊の出動要請、また現場に近い伊丹に駐屯する陸上自衛隊第3師団への災害派遣要請をそれぞれ行った。
広域消防相互応援協定により、複数自治体から応援があった一方で、負傷者の搬送先はそのほとんどが兵庫県下の病院となった。尼崎市と隣接する大阪府への搬送は転院が中心であり、直接の搬送は数件にとどまる。
兵庫県警および航空・鉄道事故調査委員会による事故原因の解明が進められ、2007年6月28日、最終報告書が発表された。[3] 航空・鉄道事故調査委員会の認定した脱線の原因については脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、右R304m のカーブに時速 約 116km/h で進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した、という典型的な単純転覆脱線であったと結論付けた。なお、参考までに当初疑われた原因を列記するが、そのほとんどは最終報告書ではそれを裏付ける傍証は明示されなかった。
事故発生当初は、現場に大破した乗用車の存在と列車の脱線の事実のみが伝わったことから、「踏切内で乗用車と列車が衝突し、列車が脱線した」との憶測が飛び交うなど情報が錯綜した。そしてJR西日本の当初発表が「踏み切り内での乗用車との衝突事故」であったため、報道各社はこのJR西日本発表を流した。塚口駅から同列車が脱線した地点までの区間に踏切は1つも存在しておらず、また乗用車が近隣の建造物や立体駐車スペースから線路内へと落下した痕跡も確認されなかったことから否定される。報道各社はJRが発表しているとの理由で、テロップや配信ニュースでは乗用車との衝突事故との表現が続けられ、乗用車との衝突が否定された後も誤った情報を流しつづけたことをすぐに説明しなかった。
JR西日本は事故発生から約6時間後の25日15時の記者会見の中で「粉砕痕」の写真を報道機関に見せるなどして、「置石」による事故を示唆した。しかし、JR西日本の置石説発表後に国土交通省が調査が済んでいない段階での置き石であるとの断定を否定する発言を行い、JR西日本も原因が置き石であるかのような断定を撤回する発言を行う。
その後、調査が進み、事故列車の直前に大阪方面へ向かう北近畿6号が通過するなど列車の往来が激しい区間であることから、多数の置き石をするのが困難であること、置き石の目撃者がいないこと、当初「置石」があった証拠として挙げられたレール上の「粉砕痕」は、航空・鉄道事故調査委員会の調査結果でその成分が現場のバラスト(敷石)と一致し、「脱線車両が巻き上げたバラストを、後部車両が踏んで出来たものと考えるのが自然である」との調査委員会の見解が出された。
しかし、巻き上げられたバラストがレール上で踏まれたなら当然に残るはずの、枕木上のバラストがあまり残っていないことなどから一般には疑問も残り、事故後しばらく事故の影響とみられる置き石事件で捕まる者が相次いだ。
速度の記録から、現場の制限速度を大幅に超えた走行をしていたことが判明している。
事故を起こした列車は、直前の停車駅である伊丹駅で約70mオーバーランしたため、伊丹駅を1分30秒(異説あり)遅れで発車していた。また、始発の宝塚駅や次の停車駅である川西池田駅に入線する際にも、それぞれ停止位置を間違える等、極めて不自然な運転を繰り返していたことも判明している。運転士がその遅れを取り戻そうと制限速度を超えた可能性がある。
現場のカーブは前述の通り半径300メートルで制限速度は時速70km。当該線区に設置されていた自動列車停止装置 (ATS-SW) はJR西日本では最も古いタイプのものとされ、あたかもこれが事故を防げなかった原因であるかのような報道がされているが、当該装置でも速度照査用の地上子等の設備を設置すれば速度照査機能の付加は可能であり、ATS-SWそのものが直ちに事故原因に繋がる訳ではない。ちなみに事故現場には速度照査用の地上設備は設置されていなかった。
また、当該線区には新型のATSである自動列車停止装置 (ATS-P)の導入が予定されていたが、ATS-Pでも速度照査用の地上設備が設置されていないと、速度超過した列車を自動で減速あるいは停止させることはできないのは、ATS-SWと同様である。
速度超過から脱線に至る原因は、せり上がり脱線説と横転脱線説の大きく2つの説があるが、レールの傷跡から後者と断定される。
カーブ通過中に運転士が非常ブレーキをかけて車輪が滑走した場合、車輪フランジの機能が低下して脱線に至る可能性が大きいという説があり、当初、非常ブレーキを掛けなければ脱線および横転の可能性は少なかったといわれた。 のちの解析の結果、運転士はカーブ進入後車体が傾きだしていたのにもかかわらず常用ブレーキを使用していたことが判明。非常ブレーキは脱線・衝突の衝撃で連結器が破損したことによって作動していた。
また、それ以前に運転士が数回にわたって非常ブレーキを掛けていた原因は、0番台の車両と1000番台の車両のブレーキの掛かり方の違いによるものであるという見方もある。0番台と1000番台ではブレーキの動作が違っているため、207系の運転経験がある運転士は(他形式とは違い)20メートルほど手前から転がして微調整をかけるような運転の仕方が必要と話す。
運転士が、カーブ手前でそれに気づき非常ブレーキをかけたために(後に否定される)車輪のフランジとレールとの間で非常に強い摩擦力が起き、2000年3月8日に発生した「日比谷線事故」と同じような車輪がせり上がって脱線した「せり上がり脱線」が起こり事故がおきたという見方もある。 しかしながら、通常のせり上がり脱線が発生するためには車輪に非常に高い横圧がかかることが必要で、現場の半径300メートルのカーブ程度では通常は考えにくい。
とはいえ、現場の枕木に残された走行痕からせり上がり脱線(乗り上がり脱線)も起きたことは事実であろう。これは転覆に至る過程で、車軸が傾いたことによってレールに対する実質のフランジ角が減少して比較的低い横圧でもせり上がり脱線に至ったのではないかという見方がある。
また、あるところでは、せり上がり脱線ではなく上記に示したとおり「非常ブレーキ」の作動によって列車のバランスが崩れ、進行方向(尼崎方面)向かって右側の車輪が浮き上がりそのまま左側に倒れ込んだ「横転脱線」ではないかとする見方もある。しかし、前述のとおり、乗務員が使用したのは「常用ブレーキ」であり、「非常ブレーキ」が作動したのは脱線によって連結器が破損した後であると判明している。
複数の乗客から「油くさい臭いがした」「異常な揺れを感じた」との証言があり、事故発生直前に車掌からも輸送指令に「(揺れがひどく)列車が脱線しそうだ」と無線連絡していたことから、新幹線などの高速車両にも搭載されている横揺れを抑える「油圧ダンパー(ヨーダンパー)」が故障していたのではないかとの説がある。
油圧ダンパーの故障で空気バネをうまく制御できなかった事により、直線区間で異常な揺れが発生し(油圧ダンパーや空気バネが正常であれば高速走行をしても極端な揺れなどは感じない)カーブに入ったときに「空気バネの跳ね返り現象」(油圧ダンパーが故障していたことにより、カーブ突入時に本来内側に傾いたままであるはずの車体がバネの跳ね返りで外側に傾いてしまう現象)が起こり、車体全体が外側に傾いていたときに、たまたま運転手の焦りから通常減速すべきカーブを減速しないで加わった強力な横の重力もあって転覆に至ったのではないかとされている。しかしながら、ヨーダンパが故障していたならば、当然にレールに残る周期的な変形は、航空・鉄道事故調査委員会の調査によって確認されなかったことから脱線の主要因とは挙げ難くなっている。
油圧ダンパーが故障したとすると、空気バネの制御ができなくなるのと関連してブレーキの制動具合にかなりの影響を与えるという意見がある。つまり、乗客が多い場合と少ない場合で同じ位置に停止させようとすると異なるブレーキ力を働かせなければならないので、その調整を空気バネの制御で行っているのである。今回の事故において空気バネの制御ができなくなっていたとするとブレーキの作動が非常に悪くなっていた可能性があることが専門家から指摘されている。
ただし、本来油圧ダンパーと空気バネは独立したものであり、207系自体、また類似構造の台車を履く221系も当初ヨーダンパーを装備していなかったことから、ブレーキの効き具合にも直接の影響はないといえる。
同事故においては多くの問題が指摘された。
(参考―フランスのTGVでは、開業当時の線路と最寄の住居の距離は150mだった。-出典『科学大辞典-MEGA』講談社)
この事故により福知山線の宝塚駅~尼崎駅間で運転が休止された。また、同線を経由する形で運行されている特急列車(北近畿、文殊、タンゴエクスプローラー)も福知山駅以北の区間のみの運行となった。なお運休による減収は1日約3000万円が見込まれている。
復旧工事は同年5月31日から開始された。その後、同年6月7日から試運転を開始。2006年3月までの暫定的な運転ダイヤグラムを提出し、同年6月19日午前5時、55日ぶりの全線運転再開となった。
福知山線の運転休止期間中、福知山線沿線である三田・宝塚・川西・伊丹周辺と、大阪・神戸周辺を結ぶ経路において、振り替え輸送が実施される。
事故後、福知山線利用者の多くは競合している阪急電鉄の振り替え輸送を利用し、事故から約1か月後の5月23日には阪急ホールディングスが1日平均で約12万人の乗客を振り替え輸送していることを発表した。
阪急電鉄を利用する方法で大阪と宝塚の間を移動する場合、所要時間そのものは福知山線を利用した場合に比べて約10分多く要する程度であるが、これに乗車駅や降車駅での乗り換え・乗り継ぎに要する時間がそれぞれ加わることによって、合計で20~30分程度の時間が余分に必要となり、通勤・通学など利用者の大きな障害となる。
また、振り替え輸送を行った路線では、事故以前からの既存利用者にも列車・バスの車内や駅などの混雑という形で影響が及び、ゴールデンウィークがあけた5月9日からは、混雑緩和のため阪神電気鉄道や同線に至る路線などが新たに追加された。
振り替え輸送の他にも不通特約の切符を発行する措置もした。不通特約の切符とは、みどりの窓口の駅員が普通の切符に赤いペンで手書きで「不通特約」と書いただけの切符のことで、この切符は福知山線経由と同じ料金で山陰本線などのほかの路線経由で目的地まで向かうことができる。主に宝塚~尼崎間またぐ長距離の利用客に発行された。発行された例として、山陰本線京都駅経由の新大阪~福知山がある。
復旧工事は5月30日午前8時から始まる予定であった。しかし、周辺の住民の同意を十分に得ないまま工事が行われようとしたとして一部から抗議が寄せられたため、工事は午前9時頃から中断し、30日の工事は中止になった。30日はJR西日本の担当者が周辺の住民を戸別訪問し了解を取る作業を続ける。住民の同意が得られたとして工事が31日午後1時から始まり6月3日に終わる。そして、住民への戸別訪問による工事終了の説明をして完了する。
6月7日以降に行われた。7日には221系網干総合車両所A9編成・201系同所C32編成による走行試験、8日には207系同所F1編成によるATS-P作動試験が行われた。
JR西日本は電車が激突したマンションを買い取り、慰霊碑を建てることを検討していると発表した。しかし、マンションの住民のうち買い取りを望んでいない住民もいる。現場の保存も検討しているとした。
2006年春までに解決する予定とのことであったが、2008年8月現在、現場マンションは取り壊されていない。
運休が2か月近くに及んだため、駅周辺の商店街の利用者が激減し、営業時間の短縮・休業により商店街への売り上げの影響を受けている。福知山線の駅周辺の商店街が経営難に陥り閉店する恐れがあると懸念されていると報道された。
この事故で復旧するまでの間、JRと阪急の駅の客足が大きく変化している。伊丹市の玄関口は阪急伊丹駅が震災で全壊したのを期にJRの伊丹駅に移り、事故後にJRが不通になると阪急伊丹駅の乗客数は震災前の乗客の多かった時期を超えて増え、事故前の乗客数23000人に対し事故後は47000人と阪急にシフトしている。駅ビルのおよそ1200台収容できる地下駐輪所はすぐに埋まり、自転車放置禁止の場所にまで駐輪する者がでてきている。しかし、JR伊丹駅周辺のおよそ2000台収容できる駐輪所はガラガラの状態であった。JR伊丹駅周辺のダイヤモンドシティテラス(現イオンモール伊丹テラス)も、JRを利用して訪れる客は2割はいるので影響を被っていて、事故後に1割ほど減っている。
被害があまりにも甚大だったため、経営陣の引責辞任は不可避であると見られていたが、後継人事は難航した。 結局、2006年2月1日付で南谷昌二郎会長と垣内剛社長は退任し、事故後就任した山崎正夫副社長が社長に昇格、外部(住友電工)から会長として倉内憲孝を迎えることになった。 なお、相談役であり、国鉄民営化の立役者としてJR西日本への影響力が強かった井手正敬もその職を辞した。
テレビ各局は事故がおきて約一時間後、通常放送を中止し、報道特別番組に切り替えたり、番組の内容をすべて変更して列車事故に関するニュースを19時まで報じた。関西の一部民放局では19時以降も通常番組を中止し、報道特別番組を放送した。
「ATS-Pが導入されていたら速度超過で自動的にブレーキがかかるので事故は防げた」という報道が多くなされた。しかしATS-Pだけでなく旧型のATS-SWであっても速度照査の機能は比較的安価に追加可能であって、事故現場にそれが設置されていなかったのが問題である。だがマスメディアは速度照査についてJR西日本が導入を予定していたATS-Pを主にとりあげ、ほかの型の速度照査についてあまり詳しく説明しなかった。
事故直後のマスメディアの報道は、事故当日に同社社員が救助や阪神・淡路大震災以来の待機体制である「第1種A体制」を優先せずにボウリング大会などの懇親行事を取りやめずに開催して、時間とともに事故の規模が判明していき犠牲者も増えているのにもかかわらず中止せず、ボウリングをどのような様子でしていたのか、居酒屋などで4次会までしてどのような飲食をしたのかといった事故をおこした会社の社員としての自覚や事故の原因究明、再発防止をないがしろにしていないかと懐疑的な報道をした。それは行き過ぎたJR西日本叩きであって、事故再発防止のための正しい報道であったとは言いがたいのではないかといった声も大きくある。
また、全国各地での直ちに危険に繋がるものではないオーバーランや数メートル程度のささいなオーバーランも昔から日常的に発生しているものであるが、この事故を契機に、各地で相次いだ事件とインシデント(事故を引き起こす危険性が高い事態であったが、実際には事故にならなかった案件)が連日取り上げられて報道される。
この事故の夜のJR西日本の記者会見で、読売新聞の記者が感情的発言を繰り返し、会見をテレビニュースやウェブ等で見た視聴者などからの苦情・抗議などにより他のマスメディアからも批判を受ける。
さらに、事故当時、一部のマスメディアが取材ヘリを現場に飛ばし、救出活動を妨げた(要救助者の声や生体反応をローター音で遮ってしまう)。これは新潟県中越地震でも一度問題になっていた直後だったため、ウェブにおいてさらなるマスコミ批判を呼んだ。また昼夜問わず取材ヘリを飛ばしたため近隣住民の迷惑ともなり、重ねてウェブにおいてマスコミ批判を呼んだ。
また、事故後の報道でも関西テレビは在阪他局の比べてJR西日本叩きとも取れる報道を繰り返している。(ちなみに関西テレビは阪急阪神東宝グループである。)これについてはインターネット上でも批判されている。
脱線事故を受け、社内運動部であるJR西日本硬式野球部はすぐに活動自粛を発表、7月には日本野球連盟に休部届を提出して、現在も活動休止状態にある。毎年行われていたJRグループの対抗戦も中止となった。
この事故は、海外でも大きな反響を集め、各国の報道機関が報道している他、ジャック・シラク・フランス大統領、ヨシュカ・フィッシャー・ドイツ外務大臣、コンドリーザ・ライス・アメリカ合衆国国務長官、王毅・中華人民共和国大使も日本政府に弔意を表明した。
事故発生後、これに関連・便乗した事件が発生している。以下はその一部である。