RCサクセション(あーるしーさくせしょん、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。
忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す。) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。
また、彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。
現在は、1991年より無期限の活動休止状態になっている。
概要
メンバー
- 忌野清志郎 : ボーカル、ギター / 1968年〜
- 小林和生(林小和生、リンコ・ワッショー等ともクレジット): ベース、コーラス / 1968年〜
- 破廉ケンチ:ギター、コーラス / 1968年〜1977年
- 仲井戸”CHABO”麗市 : ギター、ボーカル、コーラス / 1978年〜
- 新井田耕造 : ドラム / 1978年〜1990年
- 小川銀次 : ギター / 1979年〜1980年
- Gee2wo(ゴンタ2号、G2、柴田義也ともクレジット): キーボード、コーラス / 1980年〜1990年(正式メンバーとなる前に数年サポートメンバーを務めている。)
サポートメンバー
- 春日博文 : ギター、ドラム / 1978年および1990年〜1991年
- 厚見玲衣 : キーボード / 1990年〜1991年
- 三浦友和 : パーカッション / 1970年代前期
- 佐山雅弘(セクシー佐山を名乗っていたこともある) : キーボード / 1975年頃
- 鈴木ウータン正三 : ドラム / 1975年頃
- 阿部昇 : ギター / 1976年頃
- 土井耕太郎 : ドラム / 1977年頃
その他のメンバー
エレキ化以降のレコーディング、ライブでは、ホーンセクションとして梅津和時と片山広明ら(時期によって他のメンバーが入ることもあった)が「生活向上委員会」(後に「ブルーデイ・ホーンズ」に改名)のユニット名で参加している。
楽曲
特徴
基本的には忌野が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジして演奏、レコーディングを行う。自作・自演し、自分たちでアレンジまで行うというスタイルは今でこそめずらしくないが、1970年代初期ではまだ異例のことであった。忌野一人による制作曲の他、時期によっては仲井戸や小林、Gee2woらとそれぞれ共作も行っている。
音楽性、歌詞の世界観などは「忌野清志郎」の頁を参照。
また、アルバム『BLUE』以降は、1つのアルバムに1曲は仲井戸が作詞・作曲を行いボーカルをとった曲が収録されている。
代表曲
「僕の好きな先生」「スローバラード」「ヒッピーに捧ぐ」「雨あがりの夜空に」「トランジスタラジオ」「君が僕を知っている」「キモちE」「多摩蘭坂」「つ・き・あ・い・た・い」「ドカドカうるさいR&Rバンド」「SUMMER TIME BLUES(カバー)」「ラブ・ミー・テンダー」「I LIKE YOU」など。
来歴
1966年 中学の同級生だった忌野、小林、破廉の3人でバンド「ザ・クローバー」を結成する。
1967年 高校進学によりザ・クローバー解散。忌野と小林は、上級生の武田清一 (後に「日暮し」でデビュー。) を迎えて「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (「クローバーの残党」の意) 」を結成。初めてギャラをもらう仕事をする。
1968年 「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅の後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション(「クローバー〜からの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名する。[2] [3] RCサクセション誕生。
1969年 テレビ番組『ヤング720』(TBS系)のオーディションに合格。続いて8月29日、東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで3位に。この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。
1970年 「宝くじは買わない」で東芝音工(現東芝EMI)よりシングルデビュー。
1971年 RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォークグループ古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。
1972年 ラジオ番組『ハロー・パーティ』『バイタリス・フォーク・ビレッジ (後に、『ライオン・フォーク・ビレッジ』に改題) 』などへ出演を始める。3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。1stアルバム『初期のRCサクセション』をリリース。
1974年 当時のマネージャー奥田義行が事務所(ホリプロダクション)に造反し独立してプロダクション「りぼん」を設立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。
1976年 ホリプロダクションから「りぼん」へ移籍。前年に既に制作済みだった3rdアルバム『シングル・マン』がようやくリリースされるも、1年後に廃盤となってしまう。破廉は精神状態が不安定になりギターが弾けない状態となる。
1977年 破廉が正式脱退。
1978年 春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる。(当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。さらに、新井田、仲井戸が正式に加入しRCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。忌野は髪を短く切って逆立て派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。
1979年 春日に代わって小川が加入。RCはそのライブパフォーマンスが評判となり、マスコミで度々取り上げられるようになる。ジョニー・ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立つ。音楽評論家の吉見佑子らが3rdアルバム『シングル・マン』の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足、ポリドールとの折衝が繰り返された結果、自主制作という形で300枚限定で異例の再発売が決定する。
1980年 渋谷のライブハウス「屋根裏」で4DAYSライブを開催。述べ800人の観客動員数を達成し同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。渋谷公会堂でのシーナ&ロケッツ、バウワウとのジョイントライブも約2000人の観客動員を達成。RC人気に火がつく。『シングル・マン』が正式に再発売される。エレキ化後のデビュー盤となる『RHAPSODY』をリリース。半年以上のロングランヒットとなる。同アルバムリリースと前後し、小川が脱退。替わってそれまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。
1981年 初の日本武道館単独公演。この年を始めとしてその後10年間連続で武道館クリスマスライブを行う。この年はその他にも年間100本近いライブを行う。[4]
1982年 忌野が坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)と組んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒット。PVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻する。 RCとしては同年、サム・ムーア、チャック・ベリーらとのジョイントライブを開催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。ロンドン・レコードに移籍。自身のレーベル「BARCA」を設立。
1985年 事務所「りぼん」から独立。自分たちの事務所「うむ」を設立。西武劇場(現PARCO劇場)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」を開催(泉谷しげる、坂本龍一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加)。
1988年 東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。
1989年 HARD TIMES LIVE ツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。また、レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。
1990年 Gee2wo、新井田が相次いで脱退。現段階でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ行い、以降(翌年)のツアーはすべてキャンセルされる。
1991年1月 無期限活動休止に入る。事務所「うむ」は解散。
詳細・エピソード
結成 〜 デビュー「宝くじは買わない」 (バンド黎明期)
- 使用楽器、バンド編成はアコースティック(フォーク)ながら、ヘヴィゲージの弦を張ったギターを叩くようにかき鳴らして発せられる楽曲は、コード進行やハーモニー、スリリングなギターソロなど既にR&B、ロックに近いものであった。 (後に発表された、初期の曲を集めた編集盤アルバムのタイトルが『ハードフォーク・サクセション』となっていることからも当時から音楽性が日本のフォークソングとはまったく異質であったことが伺える。)
- 活動拠点としていた「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。[5]
- 既にこの頃のセットリストには、「ファンからの贈り物」「ダーリンミシン」「うわの空」「マリコ」「君が僕を知っている」等、後年レコーディングされた曲のタイトルが見られる。
- デビューシングル「宝くじは買わない」は、当時のマネージャーであった金田が連れてきた伊勢田トリオというグループをバックに演奏したが、最終的にレコードになったときにはスタジオミュージシャンのテイクが使われた。[6]
『初期のRCサクセション』 〜 『楽しい夕に』 (アコースティック期)
- 1stアルバム『初期のRCサクセション』は、レコードの音源に自分たちの意図しない勝手なアレンジがほどこされていたために不満を感じる。そのため2ndからは自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始め、後年まで外部プロデューサーの介入を避けるようになる。
- 1970年代初期の未発表ライブ音源が『ロック画報2002年第10号』の付録CDに収録されている。曲は、「つまらない仕事」「ぼくとあの娘」「忙しすぎたから」「内気な性格」「もっと何とかならないの?」「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」の6曲。選曲は忌野自身が行い、マスタリングには忌野と破廉が立ち会った。[7]
- 忌野の高校の同級生である俳優の三浦友和は、『初期のRCサクセション』に収録の「言論の自由」にボンゴで参加している。彼はステージにもよく加わることがあり、また一時期破廉と同居するなどかなりRCと親交が深かった。
- 忌野が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、井上陽水と「帰れない二人」を共作。もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された井上のアルバム『氷の世界』 (1973年) がミリオンセラーとなる。
- 1974年、ホリプロダクションのプロデューサー奥田義行が、当時大ブレーク中だった井上陽水を連れてホリプロを離れ独立事務所「りぼん」を設立。この造反行為に激怒したホリプロは、奥田の子飼いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。RCはスタッフも仕事も与えられず飼い殺し状態となる。
- この頃、3枚目のアルバム『シングル・マン』を録音するも、事務所の移籍トラブルによりお蔵入りになってしまう。
『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期)
- 1975年、仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。
- 1976年、ホリプロとの契約が切れ、正式に「りぼん」に移籍。
- レコード会社を東芝音工からポリドールに移し、3年1ヵ月ぶりのシングル「スローバラード」、3年4ヵ月ぶりの3rdアルバム『シングル・マン』をリリース、さらにキティレーベル(後のキティレコード)に移籍してシングル「わかってもらえるさ」を発売するも、すぐにそれらのレコードは廃盤となる。
またアルバムには「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書いてある。
- アルバム『シングル・マン』のジャケットに使われているイラストは幼児児童絵画統覚検査図版(金子出版)のもの。元本は忌野自身が探してきた。なお、当アルバムのジャケットに使われているRCサクセションのロゴも忌野がデザインしている。
- 忌野の愛車日産・サニーが廃車となる。この車をモデルとして「雨あがりの夜空に」の歌詞が書かれた。[9]
- 当時唯一の活動と言ってもよかったのが他のミュージシャンの前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「早く消えろ」等の罵声を浴びせられることが少なくなかった。矢沢永吉の前座で出演した際にはRCが登場するやいなや「帰れ」コールが浴びせられたため、忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。永ちゃん、いま楽屋でクソしてまーす」と発言。客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を食らう。[10]
「ステップ」 〜 『BLUE』(復活・ブレイク期)
- 1979年、3年8ヵ月ぶりのシングル「ステップ!」を発売し、再デビューする。しかしこのシングルも、まだメンバーの演奏力を信用しきれていなかった制作担当者によりスタジオミュージシャンのテイクが採用されている。
- 「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」等、後に日本のロック・クラシックと言われるヒットシングルを連発。パンク・ロック的なスピード感とR&Bに影響を受けた楽曲、グラムロックやミック・ジャガーを彷彿させるドギツいメイクでのステージが話題になる。忌野がオーティス・レディングの言葉を日本語にしてステージ上で観客へ呼びかけた「愛しあってるかい?」というフレーズは一世を風靡。
- 「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出現するに至って、音楽誌のみならず『アサヒグラフ』や『anan』、『宝島』、各新聞などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会現象とまでなる。1980年7月20日付の朝日新聞の社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」とまで評される。
- アルバム『RHAPSODY』リリース後、バンド名を変えようという話もあったが、「いちおうこれだけ続いたバンド名なんだから」という理由で却下される。
『BEAT POPS』 〜 『King of Live』(絶頂期)
- 関川誠編集長のもと、パンク、ニュー・ウェーブ系の音楽雑誌となっていた雑誌『宝島』で、日本のロック・バンドのシンボル的存在として何度も取り上げられる。特に忌野は「ロック少年・ロック少女たちのカリスマ的存在」となり、漫画等にも忌野をモデルとしたと思われるキャラクターが描かれるようになる。
- 1982年、生放送番組「夜のヒットスタジオ」に出演した際、忌野が曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に「ふざけるな」など抗議の電話が殺到。その数は500本近くに上ったと言われている。
- アルバム『OK』は、RC初の海外(ハワイ)録音。飛行機嫌い、海外嫌いだった仲井戸が初めて海外に行った。感想は「けっこういいとこだったよ。外には出なかったけど」。
- アルバム『OK』制作時頃より、忌野の体調が最悪の状態になる。ジャンクフード、ドラッグ漬けの生活といった長年の不摂生、ライブとレコーディングに追われる過密スケジュール、風呂なし極貧アパートでの不衛生な生活という低待遇など無理が重なったためと思われ、検査の結果、医者に「君の肝臓は一生治らない」と宣告される。
『FEEL SO BAD』 〜 『Tears of a Clown』(激動期・その1)
- 1982年、レコード会社をロンドン・レコードに移籍。
- 1984年、ロンドン・レコードの日本法人が成績不振のために解散し、ロンドン・レコードはポリドールレコードに吸収される。RCは古巣の東芝EMIに移籍。
- 事務所が勝手にRCの原盤をNEWSレコードへ提供しベスト盤『EPLP2』とオムニバス盤『MIX&MIXER』を発売。だが、それらの発売に関しミュージシャン当人たちに事前に許可が取られていなかったこと、RCが嫌悪していたNEWSレコードから発売されたことに対してメンバーは激怒。当時NEWSレコードの幹部だった山本コータローや松山千春をステージ上で猛烈に批判し、ファンに「(NEWSレコードから出た)“アーティスト非公認盤”を買わないように」と発言する。また、以前から燻ぶっていた事務所「りぼん」の営利第一主義的な経営姿勢に対する不信感、RCへの低待遇の不満に加えて、これらずさんな著作権管理に怒りが爆発。アルバム『FEEL SO BAD』の曲中で所属事務所とその社長を公然と批判し一時訴訟沙汰となる。
- 1985年、トラブルの末、「りぼん」から独立。自分たちの事務所「うむ」を設立。
- 忌野の肝臓が奇跡的に回復、心身ともに充実するようになる。
- 仲井戸麗市が初ソロアルバム『THE仲井戸麗市BOOK』をリリース。
各ソロ活動等(停滞期)
- 1987年、イギリスのパンク・バンド、ブロックヘッズのメンバーをバックにした忌野の初ソロアルバム『RAZOR SHARP』がリリースされる。忌野は同メンバーを従え全国ツアーも行う。それに伴いRCの活動は一時休止状態となる。(当初、RCとしてイギリスでレコーディングする話が持ち上がっていたが、忌野以外のメンバーが海外録音を拒否したためとも言われる。[11])
『MARVY』 〜 『コブラの悩み』(激動期・その2)
- 1988年、反戦・反核をテーマにしたカバーアルバム『COVERS(カバーズ)』とシングル「ラブ・ミー・テンダー」を制作するも、発売元の 東芝EMIの親会社・東芝が原子力関連企業でもあったため、歌詞が問題視され急遽発売中止になる。東芝EMIは全国紙 (毎日新聞、朝日新聞、読売新聞) で「素晴らしすぎて発売できません」との広告を打つ(これは忌野が東芝から「企業の倫理とかいうのがあってどうも…、素晴らしすぎて出せない」と発売の中止を告げられたことを受け、「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新聞に出してくれ」と言ったことによる。[12])。急遽レコード会社を古巣キティレコードに変えて発売されたこのアルバムは、話題性もあり皮肉にもRC初のチャート1位を獲得する。この事件に関しては、『COVERS』の頁に詳細を記述。[13]
- アルバム『COVERS』の発売中止から、2ヵ月後の8月15日にライブを行い、この模様を収録したライブアルバム『コブラの悩み』をその年の12月にリリース。演奏曲目はほとんどが怒りをストレートに表現したもので、「発売中止騒動の時のマスコミの対応」や「東芝」を痛烈に批判した(ただし、このアルバム自体は東芝EMIからリリースされている)。
- ライブアルバム『コブラの悩み』には、同アルバム中唯一のスタジオ録音である「君は Love Me Tender を聴いたか?」がアルバムラストに曲の冒頭部分のみ収録されている。この曲は、発禁問題を引き起こした「Love Me Tender」に対するセルフ・アンサーソングであるが、核心部分を語ろうとする「あの歌は、…」という歌詞のところで音声が途切れ終わっている。なお、1988年のクリスマス武道館ライブではこの曲がフルバージョンで披露された。内容は、「反原発ロック」などというレッテルを貼られた曲に対するシンパシーや、たかが一曲の歌ごときにレコード会社やマスコミなどの大企業が政治力まで使い圧力をかけてくることやことほどさように大騒ぎすることの愚かさ、日本の社会の未熟さを皮肉った内容となっている。結局フルバージョンはCD化されていない。
『Baby A Go Go』(終焉期)
- 1990年、メンバー間での話し合いの末、Gee2woが脱退(趣味に夢中になり過ぎ練習をすっぽかすことが度々あったこと、小林らとの音楽的な志向性の違いがあったことなどが主要因と言われている)[14]。以降、キーボードにはVOW WOWの厚見玲衣がサポートで参加することになる。
- 『Baby a Go Go』の制作中、ミキサー(ヘンリー・ハーシュ、デイヴィッド・ドマーニッチ)と忌野が、曲によってドラマーを春日博文や外部のドラマーに変えたいという方針を打ち出したことに新井田が反発、RCを脱退する[15]。結果、RCは忌野、仲井戸、小林の3人編成となる。
- 忌野、仲井戸、小林の3人で現時点でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。ヘンリー・ハーシュら外国人プロデューサーを迎えアナログ制作にこだわって作られたこのアルバムは高い評価を得る。
- 1990年12月25日の日本武道館ライブを最後にRCとしての活動を休止。事務所「うむ」は解散となる。
その後 〜 現在
- 活動休止以来RC名義の活動はないものの、忌野と仲井戸はライブでたびたびRC時代の楽曲を共演している。また、忌野のソロアルバムに仲井戸がゲスト参加したり、楽曲を共作したりしている。
- 2007年12月8日、日本武道館での『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に、忌野、仲井戸、新井田、厚見によるベースレスという変則的な形態で出演(名義は「忌野清志郎+仲井戸麗市」)。RCゆかりのメンバーのみで再集結し、圧倒的な演奏力で健在ぶりを見せ付けた。
- 2008年2月のライブ『忌野清志郎 完全復活祭 武道館』にて忌野、仲井戸、新井田、厚見、梅津、片山らの共演が実現。メンバー紹介で忌野が新井田耕造の名前を告げると日本武道館がひときわ大きな歓声に包まれた。[16]
その他のエピソード
- アルバム『EPLP』は、EP(シングル)盤で発売した曲を集めた編集盤。EPの曲を集めて作ったLP(アルバム)だから『EPLP』。これに関連し忌野は、音楽メディアがレコードからCDに切り替わった当時、「そのうちに『ABCD』っていうCDを誰か出すんじゃないか」と言っていたが、後年自身でミニアルバム『abcd』を出している。
- アルバム『COVERS』以前からも忌野が書く歌詞は再三物議をかもしている。
- シングル「ボスしけてるぜ」は、ボス (経営者) に給料を上げてくれないとやる気が起こらないと平社員の青年が懇願する内容。この歌詞に眉をひそめた中小企業の経営者たちからの苦情により銀座地区など歓楽街で流される有線放送で放送禁止になってしまう。
- アルバム『BLUE』に収録の「あの娘のレター」は曲中「ポリ公」という歌詞がレコ倫に引っかかったためその部分の音声にノイズが被せてある。歌詞カードでも伏字にしてあるが、「ライブでは勝手に歌わせていただきます」という旨の注釈がついている。
- 「お墓」は、フォーク時代からの重要なレパートリー曲でありアルバム『シングル・マン』に収録予定だったが、タイトルが忌み嫌われ収録を見送られた。結局正式にレコード化されたのは、その7年後にリリースされたアルバム『OK』においてである。なお、歌詞の内容は、自分の元を去った恋人への失望からその恋人との思い出のある街には二度と行くことはない、そこは自分の心が死んだところであり心のお墓が立っている、というものである。
- ライブアルバム『the TEARS of a CLOWN』に収録された「君はそのうち死ぬだろう」は、ノイローゼ気味となった友人を逆説的に励ますための曲だったが、内容的にまずいということで歌詞カードには載せられなかった。
- 曲に歌われた多摩蘭坂は、東京都国立市に実在する坂。RCファン、忌野ファンの聖地となっている。近くの大学生が通学時に上るときに「坂がきつくてたまらん!」と言ったことが地名の由来。以前は坂の途中の石垣にRCファンによって「清志郎」などの落書きがあったが、現在は取り壊されマンションが建っている。
- 『PLEASE』収録の「あきれてものも言えない」は、RCの暗黒期に事務所のスタッフにハッパをかけようとして泉谷しげるが言った「清志郎はもうだめだよ、立ち直れねえよ」という言葉を人づてに歪曲して聞いた忌野が激怒して作った曲。歌詞の「どっかの山師が 俺が死んでるって言ったってさ」の部分を、ライブでは足の不自由な泉谷のことをあからさまに侮蔑する歌詞に替えて歌っていた。[17]
- 1990年、RC20周年記念で出版された『遊びじゃないんだっ!(マガジンハウス)』の表紙および帯には、「RCサクセションの40年・上巻」「下巻は2010年の発売です」というジョークが書かれていた。それからはや18年が過ぎ2010年は目前だが、下巻が発売されるのかは不明。
- 忌野のソロアルバム『夢助』に収録された「激しい雨」は、忌野と仲井戸が共作した楽曲。歌詞の中で「RCサクセションが 聴こえる RCサクセションが 流れてる」と歌っている。
- BOØWYの氷室京介は、1981年のRC野音ライブを観て、バンド結成を思い立ったとインタビューで語っている。
- その他の詳細エピソードについては、忌野清志郎の頁を参照。
ディスコグラフィー
シングル
- 宝くじは買わない / どろだらけの海 (1970.03.05) - 両面共編集盤のみに収録。
- 涙でいっぱい / イエスタディをうたって (1970.12.05) - 両面共編集盤のみに収録。
- ぼくの好きな先生 / 国立市中区3-1(返事をおくれよ) (1972.02.05)
- キミかわいいね / あの歌が想い出せない (1972.07.05) - 両面共編集盤のみに収録。
- 三番目に大事なもの / けむり (1972.12.20) - 両面共編集盤のみに収録。
- スローバラード / やさしさ (1976.01.21)
- わかってもらえるさ / よごれた顔でこんにちは (1976.10.11)
- ステップ! / 上を向いて歩こう (1979.07.21)
- 雨あがりの夜空に / 君が僕を知っている (1980.01.21)
- ボスしけてるぜ / キモチE (1980.05.21)
- トランジスタ・ラジオ / たとえばこんなラブソング (1980.10.28)
- サマーツアー / ノイローゼ・ダンシング(CHABOは不眠症) (1982.06.23) - カップリング曲はアルバム未収録。
- つ・き・あ・い・た・い / 窓の外は雪 (1982.12.15) - カップリング曲はアルバム未収録。
- Oh! Baby / ダンスパーティー (1983.06.01) - カップリング曲はライブアルバムのみに収録。
- ベイビー!逃げるんだ。 / おはようダーリン (1983.11.07) - 両曲ともアルバム未収録。
- 不思議 / 甘いシル (1984.07.21) - カップリング曲はアルバム未収録。
- すべてはALRIGHT(YA BABY) / 春うらら (1985.04.21) - 「すべては〜」は、CD化された後の『HEART ACE』に収録。カップリング曲はアルバム未収録。
- スカイ・パイロット / LONELY NIGHT(NEVER NEVER) (1985.11.21)
- NAUGHTY BOY / DIGITAL REVERB CHILD (1988.03.25)
- ラブ・ミー・テンダー / サマータイム・ブルース (1988.08.15)
- I LIKE YOU / 忠実な犬(1990.09.05)
- スローバラード (RE-MIXED VERSION) (1991.02.06)
アルバム
- 初期のRCサクセション(1972年2月)
- 楽しい夕に(1972年12月)
- シングル・マン(1976年4月、再発売1980年8月)
- ラプソディー(1980年6月) - 久保講堂でのライブにスタジオ作業を加え完成されたエレキ化後の初アルバム。後にフルバージョンが収録された「ラプソディー・ネイキッド」も発売。
- PLEASE(1980年12月)
- BLUE(1981年11月)
- Yeahhhhhh...at武道館(1982年4月) - カセットテープのみの発売。未CD化。
- BEAT POPS(1982年10月)
- THE DAY OF R&B(1982年12月)- サム・ムーア、チャック・ベリーとの共演盤
- OK(1983年7月)
- THE KING OF LIVE(1983年) ライブ盤。
- FEEL SO BAD(1984年11月)
- HEART ACE(1985年11月)
- NAUGHTY BOY (1986年4月) - 新曲2曲とリミックス曲2曲を収録したミニアルバム。未CD化。
- the TEARS OF a CLOWN(1986年10月) ライブ盤。
- MARVY(1988年2月) オリジナルアルバムとしては初の2枚組アルバム。
- COVERS(1988年8月)
- コブラの悩み(1988年12月) ライブ盤。
- Baby a Go Go(1990年9月)
- RHAPSODY NAKED(2005年10月) - 1980年4月、久保講堂でのライブをほぼそのまま収録した完全版。ライブ盤。
主な編集盤
- EPLP(1981年6月)
- ハードフォーク・サクセション(1982年3月) - 「どろだらけの海」「イエスタディをうたって」「キミかわいいね」「あの歌が想い出せない」「三番目に大事なもの」「けむり」収録
- EPLP-2(1984年7月) 廃盤
- BEST OF RC SUCCESSION 1970-1980(1990年11月)
- BEST OF RC SUCCESSION 1981-1990(1990年11月)
- ソウルメイツ(1995年9月)
- SUPER BEST(1998年12月)
- ゴールデン☆ベスト(ユニバーサル編)(2002年6月)
- Wonderful Days 1970-80(2005年6月) - 「宝くじは買わない」「涙でいっぱい」「キミかわいいね」収録。
- Greatful Days 1981-90(2005年6月)
ビデオ・DVD
- RC SUCCESSION AT BUDOHKAN (1982年3月) - 1981年に行われた初の武道館公演の映像。
- THE KING OF LIVE (1984年4月) - 1983年のクリスマス武道館公演。「ベイビー! 逃げるんだ。」のビデオクリップも同時収録。
- SPADE ACE (1985年12月) - 『FEEL SO BAD』と『HEART ACE』からのビデオクリップ集。企画、演出は川崎徹。
- the TEARS OF a CLOWN (1986年11月) - 1986年、恒例の夏の日比谷野音ライブの模様を収録。4DAYSの映像を巧みに組み合わせまとめてある。
- コブラの悩み (1989年1月) - 1988年8月の日比谷野音ライブの映像。『COVERS』騒動の直後のライブであり、会場全体が異様な熱気に包まれている模様が収められている。
- ミラクル 20th Anniversary (1990年11月) - 1990年8月の日比谷野音ライブの映像。RC20周年記念にふさわしい選曲となっている。なお、新井田、Gee2wo脱退後であるためドラムとキーボードはそれぞれ春日と厚見が務めている。
- RHAPSODY 〜the video〜 (1994年6月) - レコード会社の倉庫に眠っていたアルバム『RHAPSODY』の映像版。
- THE ROCK'N' ROLL SHOW 80/83 (1998年7月) - 1984年発売の『THE KING OF LIVE』と1994年発売の『RHAPSODY 〜the video〜』をリマスター、2in1にしてDVD化したもの。
- ライブ帝国 RCサクセション (2003年10月) - 1980年代後半、テレビ神奈川で放送されたTVライブの模様を収録。
- ライブ帝国 RCサクセション 80's (2003年11月) - テレビ神奈川で放送されていた『ファイティング80's』で放映された1980年〜1981年のライブ映像。
- ライブ帝国 RCサクセション 70's (2003年12月) - テレビ神奈川で放送されていた『ヤングインパルス』の1972年4月〜9月のパフォーマンスを収録。
脚注
- ^ 忌野清志郎の公式HP「地味変」のUNIT紹介の項目には、①忌野、林小、破廉(1968〜1977) ②忌野、林小、仲井戸、新井田、小川(1977〜1979) ③忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wo(1980〜1989) ④忌野、仲井戸、小林、春日、厚見(1989~1990) 以上4つの形態が「RCサクセション」として紹介されている。
- ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談
- ^ エレキ化後のブレイク期に「ある日(バンドを)作成しよう」をもじった言葉遊びという説が広く流布したが、現在ではこれはテレビ番組で忌野が冗談で発言したものがそのままメディアで取り上げられたことによる誤解であるとされている。その他、商業的成功者を揶揄する「ラジオコントロールされた成功者」の意味(ただし本来「succesion」に「成功者」の意味はない)など、その奇妙なバンド名ゆえに名前の由来に関しては諸説多数が流れている。
- ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して
- ^ 泉谷しげる自伝『わが奔走』(ロッキングオン)
- ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談
- ^ ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」
- ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談
- ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』
- ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』
- ^ 生卵(河出書房新社)
- ^ 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」
- ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して
- ^ 日々の泡立ち 真説RCサクセション
- ^ 日々の泡立ち 真説RCサクセション
- ^ 「メンバー紹介の時のお客さんからの反応、ドラマー冥利につきました。自分自身としてはちょっと意外な感じでしたが、嬉しい驚きでした。 応援してくれた皆さん、ありがとうございました。」新井田耕造オフィシャルHPより。
- ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談
RCサクセションに関する主な文献
- 愛しあってるかい(JICC出版局 1981年)
- 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ、六興出版 1987年・河出文庫 2000年)
- GOTTA!忌野清志郎(忌野清志郎伝、角川文庫、1988年)
- 遊びじゃないんだっ!(RCサクセション20周年記念、マガジンハウス、1990年)
- 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、ロッキング・オン、1991年)
- 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」(角川書店、1992年)
- 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念 河出書房新社、1995年)
- 瀕死の双六問屋(忌野によるエッセイ集、光進社、2000年)
- ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」(ブルース・インターアクションズ、2002年)
- 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して(宝島社、2006年)
ほか
RCサクセション関係外部リンク

All text is available under the terms of the
GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの記事を複製、改変、再配布したものにあたり、
GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
ことなびに掲載されているウィキペディアの記事も、全て
GNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。