W3事件 とは?ページ内リンク ↓ウィキペディア(Wikipedia)記事 ↓Yahoo!知恵袋W3事件(ワンダースリーじけん)は、1965年に漫画業界で起きた事件である。 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 ウィキペディア(Wikipedia)記事W3事件(ワンダースリーじけん)は、1965年に漫画業界で起きた事件である。
概要手塚治虫は週刊少年マガジンの1965年13号から『W3』の連載を開始したが、同誌に『宇宙少年ソラン』が連載される事を手塚が嫌い、W3はマガジンへの連載を6回で終了した。その後、設定が少し変更され、ライバル誌であった週刊少年サンデーでの連載が開始された。週刊少年サンデー版は完結に至った。 手塚はW3のためにリスのキャラクターを考案していたが、アニメ作品の『ソラン』に酷似したリスのキャラクターが登場するのを知ったため、リスをウサギに変更していた経緯がある。これを手塚は真似されたと感じていたようだ。 リスのキャラクターが時空を駆け抜けるというプロット自体は、戦前のアサヒグラフに連載されていた『正チャンの冒険』に前例がある。この事件は、手塚が虫プロダクション(旧社)の経営問題を抱えていた時期と重なる。テレビアニメと漫画の関係、アイデア段階での機密保持の問題が絡み合った事件である。 (注:1965年の段階では、ジャングル大帝などを製作するなど(旧社)虫プロの経営状況は悪化には至っておらず、上記文章では「経営問題」の意味が誤解されるかもしれない。) 事件の影響W3事件、看板連載『8マン』の不祥事による連載中止、ちばてつやの『ハリスの旋風』の長期休載といった事態が重なり、週刊少年サンデーの部数50万部に対して、週刊少年マガジンは30万部と大差をつけられる。その責任を取る形で、マガジンの井岡秀次編集長は辞任。それまでの手塚治虫はサンデーの中心的存在であり、『W3』は手塚の週刊少年マガジン初登場作品だった。この連載開始は、手塚治虫の獲得が創刊以来の悲願だったマガジン編集部の要請に応えたものだったが、この打ち切り事件で両者の関係は一気に冷却化。1969年と1970年に短編1作ずつを別冊少年マガジンに執筆したが、マガジン本誌は手塚と絶縁。1974年に関係修復して読切『おけさのひょう六』や『三つ目がとおる』を載せるまで、9年間に渡り手塚が週刊少年マガジンに登場することはなかった。 井岡の後を継いでマガジン編集長に就任した内田勝は、劇画路線を推進。さいとう・たかを、水木しげるといった貸本劇画で活動していた作家を積極的に起用した裏には、W3事件で手塚への反発心があったと内田は述べている。さらに1966年開始の『巨人の星』で梶原一騎を看板作家に掲げた以後の週刊少年マガジンは、青年向け路線で劇画ブームを巻き起こして、手塚に対抗していった。 手塚治虫の発言(要約)自分はテレビアニメとして自分の漫画を原作にした『ナンバー7』という作品を作成予定だったが、他の制作会社がよく似た企画を立てているということで、内容を変更して秘密機関員、星光一の活劇アニメとし、重要な脇役として超能力を持つボッコというリスを考案した。 ところが、アニメ作品の『宇宙少年ソラン』にボッコと酷似したチャッピーというリスが出ているというので、リスをウサギにし、カモ、ウマを加え、更に光一の弟、真一を加え内容を大幅に変更してアニメ『W3』をなんとか形にした。 その様な経過があり、『ソラン』に対する敵愾心を持っていたところに、漫画『W3』を連載していた週刊少年マガジンに漫画『宇宙少年ソラン』を連載するというので、漫画『W3』は打ちきった。『W3』に対しては愛着があったので、その後、筋書きを変えて週刊少年サンデーに最初から連載した。(『鉄腕アトムクラブ』1965年9月号)
『ソラン』の連載が、『W3』と同時期に講談社の少年マガジン(手塚はK社のM誌と表記)で連載されるまでの経緯はほぼ同じである。その後、手塚は連載開始直後に、『ソラン』だけは載せないよう編集部に申し入れをしたが、講談社が『ソラン』の連載を始めたため、『ソラン』を載せるなら『W3』はやめると手塚が申し出たところ、講談社は『ソラン』を選択し、『W3』の打ち切りを通告してきたという。『ソラン』を勧めたスポンサーが講談社にとって上得意であることは当時手塚は認識しており、「この件では責任は誰にもない」と述べている。一方で「くやしくて一晩泣いた」とも述べている(1978年発表『手塚治虫アニメ選集5 W3・バンパイヤ・新宝島』)。
他の関係者の見解虫プロダクション社員として脚本を執筆し、『宇宙少年ソラン』を放映したTBSにも出入りしていた後にSF作家として活躍する豊田有恒がスパイと疑われ、これにより豊田は虫プロを離れることとなった。この件につき豊田は『日本SFアニメ創世記』(TBSブリタニカ、2000年)で、自分が犯人ではなく悪気のない他の作家のファン気質による行為が結果的に情報漏洩に繋がった、と自らの見解を述べている。 その他の関係者の証言は、豊田と親しかった虫プロ文芸部の石津嵐による『秘密の手塚治虫』(太陽企画出版、1980年)、当時の少年マガジン編集部宮原照夫による『ビッグコミックONE』(2004年10月1日号・小学館)など。 関連文献
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