NTV紅白歌のベストテン とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋NTV紅白歌のベストテン(エヌティーヴィーこうはくうたのベストテン)は、1969年10月6日から1981年3月30日まで日本テレビで放送された歌謡番組。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ウィキペディア(Wikipedia)記事
NTV紅白歌のベストテン(エヌティーヴィーこうはくうたのベストテン)は、1969年10月6日から1981年3月30日まで日本テレビで放送された歌謡番組。
番組概要1969年10月6日放送開始。毎週月曜20:00~20:56放送。「NHK紅白歌合戦」を毎週お茶の間にという発想から始まり、「紅白歌合戦」と「ベストテン」を組み合わせた当時としては画期的かつ異色とも言える音楽番組だった。また、番組のタイトルは、当時TBSで放送されていた「TBS歌のグランプリ」を意識したものと思われるらしい。放送形式は原則として公開生放送(東京・渋谷公会堂)。おそらくこの番組は、クロスネット局で月曜20時に日本テレビが選択される原因となった番組と思われる。本家「紅白」同様、紅組、白組に分かれて対決を行う。司会者は白組、紅組それぞれのキャプテンを務める形式。番組にオープニングテーマ曲(エンディングでも使われていた)があるが、いかにも緊迫感に欠ける歌詞であった(歌詞についてはノート参照)。しかも、かなり破天荒な歌い方をされていた。 白組のキャプテンは堺正章が番組終了まで務めた。紅組キャプテンについては最初は水前寺清子が勤めていたが、1970年にスタートした「ありがとう」(TBS)への出演や地方公演、TV番組出演の関係でスケジュール調整が困難となり、程なく降板。その後暫く決まったキャプテンはおかれず、毎週出場歌手から1人がキャプテンを務めていた。その後は、今陽子、岡崎友紀らが紅組キャプテンを担当した。 1978年10月2日の放送分からは、音声がステレオ放送になっている。これは同年9月28日、日本テレビが日本で初めて音声多重放送の実用化試験放送を開始したことに伴うもので、テレビの歌謡番組でのステレオ化は最も早かった方である。(ちなみに、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」も、同年10月2日にステレオ化されている。) 主な出演歌手はアイドルが中心となり、演歌がそれに続いた。フォーク、ロック、ニューミュージックは稀であった。白組では新御三家の野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹が毎週交代で出演し、演歌では五木ひろしが常連であった。紅組はこれに対抗して花の中三トリオの森昌子、桜田淳子、山口百恵が出演し、演歌では八代亜紀が常連となっていた。和田アキ子の出演も意外と多い。 本家「紅白」同様、紅白両軍の応援合戦もあり、ダンスやバンド演奏、物真似芸などその演目は多岐に渡った。さらに出演歌手の本性を暴く『ウソ発見器』や、紅組VS白組で、他の歌手に扮装してのものまねをする対決なども見所であった。 1975年頃から毎年7月頃に、上半期にデビューした新人歌手が集合し、点数で評価され、合格点に満たないと歌えない企画があった。点数はネット局の地区別に集計され3度のチャンスがあり、1巡目で合格する歌手もいれば、最後まで歌えずじまいになる歌手も出る残酷さで、日本テレビ音楽祭の前哨戦でもあった。 また後番組の「ザ・トップテン」や「歌のトップテン」同様中学校・高等学校の修学旅行の定番コースになったりもした。その際はオープニングでキャプテンが観覧に来た学校を紹介し、その学校の生徒がリアクションをとるのが定番だった(これについては後番組の「ザ・トップテン」でも行っていた)。 ただ、既に同じ月曜日に人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)があり、当代の人気歌手や大物は「夜ヒット」の出演を優先させることが多かった事や、1973年の「ナベプロ事件」(後述)のために、出場歌手の調達に相当苦労しており、このことについては後年、堺正章は「出演者ががら空きになってしまい、3曲歌ったことも時折あった」と回顧している。 番組の最後で日テレスタジオのいわゆる「ベストテン本部」から発表される得点発表は系列局ごとに電話で行われ(いわゆる「電話審査員」)、支持する系列局が多いチームが優勝となり、くす玉が割られて、紙吹雪と風船と紙テープが降り、キャプテンに優勝カップが手渡される。そのベストテン本部には、徳光和夫(この番組以降バラエティに転向する)、福留功男などが担当していた。 ほかに小林完吾が「ウソ発見器」ナレーターをそれぞれ担当していた。また、初期には作曲家・山本直純が審査判定役として出演していた。これは、山本が前述のオープニングテーマの作曲を担当したためと思われる。 キャプテンとして約12年出演した堺と最後の1年間紅組キャプテンを担当した榊原は、そのまま後番組の「ザ・トップテン」の司会として残ることになる。進行担当の徳光も後番組「ザ・トップテン」のコーナー出演者で残り、その後は「歌のトップテン」「歌のワイド90分!」といった日本テレビの歌番組の司会を務めた。 それから13年後の1994年3月31日。「木曜スペシャル」の最終回で「今夜復活!!紅白歌のベストテン」と銘打ち、一夜限りの復活を遂げた。ちなみにそのときの会場は渋谷公会堂ではなく後楽園ホールだった。 セリフ
(紅組キャプテン&堺)「皆さーん、こんにちわーっ!!」(観客)「こんにちわーっ!!」
(紅)「それではそろそろまいりましょうか!}(堺)「NTV」(紅)「紅白歌の」(紅&堺&観客)「ベストテーン!!」
(堺)「あっ、さてぇ~」※このセリフは、小林完吾アナの名ゼリフとして知られているが、堺の方が早かった。
歴代キャプテン(司会者)
渡辺プロ事件1973年、番組史を揺るがす一つの事件が起きた。この番組の同時間帯に渡辺プロダクションがNETテレビ(現・テレビ朝日)とタッグを組み、新規に裏番組(『スター・オン・ステージ あなたならOK』)を水面下で計画し、それをぶつけてきた(これは、渡辺プロ以外の芸能プロダクションへも人気スターを供給し、芸能界におけるテレビ局優位の端緒となった日本テレビ制作『スター誕生!』に対抗する意図もあった)。 これを知った日テレの井原高忠制作局次長(当時の同局の音楽・バラエティ番組制作部門の責任者)は渡辺プロと話し合いをしたが、渡辺プロ側は「それじゃあ、お宅の番組を打ち切ればいいじゃないか。」と主張し、さらに日テレサイドに対して、「放送時間をずらさないのであれば今後、ベストテンにうちのタレントは出演させない。」と通告してきた。日テレは、渡辺プロ側の要求を受け入れて『ベストテン』の放送時間帯を移動するか、この挑戦を受けて立つかの選択を迫られた。井原は後者を選択し、真っ向からこの挑戦を受けた。 日テレは渡辺プロとの共同制作の金曜日午後10時からの新番組の予定を白紙にし、その時間帯を使い『金曜10時!うわさのチャンネル!!』を開始した。この番組には渡辺プロのタレントを一切出演させなかったが、視聴率30%台を記録することもあった(また、裏番組であるTBSの『水戸黄門第4部』も高視聴率をたたき出していた)。これに対し「あなたならOK」は惨憺たる低視聴率で、番組そのものも半年で終了してしまった。 この結果、井原は見事に渡辺プロに勝利した。 なお、この間も『TVジョッキー』や『特ダネ登場!?』など井原が関わっていなかったバラエティ番組、読売テレビなどの系列局が制作した番組には、引き続き渡辺プロのタレントが出演していた他、渡辺プロ傘下の渡辺企画と日本テレビはテレビドラマを共同制作していた。 番組の終焉10年以上にわたって放送され人気を博したが、1979年~1980年ごろからテレビ朝日『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』やTBS『ナショナル劇場』に視聴率を奪われ、マンネリ化となってテコ入れを余儀なくされたが回復せず、1981年3月に放送を終了、『ザ・トップテン』に引き継がれた。 主なスタッフ放映ネット局
脚注
関連項目番組の移り変わり
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